ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○何かが足りない・・・んだけれど。

2011-01-09 11:18:45 | 観想
○何かが足りない・・・んだけれど。

生きることが時としてうっとうしくなったり、退屈感に苛まれたり、憂愁の中に落ち込んだりして、生きている意味を見失うことなどしばしば。そもそも人間、生きている意味などあるのだろうか?などと極端なことまで考えてしまう。単に生物学的にこの世界に生きているとするならば、考える能力などかえって邪魔ではなかろうか、とまで。

しかし、こういう心境に陥っている場合は、大抵この世の中の仕組みが、人をがんじがらめにしているようで、とても息苦しくなっているはずだ。もっと言うと、人を縛っているものの実体は、社会的な約束ごとの総体だけれど、そのシステムが、人生のどこかの時点でシステムそのものを恣意的に動かせる側にまわった人間と、システム自体の中に組み込まれている側の人間の差異の大きさの前で立ちすくんでいることと同義語である。人はそういうことを不条理だと感じるのである。あるいは差異そのものの実質も二項対立的な単純なものではなくて、もっと人には予測し難いようなどんでん返しも含んだ不条理性そのものなのかも知れない、とも感じるのである。何かが足りない、と僕が感じるときに胸に去来する想いの実質は、大体こういうものである。

何かが足りないという気分をなにほどか晴らしてくれるのは、人はどのような状況に追い込まれたとしても、どんな深き暗黒の底からでも這い出して来れるという強い想いが、裡に湧き起っても来るからである。しかし、こういうことを書いたからと言って、自分がとても強い確信を持っている人間では毛頭ない。

個性差もあるのだろうが、やはり、生きていくプロセスとは希望と絶望というふたつの概念性に乱暴に分ければ、僕の感覚から云えば、確実に絶望感の方が自己の生を決定づける要因になる確率が高い、と思う。だからこそ、人は人生に対して、手ばなしで謳歌できない瞬間、瞬間が訪れもするのではなかろうか。もし、そうであれば、なおさら僕たちは、生きる覚悟(死する覚悟を持つ以上に)をしっかりと確立する必要性に迫られているのではないか、と思うのである。

社会制度的には、どう控えめに見ても生き難い時代なのである。もっと正確に言えば、たとえ、生き難い時代性の中にたまたま生まれついたとしても、その時代の中で社会制度そのもの、体制そのものを変革し得る可能性に満ちているとすれば、生き難さは、生きる可能性の中に包括され得るものになるだろう。民主主義が悪いのではない。民主主義を悪用する輩が悪いのである。世界中で横行しているテロリズムの思想は、平等な社会の中で、不平等をつくり出す輩を是々非々を尽くすことなく抹殺することである。テロリズムは、また別のかたちのテロリズムの思想を生み出す。尽きることはない。

人間はよほど自己卑下の固まりにならない限り、自己を変革し、しいては、より良い世界に変革したい、という根源的な欲動を持っているはずである。そういう欲動を実現させるには、絶望感の支配下に陥ることだけは、少なくとも避けねばならないだろう。希望のひかりを見ようとするなら、生きる覚悟を強く持つべきである。詩的に死を想うのは、精神の肥やしなる。認めるが、やはり、人は生きる意思をリアルに持つべきだろう。その人なりに、でよろしいのである。夢想家だというそしりは敢えて受ける。そういう覚悟で書き記す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃