ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○異化する言葉

2011-01-24 11:35:48 | 哲学
○異化する言葉

もはや生よりも死の方が断然身近な概念として受け止められるようになって、それでも、やはり自分の思想のあり方についてはどこまでも貪欲ではある。言うまでもないことだが、思想の源泉は言葉である。言葉を紡ぎ合わせることで、思想という、あるまとまった考え方、そしてその考え方をもとにした行動様式が定まってくるというものである。と、このように考えながらも、いささかのとまどいが隠しようもなく裡に在ることを告白しなければならないだろう。


それはどういうことか、というと、考えつめて成立したかにみえる思想たるものにも、その思想をかたちづくっている言葉そのものに対する違和感を払拭出来ずにいる自分が、やはりゴマカシようもなくいるのである。たとえば、こんな想像をしてみる。


自分はもはや死の床にいる。厳密にいえば、失敗だらけ、後悔だらけの人生であっても、何とかそういう気分を抑え込んで、ああ、自分の人生もまんざらではなかったとムリムリに思いこんだとしよう。そして、恐る恐る発話してみる。「自分の人生もまんざらではなかった」と。あくまでこっそりと人に聞こえぬように、だ。あるいは、もっと調子にのって、「自分の人生に生きた意味があった。よく頑張ったと思う」などと呟いてもみる。死を前にしての戯言だ。これくらいは許されることではないか、と開き直ってもみる。


想像はさらに広がっていく。死の床で、許容範囲ではないか、と開き直って密かに呟いた言葉は、数日繰り返していれば、何となく確信めいたものに変質してくる。そういうところへ数少ない友人の一人が、もうこいつは助からんな、という想いを笑みに換えながら、僕に言う。「おまえはよくやったな。おまえはよく頑張って生きてきたと思う」と続け、さらに無意味な言葉で締め括る。「だいじょうぶじゃあないか、顔色もいいし、よくなるよ」なんてね。まあ、彼が口に出来るのは、こういうことでしかないわな。感謝こそすれ、テメエ、いい加減なことを言うな!なんてとり乱した態度など死んでも言えない。ああそうか、想像の中にしても、僕は間もなく死ぬのであった。かと言って、どうでもいいや、とはいかない。人生の最期に立ち至って、もはや友人、知人に対する非礼はいけないから。


問題は、友人の言葉を聞いた瞬間から、自分の体内で化学反応のように生じる言葉に対する違和感(それはむしろ自分がこっそりと発した言葉に対するものだ)をどのように自分の脳髄の定位置に落としたらよいのか、ということである。自分で納得したはずの言葉が、他者の言葉として聞いた瞬間から、自分の言葉の内実が、限りなくどこかへ逸脱していくのを如何ともし難いのである。それは、激しい磁場の中で、発話された自分の言葉の意匠そのものが変質し、無化され、なんの実体もなくなってしまうような空虚な気分なのである。換言すれば、自分の言葉が異化されていくのである。

言葉ほど人間にとって自己の存在理由を規定すべき大切なツールは他にないが、しかし、言葉ほど人間の想いをその根底から裏切るものもない。だからこそ、人は飽きることなく、生の、あるいは価値観の、はたまた世界観の規定を、言葉という手段を使って、何としてでも思い定めようとするのではなかろうか。その試みそのものが、定義したその瞬間から、逸脱し、言葉そのものの意味が異化されていくのを承知の上で。やはり、現実の死の床では、「オレの人生など所詮こんなものか」と自嘲まじりに呟くしかなかろうな。そう思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃