ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○生成と破壊についての観想

2011-01-10 23:31:07 | Weblog
○生成と破壊についての観想

人は生きることにポジティブであるべきだ、と考えるのは、どうも僕の感性からみると、少なからぬ違和感がある。確かに人間の生のありかたを形而下的な視点で考える限りにおいては、人というのは、生きる意欲に満ち溢れているとき、自己という存在理由を前向きに認識出来ているのである。具体的に敷衍すれば、現象的に、自分の能力を他者に認められること。単純な動機のようにみえて、これは意外に生に対するポジティブな感覚の根幹をなし得るものである。逆に、他者から疎外されているとき、自分の能力に対する確信をなくす。自他との関わりとしての、人間関係についての悩ましきことの殆どは、この種の形而下的なファクターのあれこれによって決定づけられる、と僕は思うのである。

では、どうして、上記のごとき感情の動きが生じるのだろうか?人は考える存在である以上、やはりこのような原因は、形而上的な観点からの洞察を加えねばならないのではなかろうか。

たとえ、これから書き記すことが観念的である、とのそしりを受けようが、敢えて書く必要を僕は感じている。なぜなら、この世界は、前記したような形而下的な解釈に満ち溢れているからに他ならない。たとえば仮に、人間としての存在理由について、確信を失くし、社会生活からの離脱を余儀なくされた人がいたとしよう。最も悪しき想定としては、世界に絶望し、自死することでこの世界から断絶することである。あるいは、生きる意欲がまだ体内に残存している場合は、医学に頼ることになるのだろう。特に精神医療という体制維持装置に寄りかかると、人間を生理的存在という矮小化に追い込むことになる。脳内物質のあれこれを精神薬で微調整するがごときの治療?が公然と行われることになる。いうまでもないことだが、かつて、フランスの哲学者のフーコーが「狂気の歴史」において明らかにしたように、精神疾患患者を治癒する目的で、社会から隔離することは、既成社会体制維持装置そのものの持つ役割であり、それは、もっと広く見ることによって、病院・学校・監獄といった存在とは、既成権力の維持装置である、という観点をやはり抜かしてはならない、と僕は思う。

それではなぜ易々と僕たちは、自己の命を断とうとする動機を抱き得るのであろうか?その理由は、一見すると、矛盾することを書くようだが、人間とはそもそも自己の生に対して、積極的に意味を見出そうとする存在だからである。さらに言うと、人間は、生の意味を見出すプロセスで、必ず自己の生を否定する可能性を秘めた存在でもあるということである。実はこの点が重要なのである。もしも、冒頭に書き記したように、人は、その人生においてあくまでポジティブに生きるべきである、という形而下的要請は、実は、僕たちが所属する社会体制を保持しようとする権力側の要請である。このことを肝に銘じていないと、自己の生のあり方に疑問を抱き、生きるべきか、死するべきか、という難局に立ち至ったとき、死をイメージすること自体に罪悪感を感じてしまうことになる。しかし、僕たちが生きているのは、このような単純な体制側の要請に従うことの出来る凡庸な精神性だけが機能しているからではない。僕たちが、自己破壊を想起するとき、同時に生成をイメージしているのである。だからこそ、自己破壊そのものの概念を言下に否定すべきではないのである。つまりは、生成と破壊という概念性は、コインの裏表である。いや、それどころか、破壊欲求なき生成などあり得ないと言っても過言ではない。その意味で、僕たちは、メメント・モリ(死を想え)という想念を忘却してはならない。そんな人生など、無意味だからである。今日の観想として書き残す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
      長野安晃