○演歌って、ダサいし、歌詞は似たりよったりだし、でもね・・・
幼い頃から演歌って大嫌いだった。美空ひばりを筆頭に、次から次へと演歌歌手は途切れることなく、おんなじような歌詞、大抵は男と女の勝手な思い入れたっぷりの、感情移入過多の、これでもか、と云わんばかりにこぶしをきかせて、自分の歌声に酔っているかのような歌いっぷり。これにはほとほとそのセンスのなさにウンザリとさせられていたものである。昨今は坂本ふゆみなんかは、演歌であって、演歌でないような中間的な要素があって、ちょっといいかな、とも思うが、とは云え、概ね僕は演歌が嫌いである。もっと正確に云うと演歌歌手が嫌いだ、という方が当たっているのかも知れない。だって、聴衆に聞かせる歌なんだから、それより前に演歌歌手が自分の歌声に酔っているようではプロとは言えないだろうに、というのが、特に歌そのものに思い入れもなかった僕の、今日に至るまでの演歌に対する観想なのである。だからこそなのか、自然に耳に残っている演歌もあるわけで、カラオケなんかへ行くと、歌のド素人である人間にとっては、演歌はよいのである。演歌のメロディそのものが、簡単であることに加えて、前記したように、演歌は歌うものをのめり込ませるという、プロにとっては、落とし穴、ド素人にとっては、これほど気分のいいものはない、というわけである。カラオケボックスって、大音量とエコーで、自分の音程も自分で見極められないほどの錯覚を時間単位で売っている場なんだから、最近のポップスなんていう難しい曲を外しながら歌うよりも、ありふれた演歌でも、大音量と無意味ともいえるエコーの助けがあれば、自己満足出来るほどの出来栄えにはなる。無論、聞かされている人たちはいい迷惑なんだろうけど。
前置きが長くなり過ぎた。今日、僕が言いたかったことは、次のようなことに集約されるんです。つまり、人は自分の存在理由を意識的にか、そうでないのかは別にして、常に探し求めているということ。仕事で一生懸命なのは、誰憚ることもないほどに自慢すればよろしいことです。ただ、殆どの仕事は、他者との関わりの中で成就するようなプロジェクト(そこまで大袈裟な言い方をしなくても、同僚との協力関係と言い換えてもよろしいですけど)を基本に成り立っているでしょう?上司との関係、同僚どうしの関係性などは、なかなかすんなりとはいかぬもので、常に摩擦が起こり、小さな火種は常にくすぶっているというのが、仕事の内実。だから、いくら、優秀な人でも仕事や家庭を含んだ日常性の中で物事を考えていると、生きていること自体に退屈してくるというわけ。退屈の中には仕事に対して、あるいは家庭のありかたに対して憤懣やるかたない感情の虜にもなり得るわけである。仕事の帰りに、やけ酒をやったり、酒の勢いで日頃の憤懣をぶちまける。グチる。それはそれでよろしいが、これには当然に限界がある。ちょうどカラオケボックスでヘタな演歌を歌って自己満足しているレベルだから、カタルシスも長続きもしないし、次の日が来るともとの黙阿弥。こういう繰り返しは、自分を結局は徐々に腐らせるだけのことだ。
なにより大切なことは、自己の思想の次元を高めること。そうすれば、言葉どおりのカタルシスによって、つまらない日常性の軋轢などは、一挙に凌駕できる。つまりは、その人にとっての非日常のあり方を探すことが先決なので、その手段は、僕なら言葉が創りだす思想の再構築だろうと考えてはいるし、ぜひとものお薦めだが、とくにこだわるつもりはない。音楽からのインスピレーションも多いに考え得る可能性の一つだろうし、その他手段はたくさんあるようにも思う。僕が言いたいのは、演歌を自己満足的に歌い続けるのではなくて、ときには、たとえば、不得意なJ-POPなんかに挑戦することだって必要だと言いたいわけである。ねえ、みなさん、がんばらないと。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
幼い頃から演歌って大嫌いだった。美空ひばりを筆頭に、次から次へと演歌歌手は途切れることなく、おんなじような歌詞、大抵は男と女の勝手な思い入れたっぷりの、感情移入過多の、これでもか、と云わんばかりにこぶしをきかせて、自分の歌声に酔っているかのような歌いっぷり。これにはほとほとそのセンスのなさにウンザリとさせられていたものである。昨今は坂本ふゆみなんかは、演歌であって、演歌でないような中間的な要素があって、ちょっといいかな、とも思うが、とは云え、概ね僕は演歌が嫌いである。もっと正確に云うと演歌歌手が嫌いだ、という方が当たっているのかも知れない。だって、聴衆に聞かせる歌なんだから、それより前に演歌歌手が自分の歌声に酔っているようではプロとは言えないだろうに、というのが、特に歌そのものに思い入れもなかった僕の、今日に至るまでの演歌に対する観想なのである。だからこそなのか、自然に耳に残っている演歌もあるわけで、カラオケなんかへ行くと、歌のド素人である人間にとっては、演歌はよいのである。演歌のメロディそのものが、簡単であることに加えて、前記したように、演歌は歌うものをのめり込ませるという、プロにとっては、落とし穴、ド素人にとっては、これほど気分のいいものはない、というわけである。カラオケボックスって、大音量とエコーで、自分の音程も自分で見極められないほどの錯覚を時間単位で売っている場なんだから、最近のポップスなんていう難しい曲を外しながら歌うよりも、ありふれた演歌でも、大音量と無意味ともいえるエコーの助けがあれば、自己満足出来るほどの出来栄えにはなる。無論、聞かされている人たちはいい迷惑なんだろうけど。
前置きが長くなり過ぎた。今日、僕が言いたかったことは、次のようなことに集約されるんです。つまり、人は自分の存在理由を意識的にか、そうでないのかは別にして、常に探し求めているということ。仕事で一生懸命なのは、誰憚ることもないほどに自慢すればよろしいことです。ただ、殆どの仕事は、他者との関わりの中で成就するようなプロジェクト(そこまで大袈裟な言い方をしなくても、同僚との協力関係と言い換えてもよろしいですけど)を基本に成り立っているでしょう?上司との関係、同僚どうしの関係性などは、なかなかすんなりとはいかぬもので、常に摩擦が起こり、小さな火種は常にくすぶっているというのが、仕事の内実。だから、いくら、優秀な人でも仕事や家庭を含んだ日常性の中で物事を考えていると、生きていること自体に退屈してくるというわけ。退屈の中には仕事に対して、あるいは家庭のありかたに対して憤懣やるかたない感情の虜にもなり得るわけである。仕事の帰りに、やけ酒をやったり、酒の勢いで日頃の憤懣をぶちまける。グチる。それはそれでよろしいが、これには当然に限界がある。ちょうどカラオケボックスでヘタな演歌を歌って自己満足しているレベルだから、カタルシスも長続きもしないし、次の日が来るともとの黙阿弥。こういう繰り返しは、自分を結局は徐々に腐らせるだけのことだ。
なにより大切なことは、自己の思想の次元を高めること。そうすれば、言葉どおりのカタルシスによって、つまらない日常性の軋轢などは、一挙に凌駕できる。つまりは、その人にとっての非日常のあり方を探すことが先決なので、その手段は、僕なら言葉が創りだす思想の再構築だろうと考えてはいるし、ぜひとものお薦めだが、とくにこだわるつもりはない。音楽からのインスピレーションも多いに考え得る可能性の一つだろうし、その他手段はたくさんあるようにも思う。僕が言いたいのは、演歌を自己満足的に歌い続けるのではなくて、ときには、たとえば、不得意なJ-POPなんかに挑戦することだって必要だと言いたいわけである。ねえ、みなさん、がんばらないと。
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