○僕は人生の総括をなんのためにやっているのか、ということなんだけど。
生きるとはなんぞや?というような深遠な問題に即答できるほどの器量はない。ただ、生きるとはなんぞや?という問いを自分に課しつつ今日まで生きてきた自分の来し方、ゆく末をどのように整理すべきなのか、ということは、その茫漠とした概念性くらいであれば、何ほどか語れるのではないか、と思う。
いまだにそうなのだが、僕は生きるという現実的行為そのものに対してイラついてきた感あり。過去から未来にかけての、はっきりとしたイメージをむすぶことも出来ないくせに、ただただ、いま、この現在という時点に存在している自分に満足できないのである。具体的な目標が定まった渇望感であるならば、何としてでもがむしゃらにターゲットに立ち向かうことも出来る。僕のような性急な個性の人間ならば、なおさらのこと、結果を出すために猛進することだろう。しかし、如何せん、自分の内面に巣くう焦燥感がどこから来ているのかが分からないのである。だからこそ、いつも手探りである。経験知からすると、それは、相当に非効率であり、また盲目的でもある。当然に失敗も多い。
しかし、そうは言っても、これを書いているいま、途中経過として言えることはないでもない。ただし、無理をすれば、という前提つきで。
自己の人生を総括するわけだから、当然過去の出来事の検証をする。そこから学ぶべきことがあればよし、だが、大抵は恥多きことの集積である。そのときどきに関わった人々に対して深く陳謝したき心持ちでいっぱいなのである。そういう反省の中からすくいとったテーゼは、自分が関わった過去の出来事や人々に対して、たとえ負の感情を抱いていたとしても、ひとつひとつの過去の出来事を単純に正、負の枠組みの中にほうり込んで整理するのは間違いだということである。この種の思考の仕方で過去を整理すると(そう、それはまさに整理なのであって、総括という名に値しない)、過去を振り返っている、いまの心境から、負のジャンルに入った過去の出来事を簡単に切り捨てることでケリをつけてしまいかねないのである。ところが、よく考えてみると、いま、ここ、という次元すら常に過去の出来事として、過ぎ去っていく過程にあるわけで、単純な出来事の整理が、かえって自分の未来を見据える目を曇らせる可能性が大きいと思うのである。
人生の総括をするという精神的な行為の実質とは、過去を切り捨てることでもなく、過去にこだわり続けることでもない。敢えてシンプルに言うと、過去から学ぶことである。学ぶとは、過去の出来事の具象的な事柄から、未来に繋がる精神的な糧となるファクターを抽出することでもある。そのために僕たちは、具体的な現象を抽象化するのである。抽象化するプロセスで、過去の個々の出来事が、いくつかのテーマごとにまとまって胸に落ちるのである。つまりは、生の総括におけるメタファーの役割とは、過去の出来事を、凝縮させ、未来という異次元へと投げ入れるための重要なツールなのである。いま、ここの、日常性から見て、過去の出来事のそれぞれが有効か、そうでないか、という観点は、だからこそ無意味・無効である。いま、僕に言えることはここまで。当分、いまの試みは続きそうだな、そういう意味で。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
生きるとはなんぞや?というような深遠な問題に即答できるほどの器量はない。ただ、生きるとはなんぞや?という問いを自分に課しつつ今日まで生きてきた自分の来し方、ゆく末をどのように整理すべきなのか、ということは、その茫漠とした概念性くらいであれば、何ほどか語れるのではないか、と思う。
いまだにそうなのだが、僕は生きるという現実的行為そのものに対してイラついてきた感あり。過去から未来にかけての、はっきりとしたイメージをむすぶことも出来ないくせに、ただただ、いま、この現在という時点に存在している自分に満足できないのである。具体的な目標が定まった渇望感であるならば、何としてでもがむしゃらにターゲットに立ち向かうことも出来る。僕のような性急な個性の人間ならば、なおさらのこと、結果を出すために猛進することだろう。しかし、如何せん、自分の内面に巣くう焦燥感がどこから来ているのかが分からないのである。だからこそ、いつも手探りである。経験知からすると、それは、相当に非効率であり、また盲目的でもある。当然に失敗も多い。
しかし、そうは言っても、これを書いているいま、途中経過として言えることはないでもない。ただし、無理をすれば、という前提つきで。
自己の人生を総括するわけだから、当然過去の出来事の検証をする。そこから学ぶべきことがあればよし、だが、大抵は恥多きことの集積である。そのときどきに関わった人々に対して深く陳謝したき心持ちでいっぱいなのである。そういう反省の中からすくいとったテーゼは、自分が関わった過去の出来事や人々に対して、たとえ負の感情を抱いていたとしても、ひとつひとつの過去の出来事を単純に正、負の枠組みの中にほうり込んで整理するのは間違いだということである。この種の思考の仕方で過去を整理すると(そう、それはまさに整理なのであって、総括という名に値しない)、過去を振り返っている、いまの心境から、負のジャンルに入った過去の出来事を簡単に切り捨てることでケリをつけてしまいかねないのである。ところが、よく考えてみると、いま、ここ、という次元すら常に過去の出来事として、過ぎ去っていく過程にあるわけで、単純な出来事の整理が、かえって自分の未来を見据える目を曇らせる可能性が大きいと思うのである。
人生の総括をするという精神的な行為の実質とは、過去を切り捨てることでもなく、過去にこだわり続けることでもない。敢えてシンプルに言うと、過去から学ぶことである。学ぶとは、過去の出来事の具象的な事柄から、未来に繋がる精神的な糧となるファクターを抽出することでもある。そのために僕たちは、具体的な現象を抽象化するのである。抽象化するプロセスで、過去の個々の出来事が、いくつかのテーマごとにまとまって胸に落ちるのである。つまりは、生の総括におけるメタファーの役割とは、過去の出来事を、凝縮させ、未来という異次元へと投げ入れるための重要なツールなのである。いま、ここの、日常性から見て、過去の出来事のそれぞれが有効か、そうでないか、という観点は、だからこそ無意味・無効である。いま、僕に言えることはここまで。当分、いまの試みは続きそうだな、そういう意味で。
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