○あの頃のことを思い出す瞬時がある・・・・・
宗教法人との確執がいよいよ本格的になって、教師としての身分が危うくなり始めた頃、打たれ強かったはずの自分が結構うち沈んでいることに気づいて愕然とした。まわりの風景の色彩がまったく消え去った。大袈裟に書いているのではない。すべての色彩が消え失せて、薄い灰色になった。
四輪駆動車をぶっ飛ばして、琵琶湖のあちこちの波打ち際で、ぼんやりとしていることが多くなった。当時の琵琶湖はどこへでも車で波うち際まで行けた。いまは、規制が厳しくてそれもかなわぬのだろうと思う。狭い私学の空間の中に閉じ込められていると、いくら外部との接触が多い仕事をやっていても、やはり僕だって自分の身分、僕が最も嫌悪していたはずの、宗教法人が支配する学園の看板を背負わなければ、自分の信用も築けないほどに堕落していた感を拭えない。要するに、言葉どおりの捨て身になりきれてはいなかったのである。教師という身分を奪われたら、47歳にもなって、いったいどうして食っていくことができるのだろうか?という、いまにして思えばつまらない煩悶に身もだえていたのである。恥ずかしい話である。
海外のあやしげなサイトから、法律違反ぎりぎりのクスリを個人輸入した。飲まずにおいておいたら、いく箱もたまる。その年の年末に、憂愁な気分に負けた。よく確かめもせずに、あやしげなカプセルに手を出した。ハイテンションになるどころか、数時間後には、前後不覚になった。気分が悪く、1時間以上も嘔吐し続けた。冷や汗が出たと思ったら、次は高熱にうなされた。数時間我慢したが、さすがに危険を感じて、当時の女房に救急車を呼ぶように訴えたら、彼女はなかなか動こうとしなかった。すでに冷え切った関係だったし、彼女にしてみれば、僕の置かれていた危険な状況など知りもしなかったから、たぶん、クスリなんかで救急車を呼ぶとクビになりかねない、と直感したのだろう。ほんとはもっとアブナイ状況に僕はいたのに。自分で電話したら、すぐに入院ということになった。覚せい剤かなにかだと思ったのだろうか、医者も不親切極まりない、どうでもよい治療しかしなかった。クスリの内実が分からないのだから、使うべき抗生物質の特定も出来なかったわけで、生理的食塩水だけの点滴で放置されたのも致し方なかったのだろう、といまにして思う。発熱と嘔吐感で3日間唸った。医者が警察に通報したらしい。4人やって来て、事情聴取された。クスリのことでやられるか、と思ったら、ネット犯罪の聞き取りだった。申し訳程度に来ていた女房は、病院だというのに、海外の土産に買って帰ったポワゾンの薬草ぽい匂いをプンプンさせながら、ブルっていた。僕はといえば、ポワゾン(皮肉な香水の名前だな、ほんとに)のキツイ匂いで、嘔吐感が高まるばかりだった。
その頃、強度の不眠症にて、内科で処方されていた睡眠薬を飲まずには眠れなかったので、二日間苦しい中でも、一睡もしていなかった。医者からその薬を飲むように指示が出た。薬はもううんざりだったので、飲むのを拒否していたら、女房が飲むようにと説得し始めた。僕にはまるで彼女の言葉が耳に入らず、飲まずにいたら、ヤンキーふうの化粧をした看護婦さん(やっぱり看護師というよりは、女性は看護婦、男性は看護夫がよろしいな)がやって来て、飲むように説得された。大袈裟ではなくて、天使のような(天使がどんなものかまるでわからないが)声に、唐突に涙が出た。おいおい泣いた。睡眠薬も飲んだ。傍で見ていた女房の表情は歪んでいた。当然だろうな。
退院して、3日遅れのおせち料理は、味がしなかった。カスカスという音がしたような気がした。最悪の正月だった。その年の6月という、教師にしては中途半端な時期に、体よく学校を追放された。依願退職扱いだったから、離婚しようとしていた女房は喜んだろうな。退職金が出るんだから。全部もってけよ、って言ったらほんとに全部持っていった。
朔太郎だったか、佐藤春夫だったのか、どちらでもないのか、失念した。ともかく逆説的に「春は憂鬱な季節だ」と言った言葉が頭の片隅に残っているが、僕にとっての6月は文字どおり憂鬱な季節である。梅雨が憂鬱なのではない。6月の出来事が憂鬱にさせるのである。とりとめもないことを書いたのは自覚しているけれど、それでも書き遺しておこうと思う。これを読む人は迷惑なんだろうな。ごめんね、みなさん。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
宗教法人との確執がいよいよ本格的になって、教師としての身分が危うくなり始めた頃、打たれ強かったはずの自分が結構うち沈んでいることに気づいて愕然とした。まわりの風景の色彩がまったく消え去った。大袈裟に書いているのではない。すべての色彩が消え失せて、薄い灰色になった。
四輪駆動車をぶっ飛ばして、琵琶湖のあちこちの波打ち際で、ぼんやりとしていることが多くなった。当時の琵琶湖はどこへでも車で波うち際まで行けた。いまは、規制が厳しくてそれもかなわぬのだろうと思う。狭い私学の空間の中に閉じ込められていると、いくら外部との接触が多い仕事をやっていても、やはり僕だって自分の身分、僕が最も嫌悪していたはずの、宗教法人が支配する学園の看板を背負わなければ、自分の信用も築けないほどに堕落していた感を拭えない。要するに、言葉どおりの捨て身になりきれてはいなかったのである。教師という身分を奪われたら、47歳にもなって、いったいどうして食っていくことができるのだろうか?という、いまにして思えばつまらない煩悶に身もだえていたのである。恥ずかしい話である。
海外のあやしげなサイトから、法律違反ぎりぎりのクスリを個人輸入した。飲まずにおいておいたら、いく箱もたまる。その年の年末に、憂愁な気分に負けた。よく確かめもせずに、あやしげなカプセルに手を出した。ハイテンションになるどころか、数時間後には、前後不覚になった。気分が悪く、1時間以上も嘔吐し続けた。冷や汗が出たと思ったら、次は高熱にうなされた。数時間我慢したが、さすがに危険を感じて、当時の女房に救急車を呼ぶように訴えたら、彼女はなかなか動こうとしなかった。すでに冷え切った関係だったし、彼女にしてみれば、僕の置かれていた危険な状況など知りもしなかったから、たぶん、クスリなんかで救急車を呼ぶとクビになりかねない、と直感したのだろう。ほんとはもっとアブナイ状況に僕はいたのに。自分で電話したら、すぐに入院ということになった。覚せい剤かなにかだと思ったのだろうか、医者も不親切極まりない、どうでもよい治療しかしなかった。クスリの内実が分からないのだから、使うべき抗生物質の特定も出来なかったわけで、生理的食塩水だけの点滴で放置されたのも致し方なかったのだろう、といまにして思う。発熱と嘔吐感で3日間唸った。医者が警察に通報したらしい。4人やって来て、事情聴取された。クスリのことでやられるか、と思ったら、ネット犯罪の聞き取りだった。申し訳程度に来ていた女房は、病院だというのに、海外の土産に買って帰ったポワゾンの薬草ぽい匂いをプンプンさせながら、ブルっていた。僕はといえば、ポワゾン(皮肉な香水の名前だな、ほんとに)のキツイ匂いで、嘔吐感が高まるばかりだった。
その頃、強度の不眠症にて、内科で処方されていた睡眠薬を飲まずには眠れなかったので、二日間苦しい中でも、一睡もしていなかった。医者からその薬を飲むように指示が出た。薬はもううんざりだったので、飲むのを拒否していたら、女房が飲むようにと説得し始めた。僕にはまるで彼女の言葉が耳に入らず、飲まずにいたら、ヤンキーふうの化粧をした看護婦さん(やっぱり看護師というよりは、女性は看護婦、男性は看護夫がよろしいな)がやって来て、飲むように説得された。大袈裟ではなくて、天使のような(天使がどんなものかまるでわからないが)声に、唐突に涙が出た。おいおい泣いた。睡眠薬も飲んだ。傍で見ていた女房の表情は歪んでいた。当然だろうな。
退院して、3日遅れのおせち料理は、味がしなかった。カスカスという音がしたような気がした。最悪の正月だった。その年の6月という、教師にしては中途半端な時期に、体よく学校を追放された。依願退職扱いだったから、離婚しようとしていた女房は喜んだろうな。退職金が出るんだから。全部もってけよ、って言ったらほんとに全部持っていった。
朔太郎だったか、佐藤春夫だったのか、どちらでもないのか、失念した。ともかく逆説的に「春は憂鬱な季節だ」と言った言葉が頭の片隅に残っているが、僕にとっての6月は文字どおり憂鬱な季節である。梅雨が憂鬱なのではない。6月の出来事が憂鬱にさせるのである。とりとめもないことを書いたのは自覚しているけれど、それでも書き遺しておこうと思う。これを読む人は迷惑なんだろうな。ごめんね、みなさん。
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