ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○僕の、平成的<崩壊感覚>について語ろう、と思う。

2011-01-28 10:18:45 | Weblog
○僕の、平成的<崩壊感覚>について語ろう、と思う。
 野間宏の「崩壊感覚」という小説は、日本の軍国主義時代の、閉塞的な身分社会としての軍隊に身を置いた主人公の精神の壊れを、あるいは遅れてきた帝国主義国家としての日本、あるいは戦前の社会構造、人間構造の全的な崩壊を敗戦という現象の過程を通して、人間の感覚的崩壊として描き切った作品として記憶されているべきものだろう。たぶん、この作品と巡り合った人の数は、いまの平成の時代には極端に少なくなっているのは予想するに難くない。歴史認識としては、当然忘却してはならない作品の一つだが、戦前から戦後にかけての<崩壊感覚>を経て、それがたとえ誤謬に満ちた時間の経緯であったにせよ、野間の「崩壊感覚」は、かたちを変え、表現形式を変えながら、受け継がれてきた戦後的空気のようなものではなかっただろうか。瓦解から生成への社会の再構築と、その挫折という現象が、平成の、この時代にまで生き延びている。これこそが、僕たちの感得している、まさに現代の崩壊感覚なのだろう、と思う。
 少なくとも戦争という大量破壊兵器による殺戮、という形体は僕たちのいまを生きる日本の、平成の時代の日本国内には見受けられないものではある。しかし、僕の目から見ると、この平成という時代性が、人間の生きる意欲を根こそぎ削ぎ落し、また生きる意欲を消失させるに足る社会的・経済的・教育的頽廃の只中で、この時代特有の崩壊感覚が醸成され、人間の精神を蝕んでいる。このような現実がもたらす具体的な素描は、敢えてここに書き止め置かなくとも、誰にでもわかることではないか。さて、そこで、至極単純な疑義を発しようと思う。いま、生きていて、楽しいのか?あるいは、いま、生きていて、自分が生きているという実感が持てるのか?殆ど針の穴ほどの可能性を自分のものに出来た少数の成功者たちを除けば、たぶん大かたの人々は、浮遊感の真っ只中にいる自分の姿を直視も出来ず、身もだえていることだろう。それを平成の、この時代の、<崩壊感覚>だと言っても過言ではなかろう、と僕は思うのである。
 僕の裡なる<崩壊感覚>とは、肉体的衰退は如何ともし難いにせよ、精神的なる強靭性(よくものごとを考えない人ほど、これを老年の頑迷さと錯誤する。残念なことだが、現実だろう。考える努力を放棄した人は、確かに頑迷さだけが生きる指針になることが多いわけだから、この種の錯誤も僕の歳ともなれば、甘受しなければならないことだろう)の衰微が現れ出てきたことである。自分の無能さが災いしているのことを認めざるを得ないにしても、この平成という時代的な空気の中から、自分と云う存在そのものが、いかに遊離した精神性であるか、ということに時折たじろがざるを得ないのである。大袈裟に言うと、シジフォスのごとき労苦を背負った得てきた言葉、それによって構築した理念や思想が、単なる思いつきの言葉と同列に置かれることもしばしばである。単純に突っぱねることも出来るが、思いつきの領域にまで思想の次元を落とさないと言葉そのものが通用しないのであれば、致し方ないことだってある。しかし、こういうことを繰り返していると、自分の言葉の力に陰りが射す。それは換言すれば、自分の人生の中で多くの犠牲を伴いながらも感得してきた思索の、あるいは実践の力の次元を落とすことと同義語である。僕は、いま、まさにこういうところに確実にいて、それを自己の平成における精神の<崩壊感覚>と認識しているのである。
 さて、これからどうしたものか?人生の終焉に向かいつつ、ここで踏ん張らねば、自分の存在意義など無きに等しい、という感慨の只中にいる。感情論的な言葉、実人生の経験則からの思想的根拠なき言葉、単純な思いつきの言葉に右往左往している自分とはいったいなんぞや?精神の<崩壊感覚>によって衰弱した思想を再構築する力を体内から、あるいは脳髄から絞り出す努力をしなければ、たぶん僕の生きた痕跡すらも残らぬだろう。そういう意味では、老体に鞭打ってでもがんばるしかないな。年寄りの冷や水?敢えて、その種の嘲笑すらも受け止めた上での抗いである。うん、がんばるしかないだろう。

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