ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○文化の障壁を瓦解させる力としての芸能

2011-01-15 00:38:59 | Weblog
○文化の障壁を瓦解させる力としての芸能
 芸能というジャンルに関することは、かつて何度かこの場に書いた。近いところでは、福山雅治の「龍馬伝」があまりにもその印象が強烈にて、これまで繰り返し坂本龍馬を主人公にしたいくつもの映像は、福山雅治というキャラクターを起用して創りあげた坂本龍馬のイメージとは比べものにならない。それは、日本中を席巻した一大現象となったのである。「龍馬伝」の影響で、土佐弁を真似る人はいまだに日本中にいるのではなかろうか。あるいは、このドラマを通じて、日本の幕末期における政治的・経済的側面を、坂本龍馬と関わりあう人物とともに認識した人もたくさんいるのではないか。2ちゃんねるには龍馬伝の登場人物ごとに各スレッドが出来ていて、それぞれお気に入りの歴史上の人物に思い入れての書き込みが続いていたと聞く。幕末から明治にかけての日本の激動の歴史の認識の深まりもさることながら、これまで話題にも上らなかった土佐弁が日本中に認知されたということが凄いと思うのである。
 以前、関西弁そのものが、東京を中心とする標準語に比して劣る、という時代があったのは僕に近い世代の人々であれば、誰でもが覚えているはずである。関西弁だけではなかろう、地方の方言はすべて日本文化の中心地たる東京で話される言葉と比べれば、恥ずべき対象であったのである。いまは第二次お笑いブームということらしいが、第一次のときでさえ、やはり関西弁を東京で使うことにはいささかの抵抗があった、と思う。この壁を取っ払ったのは、一人の関西の芸人の功績である。明石家さんま、その人である。いまや東京で関西弁を使うことに抵抗を感じる人はまず皆無ではないだろうか。それだけ明石家さんまの人気に裏打ちされた、関西弁という言語的アイデンティティの強烈な流布は、凄まじいという表現が最もよく当てはまる。
 歴史的経緯を考えれば、勿論朝鮮という国は民族的な観点で云えば、日本をいまだ許しがたいという想いが強いものと思われる。在日の方々も苦い体験を日本で味わってこられたと思う。差別という怪物は、人間の心を邪悪なものに一瞬にして変えてしまう。日本の遅ればせながらの帝国主義の介入によって、その他のアジア諸国との間に生じた亀裂は、ずっと消えることなく存在し続けるものだろう、と思っていた。無論、政治的・経済的な次元において、それがすべて払拭されたかというと、そんなことはなく、この次元においては、僕はかなりな悲観主義者ではある。その理由のひとつは、民族的悲劇も、政治的次元においては、利用価値があれば政治家たちは躊躇なくそうするだろうからである。
 しかし、韓国のドラマはいまや日本では確固とした地位を築いているし、逆に日本の芸能も韓国では相当な人気をはくしている。韓国だけではない。その他のアジア諸国との芸能における相互交流は凄まじい勢いで浸透し合ってもいる。各国の政治のあり方から云うと、芸能というビジネスを通して、国民どうしが、これほどに影響を与えあうというのは、あり得ないことだろう。しかし、現実には、芸能が政治を凌駕するように国民・市民のレベルでは国境という垣根さえもなきがごときなのである。このような現象はすばらしい、のひと言に尽きる。
 現代においては、一国の利益だけを有利に追求することなど不可能である。現実には、国という概念を超越して、経済的交流は行われている。ここに政治が介入するような場合は、政治を実質上動かしている権力志向の強い、前近代的な企業が、己れのドクマにしがみついている結果である。しかし、政治権力と結びつくような企業体質などはいずれは滅びる。そういう時代に立ち至っているのである。地球規模の経済を追求しなければ、それこそ世界の未来は暗い。
 いま、芸能の力が、政治や経済、いや言葉を換えれば、帝国主義時代そのままの国境という壁を根底から覆す底力を見せているのではないだろうか。世界はひとつ、と言いながら、一国の利権を貪ろうとするがごときのさもしさを骨抜きにしてしまうもの、それが芸能の力である。決して軽く見るべきものではない、と僕は思う。今日の観想である。

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