○信念を曲げることはないけれど、そもそも信念とはなんぞや?
大抵の人は、信念と云う言葉を使うかどうかは別として、少なくとも自分が生きてきた軌跡の中から自分の胸に落ちる経験則を選びとって、それらの総合体を生きる指針にしているのではなかろうか。このような前提がもしも正しいとするならば、同じように生きてきても、尊敬に値する人間、唾棄したき人間として、枝分かれしていくのであろう、と思う。
生の軌跡の中から自らが選びとった総体が、その人の生きる指針になるからこそ、日々の生活のあり方がとても重要になってくる。日々の生活の中に、自分の思考を鍛錬する素材を持ちこまない人は不幸である。勿論それでも生きていることには違いないが、自己の思考が単純な日常性からの経験知だけの集積であるとするなら、その結末たるや、惨憺たるものになるのは火を見るより明らかではなかろうか。だってそこには学びの要素が皆無であるからだ。もっと正確に言うと、学ぶべき要素が日常生活の中から得ることのできる知恵の集積だけであるなら、思想の次元が高まるどころか、生活の垢の中にまみれて擦り切れていくばかり。言葉を換えて言うなら、光るはずの原石のごとき思想の核は、ついに研磨されることなく、死とともにすべての終焉を迎えることになる。哀しき現実である。
もし、人が信念たるものを持たんとするなら、言葉を磨かねばならない。それが発話されたものであれ、内心の声であれ、言葉が人間の世界像を創るのである。思想とは、言葉の、鍛錬した言葉の集積である。あるいは、思想の次元を高めるには、常に意識的な他者の言葉との対峙が不可欠であり、納得できるものはそれらを自らの言葉に編み換えて取り入れる。それが、自己を高めていく、ということの実質ではなかろうか。だからこそ、人は思想の柔軟性を大切にしなければならないのだ、と思う。思想の柔軟性とは、よく考えもしないで、他者の言いなりになるがごときの、変節を意味しない。前記したように、大切なことは、生きる軌跡の中から学びとった自己の言葉と、常に出会う他者の言葉との対峙なのである。厳しく、孤独な闘いの連続が待ち受けているだろう。柔軟さとは、その意味において、逆説的な言い方かも知れないが、思想的には硬質なものでなければならない。そうでなければ、人は卑近な言説にだって、簡単に説得されてしまうからである。繰り返すが、思想の柔軟さと硬質さとは、同義語である。
信念を曲げないという人もいる。しかし、そういう人に限って、その信念たるや、日常生活の経験則のうず高い集積を、括弧つきの信念と称している。日常性を凌駕した言葉から学ぶことのないシンネンなどは、信念の名に値しないのは、当然の帰結だろう。志高き他者から学ぶ方法はいくらもある。たとえば、読書をしようではないか。本もロクに読めない人間に限って、己れの小さき自己を守ることに躍起になるのである。そんなところに、世界は開けてはいないのである。読書をし、他者の思想と、己れの思想とを、がっぷりと四ツに組んで貪欲に他者の思想から学ぶのである。それを柔軟さと呼ばずして、何が柔軟性なのだろう、と僕は思う。読書のジャンルはその人好みでよろしいのである。僕なら、文学と哲学と社会科学と経済学だが、どうぞ、お得意のジャンルで思想の格闘技をどうぞ。その中で、文字どおりの信念が構築されますから。がんばりましょうね。お互いに。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
大抵の人は、信念と云う言葉を使うかどうかは別として、少なくとも自分が生きてきた軌跡の中から自分の胸に落ちる経験則を選びとって、それらの総合体を生きる指針にしているのではなかろうか。このような前提がもしも正しいとするならば、同じように生きてきても、尊敬に値する人間、唾棄したき人間として、枝分かれしていくのであろう、と思う。
生の軌跡の中から自らが選びとった総体が、その人の生きる指針になるからこそ、日々の生活のあり方がとても重要になってくる。日々の生活の中に、自分の思考を鍛錬する素材を持ちこまない人は不幸である。勿論それでも生きていることには違いないが、自己の思考が単純な日常性からの経験知だけの集積であるとするなら、その結末たるや、惨憺たるものになるのは火を見るより明らかではなかろうか。だってそこには学びの要素が皆無であるからだ。もっと正確に言うと、学ぶべき要素が日常生活の中から得ることのできる知恵の集積だけであるなら、思想の次元が高まるどころか、生活の垢の中にまみれて擦り切れていくばかり。言葉を換えて言うなら、光るはずの原石のごとき思想の核は、ついに研磨されることなく、死とともにすべての終焉を迎えることになる。哀しき現実である。
もし、人が信念たるものを持たんとするなら、言葉を磨かねばならない。それが発話されたものであれ、内心の声であれ、言葉が人間の世界像を創るのである。思想とは、言葉の、鍛錬した言葉の集積である。あるいは、思想の次元を高めるには、常に意識的な他者の言葉との対峙が不可欠であり、納得できるものはそれらを自らの言葉に編み換えて取り入れる。それが、自己を高めていく、ということの実質ではなかろうか。だからこそ、人は思想の柔軟性を大切にしなければならないのだ、と思う。思想の柔軟性とは、よく考えもしないで、他者の言いなりになるがごときの、変節を意味しない。前記したように、大切なことは、生きる軌跡の中から学びとった自己の言葉と、常に出会う他者の言葉との対峙なのである。厳しく、孤独な闘いの連続が待ち受けているだろう。柔軟さとは、その意味において、逆説的な言い方かも知れないが、思想的には硬質なものでなければならない。そうでなければ、人は卑近な言説にだって、簡単に説得されてしまうからである。繰り返すが、思想の柔軟さと硬質さとは、同義語である。
信念を曲げないという人もいる。しかし、そういう人に限って、その信念たるや、日常生活の経験則のうず高い集積を、括弧つきの信念と称している。日常性を凌駕した言葉から学ぶことのないシンネンなどは、信念の名に値しないのは、当然の帰結だろう。志高き他者から学ぶ方法はいくらもある。たとえば、読書をしようではないか。本もロクに読めない人間に限って、己れの小さき自己を守ることに躍起になるのである。そんなところに、世界は開けてはいないのである。読書をし、他者の思想と、己れの思想とを、がっぷりと四ツに組んで貪欲に他者の思想から学ぶのである。それを柔軟さと呼ばずして、何が柔軟性なのだろう、と僕は思う。読書のジャンルはその人好みでよろしいのである。僕なら、文学と哲学と社会科学と経済学だが、どうぞ、お得意のジャンルで思想の格闘技をどうぞ。その中で、文字どおりの信念が構築されますから。がんばりましょうね。お互いに。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃