ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○やっとわかったよ。

2011-01-14 01:22:15 | 観想
○やっとわかったよ。

自分の教師としての23年間とはいったいなんだったのだろうか。何度も何度も自問し、書き続けてきたように思う。書いても、書いても分からなかった理由がいまにして分かった。それは、23年間という時間が、意味のない実体に意味を見出そうという虚しい試みそのものだったからである。教師という職業を否定するのではない。僕が教師であったことを否定しているのである。分かりきったことだが、3年ごとに学生たちは入れ換わる。自分は同じ場に取り残されるだけの存在だ。変化し続ける現実に対峙しながらの、悲壮な決意をもった生きざまなどでは決してなかった、と思う。僕にとって、教師という仕事は退屈極まりないものだった。3年ごとに無理矢理こじつけるように自分の経験の蓄積と称して、取り残される無残な心境を合理化し続けた。いくら環境に適応することの苦手な人間であろうと、ルーティーンワークとしての教師の仕事などは、数年もあれば何とかこなせる程度のものに過ぎない。だからこそ僕は焦ったのだろう。英語教師として、なし得ることはすべてやったとは思う。英語教授法などといってもいったん深く洞察してみれば、いくら新しさを装っても、その変化の内実など変革などという概念で語り得るような代物などでは到底ない。だからこそ英語教師の中には年齢に関わりなく、結局は自分が受けてきた英語教育の原型から抜け出せない人間ですら生き残れるのである。とは言え、英語教師というのは、他教科と比べても、世界で通用する英語力などという大言壮語がまかり通っているから、いろいろなところからの批判の的にされやすい。他教科と比較すれば、ずいぶんと精神をすり減らす科目だと断言できる。ただし、まじめにやれば、という前提つきのことだけれど。こういう中に置かれていたからこそ、退屈感を幾分かはマヒさせることが出来たのかも知れない。しかし、結果的に僕には、こういう要素が災いしてはいる。

20代前半から、40代後半までの長きに渡る時間を、僕は明らかに無駄にした、と思う。安穏とした生活の中で、つまらぬ小市民的な悦楽の中で生きていたと感じる。確かに既成大宗教教団の力に屈服したにせよ、それによって、小市民的な生活のすべてを失ったにしろ、教師でなくなった後の10年間は、生き死にの境目にいたし、どうしてここまで生きて来れたのかもよく分からない程の疲弊の只中にいたが、しかし、その一方で、学校空間の中で閉塞していた自分の生活観や、人生観や、価値観のすべてがそれまでとはまったく異なったものとして、実感できたと思う。教師を自分の意思で辞したわけではない、という意味では敗北でしかないが、それにしてもこの敗北は、僕に人生の意味を、新たな切り口からの生の、あるいは死の解釈を与えてくれたのである。

もっと具体的に言うと、教師時代の23年間に気づいたことよりも、その後の10年間に気づいた生の意味の方がよほど深い。あるいは死の意味も含めて、そう断言できる。日常語で規定しよう。教師なんてつまらねえ仕事だった、少なくとも僕にとっては。

さて、身体が自由に動くのをあと10年と仮定して、残りのこの時間をどう生きるのか?これが目下の僕の最大の関心事だ。極端に言えば、他のことは、どうだっていい。何か意味あるものに出会えば、そんなものは実践のあとについて来るものだろうからである。若さをうらやむことなど決してすまい。もはや、老いに対する抗いなど醜悪なだけだ。老いを老いそのものとして受容しながら、いったい何が僕に出来るのか?これが問題だ。ハムレットの煩悶には、やはり普遍性があると身に沁みて分かる。教師失格、生活者失格、そういう人間が、残り少なき人生をどう生き抜く?小さな芽はある。ボチボチと育てるつもりなど毛頭ない。革命的に激変させる。それがこれからの僕の生きる方途である。イノベーションでも、勿論リノベーションでもない。これは僕にとっての革命である。コップの中の小さなそれに過ぎない、という誹りは受ける。そんなことは構いはしない。敢えてブザマであれ、と自分に言い聞かせているこの頃なんだから。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃