ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人生って、やはり自己解放の歴史なんだと思う。

2011-01-12 22:01:41 | 観想
○人生って、やはり自己解放の歴史なんだと思う。

人間、生きていると、その瞬間、瞬間の自分の立ち位置によって、柔軟に考え方を変えていかねばならない。それが人生というものの姿なのである。しかし、たぶん多くの人々は、そういうことを節操がない、などと言って、概ね自分の生き方を変革する機会を失っている。言葉を換えれば、人は生きていく中で、どんどんと柔軟性を失ってしまう、ということが起こる。だからまじめにこつこつと、というような日常語の修飾語の裏に隠された内実とは、誤解を怖れずに言えば、生の選択肢など、ほぼ無限大なのに、その膨大な可能性を狭める過程、それが、<まっとうな>人生のあり方の一断面であるのではなかろうか。

人間の生など、誰もが似通った生き方をしているものであり、生の本質も殆ど変わらないものである。他者から見て、羨望の的のごとくの生活様式であれ、羨ましがられている側が人生の半ばで命を断つことだって決して珍しくはない出来事だろう。ということは、人間の生き方なんて、結局のところ、心の持ちようひとつなのではないか、と思うね、僕は。こんなことを書くと、いい加減なことを言うな、というお叱りを受けるのかも知れないが、やっぱりこのところの僕自身の生き方の総括の過程でようやく辿りついた結論なので、敢えてこの路線上で、書き進む。

何をやっても人は、自分の生き方がこれでよいものかどうか、と思い悩む。それが、いけないことなどではなくて、むしろ歓迎すべき感性なのだ、ということをしっかりと受け止めなければならない。悩み多き人生、これこそが、生きる醍醐味ではないのか?平穏無事なる人生などクソ食らえである。昨今の世の中は、この不安定な経済情勢の中で煽られるようにして、生に上下動がないことが生活するだ、という観点に立てば、優等生。どこまで生きることを想定して言っているのか定かではないが、老後とやらを安心して暮らすには、夫婦二人で、1億数千万もかかるという。ならば、老後の規定は?どのような状況のもので、生きることを基本に考えている?そもそも夫婦二人して、というが、何となく僕の想像の中では、たとえば、二人ともに死んではいないとしても、生命維持装置、つけられて、無理矢理生かされているような、いや―なイメージが頭の中を駆け巡る。辛抱に辛抱を重ねて、年金なるものを受け取り、それでは不足しているから老後に備えて、資産運用しましょうなどと、何も知らない市民からさらに金をしぼりとって、都合のよい資産運用で儲けようとしている大手企業がうなるほどある。そういう金儲けをしている諸君、君たちもいずれは、生きる本質について思いめぐらすこともなく、欲ばかりかいていると、自分たちが絞りとった年寄りたちと同じ運命が待ち構えていることを忘れることなかれ。

長く生きることを自己目的化してはならない。人間にとって何より大切なのは、自分の納得できるような生きる実感を、刻々と変化する自己の裡なる思考のプロセスの中で、味わい尽くすこと。これに尽きるだろうに。長命であれ、短命であれ、そんなことは、二の次の問題である。生きることの意味を見失わないために、常に僕たちを誘惑する安全志向。それが自己閉塞感を生み出す元凶なんだから、そういうときの安全なんて、言葉どおりのそれではないに決まっている。どこかで、経済の論理の要請に利用されていると考えた方が妥当だ。

自己の思想の枠を可能な限り圧し広げることである。老人力などと言っている輩は、単なる居直りである。そうではなくて、熟した果物が自然に地面に落ちるように、しかし、落ちる前には、必ず落ちるだけの内実をともなった熟し方をして、落ちなければならない。それが、老いの意味だ。そして、老いの果てに訪れる死の意味だ。熟するとは、思考の解放である。そうでなければ、人間、長く生きる意味がない。死に損ないの自分に言えることのすべてか、これが。敢えて書き遺す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃