ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

断崖の生を生きること

2007-03-17 23:51:12 | 観想
○断崖の生を生きること

生きるということに対して、どのような意味でも余裕があるのではない。僕は概念としての断崖に立っているような生を生きているのが、普通になった。たぶん僕はこの世界から一度完全に退いてしまったからである。英語の教師として生きていた。それが特段楽しい、とは思わなかったが、自分はこの仕事で生涯を閉じるものだ、と何となく感じていた。しかし、思わぬところで仕事を追われた。そのことが引き金となって、これまでの安楽な生活が音を立てて壊れていく様を目の当たりにしなければならなかった。もう失うものなどなかったから死を考えた。そして実行し、2度も実行し、2度ともに失敗した。その時から、僕にとって死は身近な存在になった。だからと言って、開き直って生を生き生きと生き直す、というような発想にはならなかった。逆に、死との距離感が物凄く縮まった、ということではないか、と思う。とは言え、僕は決して死の魅惑に取りつかれているのでもない。死と折り合いをつけているのでもない。死との距離感は確実に縮まったが、死と共存しながら生きている、と定義したら、これはウソになる。僕にとって死とは生の反対概念だから、当然生を生きている限り、死は避けられるべきものでなくてはならない。しかし、その回避のあり方は積極的ではない。生と死とは反対概念と書いたが、たぶん、もう少し突き詰めて書くと、僕は死を生きているのではないか、と思う。そうだ、それが正しい僕の生のあり方である。

死を生きるとは、死を受容する、と言い直してもよい、と思う。死というものを受容しながら、僕はたぶん生きる術を得たのではないか、と思う。これを共存と言うと少しズレが生じてしまう。共存とはあくまで死と隣り合わせの生を生きるということになるが、僕の場合は死は至極近しいところにありはするが、むしろ、死と供に生きるという共存ではなく、死をもっと積極的に受け入れながら生きる、という意味合いがある。だから死を受容しているのだ、と僕は規定した。それだからこそ、僕は自ら死を選び取る必要がなくなった。死はあくまで向こうから唐突にやってくるものであり、そのとき、僕は抗うことなく死を受容する、ということになるだろう。そのように思えるようになった頃から僕の肩から力が抜けた。僕はその瞬間まで死と抗って生きてきたようなものだからだ。僕の裡なる実存的思想は、だから死と仲良し、だ。

たぶん多くの人々はこういうことを考えずに、自分の死を宣告されて、それから死の意味を考え出す。だから死を必要以上に恐れたり、死に抗ったりする。しかし、そんなことはほんとうは無意味なことなのである。結果は同じことなのである。死は唐突に向こうからやって来る、と言っているのだから、僕にとって、文字通り、突然死は理想的な死にざまだ。お年寄りで言うところのぽっくり死である。朝隣で寝ている妻が、僕の死を確認する、というのがいい。僕はたぶん眠っている間に幾つかの夢を見て、それは楽しいものなのか、哀しいものかはどうでもよいが、たぶんその夢は僕の人生のパノラマのような感じで襲ってきて、そのまま唐突に死を迎える、というのが、僕のそんなに遠くない将来の理想の死に方である。

だが、願望通りにいかないのが人生とするなら、そう、例えば僕が癌というやっかいな病に侵されたとして、そうなったら、どうするか、ということだが、たぶん、僕は癌を受け入れる、と思う。受け入れる、とはどういうことか、というと、外科医の実験材料にはならない、ということである。まあ、外科医にもオペをするという仕事があるだろうから、全面拒否はしないのかも知れない。おそらくは一度くらいはオペをさせてあげる。その結果は別に気にしない。癌が他の臓器に転移したら、それはそれでよい。潔く死を受容する。別に格好をつけるつもりはないから、痛みは最大限とってもらう。もう死を前にしているのだから、モルヒネが適当だろう。生きているうちにモルヒネが引き起こすだろう恍惚たる世界を垣間見るのも悪くない。唯一の希望は安楽死だが、残念ながら日本では僕が死を迎えるときに法制化されている見込みはゼロだろう。日本はこういうことが最も後回しになる国である。オランダやベルギーはその意味では死というものをよく識っている、と思う。安楽死を法制化しているのは世界中でこのニ国を含め数か国だろう。安楽死を法制化すれば、無意味に死を選ぶことはないのに、と思う。安楽死を選ぶということは、自分の死と向き合い、自分の死を積極的に受容する、という思想が底にあるから、よく考えてからの死の決断だ。だから意味がある。

日本では、その余裕なしに思い詰めての転落死とか、電車への飛び込みとか、大量の薬の服薬死といった、何か悲惨なイメージがつきまとう。僕自身も自殺未遂者として、悲惨な死を思い詰める心の有り様というものを識っている。いま60歳を迎えているが、40代半ばでのああいう思い詰め方は御免だ。あれは死を受容するなんていうものではない。死と激突するようなものだ。死との格闘技と言ってもよい。もう僕にはそんな心理的体力はないから、いまは何と健康食品の愛好者だ。唐突にやって来るだろう死を健康的に出迎えるために必要だからだ。おかしな発想だが、何となく真剣にやっている。死を受容するためにやっている。

さて、死に関する独り言は読んでいる皆さんはもううんざりしていることだろうから、質のよい小説でも紹介して今日のブログを閉じることにします。

〇推薦図書「断崖の年」日野啓三著。中央公論社刊。これは癌発病から快癒まで小説家としての日野が、自己の死と結構弱気にではありますが、それこそ真剣に向き合った小説のようなエッセイのような重厚な作品です。まだご自分の死と向き合っていない方にはお勧めの書です。よろしければどうぞ。結局日野は後年その癌のために亡くなりはしましたが。

文学ノートぼくはかつてここにいた   長野安晃

宗教とネポティズム(世襲制度)

2007-03-16 00:41:12 | Weblog
○宗教とネポティズム(世襲制度)

宗教におけるネポティズム(世襲制度)は、その宗教を存続させる道具にもなるが、マイナス点の方が大きいように僕は思う。僕は無神論者であり、実存主義者だから、敢えていうが、既成宗教においても新興宗教においてもネポティズムを取り入れたその瞬間から宗教的堕落が始まっている、と言っても過言ではない。無論このような堕落は政治の世界においても、経済の世界においても、その他のジャンルにおいても同様に起こる。それは歴史が証明している事実である。いまさら北朝鮮の例をあげるまでもないだろう。

さて、今日は宗教におけるネポティズムの悪影響についての論及である。既成大宗教については僕は西本願寺しか知らないが、他の大宗教においても同じような堕落の後は散見できるのではないか、と思う。西本願寺の堕落の例は、僕の23年間に及ぶ教師生活の後がよく証明している。逆説的な言い方だが、無神論者だからこそ、宗教者たちの堕落がよく見えるのである。彼らが普通だ、と思っていることが普通ではない。西本願寺の宗教者?たちは、無神論者に対しても宗教的行事への参加を平気で、当たり前であるかのように要請してくる。それは校務という名のもとに。無神論者は宗教に対して鋭敏な感覚を持っている。言葉を換えて言えば無神論者ほど、宗教の意義をよく知っている者はいない、とさえ断定できるのである。それは信じられない人間の魂の奥底から発せられる、宗教に対する期待とその挫折が根底にあるからである。だからこそ、無神論者は、無神論者としての態度を貫くのである。寺に生まれて何不自由なく育ってきた僧侶たぢは、かえって信仰というものの厳しさを知らない。知らないから悩まないのである。自分たちの存在理由の意味や重さに想いを馳せることがない。自分たちが何故いま社会的にも経済的にも恵まれているのかがわからないのである。それがネポティズムが創り出してきた結果なのである。僕は宗教法人が経営する学校における23年の永きに渡る孤独な闘いに破れた。ただ、僕は宗教という本質に破れたのではなくて、それを悪用するエセ宗教者たちによって、教師という世界から葬り去られたのである。

新興宗教はどうだろう? たくさんある新興宗教の中で、僕が選び取ったのは、谷口雅春という宗教的天才が創り出したある教団であった。僕はその中に一旦は飛び込んだ。が、どうしても停まり続けることが出来なかった。それは何故かというと、ここにもネポティズムがまかり通っていたからである。僕は谷口雅春という宗教的天才の書いた宗教哲学を敬愛したのであり、それ以外に意味を見出せなかった。現在は谷口の孫にあたる人が総裁になっているようだ。谷口雅春の宗教的天才の書物には確かに感動させられたが、その地位を受け継いだ谷口清超の書いた書物は僕に何の魅力も感じさせることはなかった。エッセイ風の書き物が多いのだが、それは宗教色抜きのエッセイとしてもニ級品だと思う。その息子の副総裁(もう名前さえ忘れたが、現在の総裁ではある)が、機関紙にかつてずっと連載していた「秘境」という小説だが、これはもう目を覆いたくなるような作品(といえるだろうか?)だった。副総裁というだけで、これだけの権利が与えられているのである。その小説は、もうとうの昔に廃れた自然主義小説の出来損ないのようなもので、僕には退屈極まりないものにしか感じとれなかった。それは完成して、この宗教が所有する出版社から「秘境」という題名で新聞に広告が出ていた。そのずっと以前からもうこの宗教はダメだ、と僕には感じとれたので、当然のように僕は無神論者件実存主義者にもどった。これが自然なのである。僕はこの新興宗教と巡り合って、谷口雅春という宗教的天才の書き残した本は全て読む機会を与えられたのだ。それでよし、としよう、と思う。できることなら、この宗教はこのまま堕落の道を歩んでほしくはない。心からそう思う。僕が教師という仕事を本物の堕落した西本願寺の僧侶たちに奪われて、沈んでいるときの大いなる助けになったのは他ならぬ谷口雅春の大部の宗教的色彩を帯びた書籍だったし、たくさんの心やさしい信者の皆さんが手を差し伸べてくださったからである。それに対しては、心から感謝と敬意を感じている。だからこそ、この宗教がいつかはネポティズムから脱してほしい、と心から願う次第である。

堕落した既成宗教者? たちよ、利権を貪るためにだけ生きていてどうする? いまこそ、21世紀という想像を絶する生き難い世界の多くの人々を救えなくて、何が宗教か! 僕は無神論者として、実存主義者として声を大にして訴えたい、と思う。

〇推薦図書「宗教改革の精神」金子晴勇著。講談社学術文庫。さて、みなさん、視点を変えて今日はルターとエラスムスの思想対決という壮大な営みに想いを馳せようではありませんか。もう日本の既成宗教には厭き厭きしましたから。

文学ノートぼくはかつてここにいた   長野安晃

カウンセラーがもどかしくなったら人生相談をやろうかな

2007-03-15 00:06:18 | Weblog
カウンセラーという仕事はある意味小難しい仕事である。それはいつも直截的に表現することが出来ない仕事だからである。カウンセリングや精神分析学のいろいろな学派の書物を読めば読むほど、カウンセリング自体がやたらと難しいことのように思えてくる一瞬がある。とりわけ僕のところに訪れて来てくださるクライアントの方々は、かの有名な河合隼雄が粉骨砕身して、臨床心理士の地位向上に努力して、その臨床心理士にかかって、その結果河合流のカウンセリングに飽き足らないで、やって来られる人たちが結構多い。勿論どのような世界においても創設者か、それに近い人々のねらいから、だんだんとずれていくことが多々あることはよく分かっている。河合隼雄が頑張ったお蔭で、大量の臨床心理士が社会で活躍している。が、問題は多いのである。何だか形だけのカウンセリングをこなしつつ身分だけは保障されている臨床心理士さんの数が増えたのではないか、と僕は正直、疑問に思っている。
臨床心理士になるには大学院も出ないといけないし、その検定試験もやたら難しいということは僕もよく承知している。けれど、何かが足りない。臨床心理士のやり方に不満を持っていらっしゃる方々の多くは、話しても話しても、それに対する満足な応答がない、というものである。たぶん、このような不満が出るのは、前記したように、もともとの発想から逸脱してしまった、形骸だけの臨床心理士さんが結構いらっしゃるからではないか、と思われるのである。だからこそ、僕のようなコトバの力を信じるカウンセラーが時には必要とされるのである。僕は無意味なコトバは使わないが、クライアントの話はきちんと聞きながら、それに応じたコトバがけをする。それが僕のカウンセリングのスタイルである。臨床心理士さんからは逆に僕に対する反論や批判もおありだろうが、どんな世界であれ、ただ一つのことが絶対的に正しいのではない。おまけに誤解したまま資格だけは取ってしまう人々もいるのが世の中というものである。
僕は河合隼雄という人物がどちらかというと好きではない。嫌いとまではいかない。かなり中途半端な感情を抱いている。何故かと言うと、彼の代表作は何と言っても「影の現象学」(河合隼雄著。講談社学術文庫)であるが、この本を読み始めると、河合隼雄という人物の思想の粗さが目立つのである。確かにこの人は物知りだなあ、とは感じさせるのだが、教養の深さと反比例するように、焦点がぼけているのが分かるのである。だから、基本的に僕はこういう人が信じられないのである。もっと辛辣なことを言うと、河合の書いていることは確かに知的好奇心をかきたてはするが、たぶん多くの臨床心理士さんにも理解できないことがたくさん書かれているはずである。勿論一般読者は途中で投げ出すような本の一つである。こういう知性の型をもった人が臨床心理士の底上げをやった、ということにもともと問題があるのである。
僕は心理カウンセラーとして、このままコトバの力を信じて縦横にコトバを駆使しよう、と思う。僕のカウンセリングを信じて来てくださるクライアントのみなさんがいる限り、僕は、僕自身でありたい、と思う。僕のカウンセリングのスタイルは崩さないでいよう、と思う。自分で言うのも何だが、最近確実に腕をあげた、と感じる。その根底には、僕のこれまでの文学と哲学の蓄積が人間洞察の大いなる道具になっているからである。さらに言うと、その底には、人生の終盤を迎えてしまった人間だけが抱ける、他者に対する愛が深まった、と思うからである。
もう少しもうろくして、カウンセラーとして使い物にならなくなったら、僕は迷わず人生相談をしよう、と考えている。それが僕の脳髄に蓄えられた知性の最後の使いどころか、と考えているからである。まあ、カウンセラーをして以来、金にはあまり縁がないから、人生相談で食えるとも思わない。でもそれでいいと思う。大病を患ったら、医療保険などに頼らずに、医療放棄するからである。延命治療など御免被りたいからである。そして僕なりの死を迎える。それでよいではないか。人生、こんなものだ。

〇推薦図書「恋は底ち"から」中島らも著。集英社文庫。人生最後の段階の人生相談は中島らものようなおおらかな人生相談者になりたい、と思います。それが僕の密やかな願いです。一読をお勧めします。

緩慢な死

2007-03-14 00:10:10 | Weblog
昨夜といってももう午前3時になっていたが、ある人にメールを書いていた。その方から数日ぶりの返信を頂いたからである。その返信に、また返信を書いていたわけである。その方は僕がかなり遅くにメールを書いている様子が伺えるので、体を大切にしてほしい、という有り難い言葉をくださった。それにプロなんだから、余計に意識的な体力維持が必要なんだ、とも。本当に有り難いのひと言に尽きる。それに甘えたのか、僕はその方への返信に書かなくてもよいことを書いてしまった。何故かは分からない。たぶん幾分心が萎えていたからかも知れない。あるいはその逆に高揚していたのかも知れない。あまり詳しくは覚えていない。
僕は確か、唐突に大学1年生のときに、母親が父親の胸を刺し貫いた旨、何の脈絡もなく書いたように思う。そして、その頃からひどい耳鳴りと不眠に悩まされるようになったこと。耳鳴りはとれたが、不眠はその後もずっと続いて現在まで到っていること。歳を重ねるに従ってその不眠はひどくなっていて、いつまで起きていてもだいじょうぶだ、ということ。だから、強い睡眠薬さえ呑めば逆にきちんと眠れるから心配無用、などと書いてから、本題に入った、と思う。
書き終わって、今年の正月のことをつい思い出してしまった。母親とは電話や時折の僕の方からの訪問がいつとはなしに復活していた。たぶん、もう許せるか、という自信のような感情が芽生えていたからだ、と思う。母親は、決して悪い人間ではないが、感情の起伏が激しく、恐らくはその最悪の時に、あの事件も起こったのではないか、と思う。父親は母親との離婚後、十数年して肝臓癌で亡くなった。58歳という若過ぎる死だった。父親の死に関して、その遠因になっているかも知れないというわだかまりはまだ心の片隅に在った。その遠因についてはこの場で何度か書いたので略すが、いつも母親の電話の向こうの声を聞く度に、表現しようのない苛立ちに似た感情が湧いてくるのも事実だった。どんなことで喧嘩になったのかは忘れた。が、電話の向こうの母親の唸り声というか叫び声を聞いた瞬間に胸が悪くなった。もしそのとき目の前にいたら、絞め殺していたかも知れない。僕の裡の怒りは頂点に達した。ムカついた。やってられない、という気分だった。
正月の1日に絶縁状を書いた。何度目かの絶縁だが、今回は本物のそれだ。確信がある。もう二度と母親の声も姿も死に顔も見たくない。だから葬式にも行かない。これが一人息子と母親との決定的な別れとなった。絶縁状を書いたら勢いがついた。47歳で学校を追われるまで、叔母だけは信用していた。叔父もそうだ。幼い頃から、大学を受験して就職までよく面倒をみてくれた、両親よりも信用していた叔母と叔父であった。しかし、学校を追われて、離婚の騒動の最中で、叔母から絶縁された。それは吃音が少し混じるはずの叔父の聞いたこともない、なめらかな絶縁の言葉で終わった。もう二度と連絡するな、という言葉がいつまでも頭の中を駆けめぐった。仕事を失い、家庭を失い、再就職の当てもない状況の中で、この絶縁は最も堪えた。だから僕は自殺を決行した。しかし2度ともに失敗した。生き残ってしまった僕には、これからの人生は単なるオマケの人生のように感じられた。もう絶対に睡眠薬なしには眠れなくなった。それも生き残ってからのそれはたぶん最もきつい睡眠薬だ、と思う。
何年か前に今度はこちらから叔母に対して絶縁状を書いて送った。淡々と書いた。それで終わるはずだった。が、今年の正月に母親に対して絶縁状を書いて、その高ぶった感情が、叔母にも再度向いた。今度は恨み状を書いた。正月にはだから、絶縁状と恨み状の2通を投函することになった。これで、僕の血の繋がった人間との関係は全て切れた。僕はこの世界で、血縁上は一人ぼっちである。こんなはずではなかったのに、という感情と、これですっきりした、という感情の奇妙に入り交じったものを何故だかからだが感じとった。
学校を辞めてからの人生は僕にとっては言葉を少し整えれば、緩慢な死を待っている、という感情に近い。だから、死はいつやって来てもよい、と思って生きている。しかし、もう自分からは死なない。これは僕の美学である。死の様相が現れたら、前回のブログにも少し書いたが、できれば積極的な安楽死をオランダかベルギーで迎えたいが、それは不可能だとすると、無意味な延命措置だけは断固拒否しようと心に固く誓っている。きつい睡眠薬を飲み続けているのだから、どこかの臓器をやられるのは目に見えているが、むしろ僕はそれを待っているフシがある。確信はないが、自然に受け止められるだろう死の予告を想像することはしばしばある。
こういう中で、僕の裡に確実に芽生えてきた感情がある。それは、理由は定かではないが、若者に対する大いなる思い入れである。若者が自ら命を絶つ、という事実に直面すると涙が止まらない。当事者にとっては、勝手な思い入れなんてごめんだよ、と言われるのかも知れない。うざいんだよーって避けられるのかも知れない。でも、僕は構わない。ずっと彼ら、若者に言いたい。輝かしい未来が待っている、とは決して言わない。むしろ挫折も待ち受けているのかも知れないから、生の苦さを噛みしめることだってあるだろう。けれど、絶対に、オレみたいに、なるなよな! と大声で叫びたい。53歳になった。後、何年生きられるやら。ずっと、オレみたいになるなよな! って叫び続けたい、と思っているこの頃だ。

〇推薦図書「アメリカ・インディアンの書物より賢い言葉」エリコ・ロウ著。扶桑社。タイトルそのままの本です。この本は僕の尊敬する方に紹介された本です。読書に疲れたとき、人生に倦んだとき、そっと開くような本だと思います。

拉致被害者のみなさん、単純な政府のやり方に乗っかってはいけません!

2007-03-13 00:51:23 | Weblog
先の6か国協議で北朝鮮に対する核開発禁止の見返りとして先進各国がエネルギー支援をする、という約束を取り交わした。しかし、日本だけは、北朝鮮に対して拉致問題解決に協力的でない間はエネルギー支援はしない、という宣言をしたのである。この会議で、北朝鮮の核開発禁止における各国の行動に対して、何故日本だけが例外に置かれるのか、ということについては、たとえ拉致問題がその底にあるにせよ、国際的な信用をなくしたことは否定できない事実である。ドイツなどは露骨に日本に対する批判的とも皮肉ともとれるコメントすら残しているくらいである。僕の見解も同じであって、この6か国協議における日本政府のあり方は大いなる錯誤、あるいは誤謬であった、と思っている。もっとありていに言えば、日本政府には国際政治に関するセンスがまるでないというか、単純すぎる、と僕には感じられるのである。もう少しましな言い方をすると、日本政府には政治におけるしたたかさが決定的に欠けている、と言ったらよいのだろうか。
では、どうすればよかったのか? ということだが、政治の世界なのである。駆け引きを持ち込まないでどうするのか、ということである。結論的に言うと、日本は、この6か国協議でむしろ積極的に核をかつて現実に浴びた国として、エネルギー支援を最大限するのだ、という表明をすべきではなかったか? さらに、その上で、6か国協議の協議事項に明瞭に、拉致問題に関して北朝鮮は今後最大限を努力をするべきである、ということを6か国の合意事項として文面化しておくべきであった、と僕は確信している。勿論北朝鮮に対する感情的な怒りに関して否定するつもりはないし、その気持ちはよく分かるのだが、政治の世界は子どもの喧嘩の仕返しのようなやり方では、何も解決しないどころか、国際的な信用を失墜しかねない。事実、この6か国協議における日本政府の決定はかなり評判が悪いのである。
さて、昨日のテレビを観ていて、拉致被害者の会の方々の政府に対する要請事項として、拉致された人々が全員帰国するまでは、日本政府は今後エネルギー支援に限らず、一切の支援を北朝鮮にしないように、という要望書を全会一致で決定し、日本政府に提出した様子である。僕には拉致被害者の皆さんの気持ちは痛いほど分かる。だから、その痛みを分かった上で敢えて言う。拉致被害者の会の皆さんの行動の現状のようなあり方では拉致問題は絶対に解決しない。これは確信を持って言える。エネルギー支援だけに限ってもすでに日本を除く5か国の支援を北朝鮮はせしめているのである。北朝鮮にしてみればすでに、あの破れかぶれの「外交政策」は成功したことになっているのである。キム・ジョンイル総書記にしてみれば、しめしめ、という感じであろう。もう十分核開発の意味があったのである。さらに、まだこのカードは有効であり、核開発の全面破棄ではない、とまで主張する始末である。現在分かっているだけでも少なくとも覚醒剤の生産や、ニセブランド品の生産による儲けに頼らざるを得ない、疑問符つきの国である。犯罪国家である。そして国民は飢えている。すでに国家として機能していないのが北朝鮮という、エセ共産主義国である。中国やロシアが友好的にみえるのは、両国にとっての輸出国であり、また、思想的にも共産国の悪いイメージを北朝鮮一国にかぶせておくのにとても都合がよいからである。ある時期が来れば簡単に見放すのが政治の過酷な裏の顔である。いずれにせよ、北朝鮮はキム・ジョンイル総書記の時代で国としての幕を閉じる。決してその息子のキム・ジョンナムに受け渡されることはない、と僕には断言できる。
とりわけ安倍首相になってからの日本の内政・外交については、その発想といい、実行力といい、単純過ぎる。素人並のやっつけ仕事である。こんな政府を信用してはいけないし、こんな政府に対して、先の6か国協議における日本だけがエネルギー支援を拒否したことを、拉致被害者の会の皆さんは評価してはいけない。あれは国際感覚ゼロの、単純で、傲岸な態度表明に過ぎなかったのである。あれが、<美しい国、日本>の現れなのである。国際政治の世界で切腹しているようなものだ。全くの失策と言えるだろう。だからこそ、拉致被害者の会の皆さん、拉致被害者の全てが帰国するまでは、北朝鮮に対して何らの支援もするな、という要望書の提出は、気持ちは理解できるが、戦術の点で大いなる間違いなのである。あなた方の要望書は安倍首相の単純な政治がますます単純な右傾化をしていくことに手を貸すだけなのである。
拉致被害者の会のみなさん、もっと政治に対して、したたかになりましょう! いや、拉致被害者のみなさんだけでなく、国民全体がしたたかに政治を見張っていきましょう! それが正しい政治に対する姿勢です。と、僕は思うのですが、みなさんはどんな感想をお持ちでしょうか?

〇推薦図書「冒険としての社会科学」橋爪大三郎著。毎日新聞刊。これ一冊で戦後民主主義を通して、日本の戦後の姿が見えてきます。戦後日本社会が分かる本です。それがわかれば、現在の政府が戦後の様々な過ちに満ちた世界の中でも最低の部類に属する、ということがお分かりになるでしょう。市民がしたたかに生きるためのガイドブックだと思っていただいてよい本です。一読をお勧めします。

メメント・モリ(死を想え!)

2007-03-12 00:49:33 | 観想
○メメント・モリ(死を想え!)

60歳である。7月にはまた歳を一つ重ねてしまう。だからこそ、いま控えめに言っても、人生の折返点をとっくに通り過ぎた男が、自分の死を想うことの重要性を感じている。過去の出来事はもう参考にはならない。新たな地平を自分で切り開いていかねばならない。自分の死という終着点をはっきりと定め直す時期なのである。そうであるからこそ、僕は常にメメント・モリ! と自分に言い聞かせているのである。

人間の生とは、起きて、寝て、の繰り返しの中で、仕事をしたり、勉強をしたり、読書したり、娯楽に興じたり、愛し合ったり、憎み合ったりしてのかたちとして在る。こうして書いてみるとたいしたことがないのが人生というものである。しかし、その中に生の喜びや哀しみを感じられるのも人間にとって優れた点である。この経緯がどこかで行き詰まると、精神を病む。それが心の病の原型である。だから、人間は自分の気分や感情を詰まらせてはならないのである。すっきりと流してやる必要が不可欠だ。その過程で、感情のもつれや、対立や、失敗があってもよいのである。自分の感情を押し殺して、安逸な生を貪る方がそのツケが後で大きく襲ってくる。その意味で人間は正直でなければならない、と僕は思う。自分をごまかしてはならないのだ、と思う。ある時、それは日常性からの逸脱を伴うのかも知れないが、逸脱することで、生の充溢が感じられるなら、いくらでも逸脱することである。平穏な日常を守ることだけを考えていると、いずれは、その守りの殻にひび割れが生じることになる。だから、長い目で見ると人生の帳尻は合っているのである。いま、失敗している
、と思っている人も必ずその失敗は取り戻せるのであるし、また、いま我慢に我慢を重ねて日常性だけに縛られていると、それは必ずと言ってよいが、どこかで崩壊する危機に直面させられることになる。それが人生というものの姿ではないか、と思う。

さて、人生というものに想いを馳せる時、忘れてはならないのは、生を充溢させているかどうか、という点検である。生き生きと生きているか、という自己観察である。そして、その底には死をいうものが隠れているから、自分の死から目を離さないことである。若者は生の充溢感をどれだけ感じているか、ということに神経を集中させていればよい。またそうでなければならない。若者が生の只中で死を選んではならない。これだけは誤解のないように力を込めて言っておく。が、僕のような人生の折り返し点を通りすぎてしまった人間は、その死に方については、きちんとした覚悟の仕方があってしかるべきである。僕にとっては、どう生きるかということと、どう死ぬかということとは同義語である。それが、僕にとってのメメント・モリ(死を想え!)ということの実体である。もういまとなっては何もかもが命がけである。そういうふうに感じるのである。残された日々を大切に? 甘い! そんなものではない。あくまで、命がけなのである。それはたとえば、自分の生が、明日終わってもよい、という覚悟のつけかたである。であるから、僕に不自由な心の垣根はない。もうそんな面倒なものはかなぐり捨てた。いま、僕の裡にあるのは、<自由>と<希望>という二つの概念だけである。だから、何だって出来る。老いとは可能性の収縮を意味しない。老いこそ、可能性の拡大だ。破れかぶれで言っているのではない。それは前記したような二つの大切な概念性が元にあってこそ言える真実である。

抽象論だけではいけないので、僕が死に直面している場面を想像するのだが、もう助からないのに、医者の言いなりになってたとえば転移した癌細胞を取り除く手術は繰り返したくはない。抗ガン剤などはもっての他だ。絶対に使わせはしない。拒否する。家族のために一度くらいは手術してもよい。だが、しないのが、僕の原則的な考え方である。癌が発症したら、そのまま死を迎えたい。しかし、腹立たしいのは、日本の医療の現実である。死と直面した人間に対して無意味な延命治療をする。癌のことを話題にしたが、どんな病気であれ、延命治療はごめん被る。むしろ、積極的な死を選びたい。その意味で安楽死が理想的である。残念ながら、日本は安楽死を法制化して認めていないので、お金があれば、その制度が認められているオランダかベルギーで安楽死したいものだが、死ぬためだけにそれだけの甲斐性はないだろうから、消極的に死を待つしかない。変に延命をされると死の直前の苦しみが持続するばかりで、これは絶対に避けたいものである。その意味では突然死というのは僕にとっては都合のよい死にざまである。お年寄りがポックリ寺という、ある種の安楽死を願う。

気持ちでそういう信仰?を持つのは理解出来る。たいていのご老人は積極的な言葉にはしないが、老いと死とは、普遍的な課題である証拠だ。苦しまずに、周りに迷惑をかけずに死ぬことが、生きる目的になるという逆転現象が起こるのは、安楽死というものの意味を日本人は深く考えないからおかしなことが起こるだけなのである。

もう僕は確実に死にゆく者の領域に足を踏み入れた。それは動かしようのない事実である。誰もが死ぬ。だから一生懸命に生きるのである。と同時に、僕は心の中であらためてメメント・モリ、と呟いているのである。それが、僕の現実である。

〇推薦図書「ダイイング・アニマル」フィリップ・ロス著。集英社刊。「死にゆく獣」としての男の生と性とをあますところなく描ききった作品です。あのアメリカン・ドリームの実現と青春のほろ苦さを描いて有名なフィリップ・ロスが老年を迎えて、ここまで考え抜いて書いてくれたことに感謝したい気分で読みました。おもしろく読めますので推薦しておきます。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

逸脱を生きる作家がいた

2007-03-11 00:05:21 | Weblog
中島らもという作家はおもしろい、というよりおもろい作家である。最初に彼の存在を知ったのは、「探偵ナイトスクープ」という、お笑いタレントがおもしろいネタを捜し出してきて紹介する番組であった。当時の探偵長はもう芸能界を引退した上岡龍太郎だった。そこに中島らもが大阪にある、もうつぶれかけの喫茶店を紹介した。そこで、妖怪のようなオバサンが出してきたのは、ネーポンという不思議なオレンジジュースだった。それをこの世界に蘇らせたのが、中島らもその人だった。ネーポンというオレンジジュースは僕も知っていた。何十年も前に確かに僕も飲んだことのある懐かしい味が口の中にひろがるような感じがした。そのときの中島らもというタレント(だと僕は勝手に思い込んでいた)は、もうこれ以上ゆっくりとは喋れないであろう、というスピードで、のらりくらりと喋るのだが、そのしゃべり口調がとてもおもろいのであった。(それはおもしろいのではなく、あくまで<おもろい>のであった) 話は中島らもからそれるが、ネーポンというオレンジジュースは神戸でつくられていて、たった一人のおばちゃんがいろいろな形の瓶に入れて出荷していたことが先日の新聞に載っていた。今年限りで生産はとりやめるのだそうだ。だから、中島らもが、中島らもらしくこの世を去ったように、ネーポンもネーポンらしく、この世界から姿を消すのである。
中島らもはかの有名な灘中・灘高出身だから、順当に勉強していれば、東大卒という肩書をもった作家になっていたかも知れない。いや、順当に東大に進学していれば、作家にはなれなかったかも知れない。中島らもは高校時代から、灘高から東大というレールの上から逸脱していった青年であった。それも限りなく逸脱していったのである。生の逸脱とは彼のためにあるような代物であるように、僕は思う。灘高生の中島らもは、酒に溺れ、クスリに溺れ、女に溺れ、いつもラリっているような、いつ精神病院に収監されてもいいほどに、壊れていった。自ら壊れていったのである。
中島らもは酒とクスリと女によって生を逸脱し、壊し切り、崩壊の中から、自らの芸術性を自らの頭の片隅から拾い出してきたような作家である。彼の作品は、初めから壊れていて、その瓦解の中に壊れ物で建てたような存在である。何もかも捨て去った後にやってくる、もうどうにでもなれ、という居直りが、中島らもの<笑い>である。そして同時に、<哀しみ>でもある。だから読者は笑いながら、泣いてもいる、という不思議な感覚に襲われる。実生活においても灘中・灘高から大阪芸術大に進学した。勿論学校に真面目に通っていた形跡はない。籍を置いたというだけだっただろう。だって、彼は酒とクスリでずっとラリっていたから、学校なんかへは通えなかったはずである。ひどい落ちこぼれである。そして、彼は落ちこぼれることに酔っていた青年でもあった。酒に酔うように落ちこぼれた自分に酔っていた。それが中島らもという存在のあり方であった、と僕は思う。
中島らもという作家は酒とクスリから作品を編み出したような作家であった。だからいつも彼の作品や人生相談には、現実感が薄くて、力は抜けてはいるが、中島の作品を手にする読者にとっては、その崩壊感覚が、自分の崩壊感覚と重なるのである。重なるだけではない。中島はその重複から、笑いが漏れるように、作品を編み出していった。そこが素人でない玄人肌の作家と言えるところである。
晩年、といっても中島らもが亡くなったのは50歳そこそこだったから、晩年という言葉を使うこと自体が<おもろい>のであるが、ともあれ、晩年はもう酒とクスリの影響で手が震えて、自分では原稿も書けなかった。彼の晩年の作品は奥さんが口述筆記したものである。それだけ彼はギリギリのところに来ていた、と思うが、それを崖っぷちとは考えない個性でもあった。だからこそ中島の作品には、どんなに真剣なテーマを取り上げても、その底には哀しい笑い、それをペーソスと呼んでもよいが、そのペーソスが、彼の生きざまと彼の作品の普遍性を高めたのだ、と思う。
中島らもの最期は、当然のように酔っぱらって階段から落ちて頭を強く打って死んだ。まるで、それが正当な死に方ででもあるかのように。そして、中島らもという作家はネーポンと同じように、この世界から姿を消すことになった。彼の代表作は「今夜、すべてのバーで」だが、僕は敢えて中島らしい短編集を紹介して、このブログを終わろう、と思う。

〇推薦図書「白いメリーさん」中島らも著。講談社文庫。生を逸脱し続ける作家、中島らも、ここに在り、という短編集です。これはやはり関西弁で、おもろい作品群なのです。あくまで、おもしろいではなく、おもろいのです。

デ・コンストラクションという精神性

2007-03-10 19:37:13 | Weblog
だいぶ前にこの場で紹介した<哲学的・文学的青年>のことを書いた。その青年とは、ずっとメールと電話で通じ合って来たが、このところ僕のメールに返信がなかった。心配だった。大体、天才的な存在というのは何をやらかすのか、凡庸な僕なんかには分からないことがあるからである。電話の向こうの彼の声はくぐもっていた。落ち込んでいる、と言う。僕は正直嬉しかった。落ち込んだままの彼が、その落ち込んだ自分を僕にさらけ出したのだ。それは僕という人間を信用してくれている証左だろうから。彼は25歳にして、生の生き難さを体感している青年である。挫折体験をいまや、乗り切ろうとしている真っ只中にいる青年なのである。結局何を話したのか、よく覚えていないが、かなり僕自身は真剣に彼の話に耳を傾けていたつもりである。友人だからだ。それが最低限の彼に対するまっとうな態度であろう、と思ったからである。
彼には小阪修平という日本の若き哲学者で、僕はかなり高い評価をしている哲学者の「記号の死」(作品社)と、イギリスの左翼系の文芸評論家というか哲学者のテリー・イーグルトンの「哲学とは何か」(平凡社)の2冊を薦めておいた。たぶん、彼は生真面目に読んでくれることだろう。そういう青年なのである。彼にはこの場に何度も書いている重松 清の作品は敢えて薦めなかった。彼の気持ちが動いて読む気になればそれでよいし、そうでないなら、まだ読まなくてよい作家だと思ったからである。
重松は僕より丁度10歳年下の作家である。そしてやはり登場人物の主人公に当たる人々は30代後半から40代前半の人々の心理をよく描ききっている、と思うが、しかし、重松の凄さは、僕のような50代の中高年層にはぐっと来る作家なのである。たぶん若者は十分な感情移入は出来ない。40代前半の人々も、生活の中に埋もれて頑張っている最中だから、よほど成熟度の高い人でないと、重松の人生における切なさ、取り返しのつかなさ、に共感しつつ、それでも人生を生きねばならない、と感得できる人は少ないのではないか、と思う。彼は多作の作家であり、人気の高い作家ではあるが、彼の本質を掴んで読んでいる人はたぶん団塊の世代とそのほんの少し年下の世代だろう、と僕は思っている。彼が人気作家であるのは、プロットの運びの巧さと切なさだけは、人生にすでに倦み疲れた人生の後半期を生きている僕たちのような世代だけに限らず、若者にもファンをつくってしまうのであろう、と思う。
さて、この間から何度かフランスの哲学者のことを書いてきたが、やはり抜かして通れない思想は、デ・コンストラクション(脱構築)という思想性である。それは近代思想に見られるような構築の論理でもなく、やたら元気な表層的な作家たちの、たぶん彼らにも認識はされていない、再構築でもない。デ・コンストラクションとはあくまで、構築という概念をもう逸脱し続けるような思想性であり、これは20世紀の後半期に生まれて21世紀へと受け継がれた思想性である。簡単に言えば、お茶の水博士も存在せず、鉄腕アトムも存在しない21世紀という未来が、現代となったいま、もう僕たちは構築するという虚妄の世界像から限りなく逸脱していく過程で行き着く思想性に巡り合うことに期待をかけてもよい時期なのである。そういう意味で僕は、デ・コンストラクションという思想性に想いを馳せているのである。また期待もしているのである。
デ・コンストラクションを意識せずに作品として表現しているのが、一見読みやすい印象を与える重松 清なのである。しかし、彼は決して大衆作家などではない。彼の作品は近代に於ける夢の挫折をいかんなく表現し、その挫折を超えて、再構築という単純な思想性を読者に語りかけるのでは決してない。彼の作品の結論は常に、読者の判断に委ねられている。それは彼が単なる娯楽作家ではないことを否応なく証明している証左である。重松は、新たな精神性の価値意識をすでに人生の後半期を迎えてしまった世代に、20世紀とは異なった生の価値意識を提出しているのではないか、と僕は思っている。それはちょうど、精神のデ・コンストラクションに相当する思想性なのだ、と僕には直観的に分かるのである。何度か夢の挫折を味わった登場人物たちの精神のイニシエーションストーリーを描く作家であると書いてきたが、そのイニシエーションには、フランス哲学がこれまで21世紀に生きる人間たちに突きつけてきた、脱構築という思想性が透けて見えるのである。
直木賞作家に「ビタミンF」でなったが、選考委員たちはそこまで考えてこの人を選んだのか、少し疑問に思うこの頃なのである。

〇推薦図書「エイジ」重松 清著。新潮文庫。イニシエーションストーリーの形式はとっているのですが、深読みをすると、確かに重松は脱構築の思想性を物語の中に散りばめているような気がします。また本文中の作品についても興味が湧いた方はどうぞ。

生きるために過去を忘れろと、主張する人がいるが・・・

2007-03-10 00:42:59 | 観想
○生きるために過去を忘れろと、主張する人がいるが・・・

最近、よく出版される軽い人生論ふうの読み物の中には、過去は忘れろ! と書いてあるのだが、僕も過去に悩まされている人間の一人として、何冊かのこの類の本はあさったことがある。しかし、この種の本には、大体において、忘れていることが一つある。それは、これらの類の本は、あくまで啓発本であり、人生を変えるような力はない。これが僕のこの種の本の読後感である。そうできれば楽だろうな、というくらいのものである。また、この種の本にそれ以上の期待をしても仕方がないのである。過去はどうしたって蘇ってくるものだし、その蘇ってくる過去に苦しいことがあればあるほど、過去から追いかけてくる人や出来事などは重くて、取り除き難いものなのであるから。だから、人間はどうしようもなく過去という人生の残滓を生唾を呑み込むように生きているのである。簡単には吐き出すことの出来ない生唾である。それが、それぞれの人生を縛っている過去、という産物である。そうして現在とは連綿として、それぞれの過去によって規定され、拘束されているのである。

つらい過去だけを忘れることが出来るようには人間の心は出来ていない。忘れたくない喜びに満ちた過去もあれば、忘れたくても忘れられないつらい過去もある。それが、生というものの実体である。

しかし、できることなら、人間は現在をより生き生きと生き抜きたいものだ、とは考えている。だから、つら過ぎる過去は、癌細胞みたいに手術で切り取ってしまいたいとつい思う。でも人生とは癌の摘出手術を常に失敗して、癌細胞が他の臓器へと転移するようなものではないか、とも僕には思えるのである。だから、人間の苦しみは消えないし、消えにくいのではないか、と思うのである。生きるに従って人生の苦さが増えるのは確実である。そうでない、と思っている人は、脅かすわけではないが、そのうちに、生の苦さが生きている間に襲ってくる。それが生の真実の姿であるから仕方がないのである。

では、生には救いがないのか? というとそうでもない。僕は宗教家ではないから、何かの絶対者に、己の苦悩を任せてしまう、というような思考回路は間違っている、と思っている。そんなふうに考えたことも僕の永い人生の中では確かにあったが、それはどうしても僕の腑に落ちない思考回路であった。だから僕は宗教というものを信じるのを決定的に止めた。そうして結局僕に残ったのは実存的に生を生き抜くという態度と、その覚悟だった。何らかの宗教で救われている人はここから先は読む必要はない。そういうことの出来なかった人だけがこの先を読んでくださればよい。

人生に苦悩はつきものである。それを前提としたい。問題はその苦悩は過去と深く繋がっていて、簡単には取り去ることが出来ないから人間は悩むのである。苦しいのである。生に過去は常についてまわるが、苦しく、苦かった過去を引きずって生きている人ほど、自分のその苦しさや苦さに蓋をして潜在意識の中に隠してしまっている人が多い。しかし、その蓋たるや、鍵もかからず、簡単に開け閉めできるような代物であるようである。だから、人生に苦しんでいる人ほど、過去を忘れようと思う気分が強いのだが、実際には後生大事に自分の裡に苦しい過去を抱えているのである。そして苦しめられている実体と向き合うことをせずに、目を背けて生きているのである。それがわけの分からない人生の苦しさの実質である。実存的に人生と向き合う、とは心の奥底に隠し得たと思っている苦悩にかぶせた蓋を一旦取り払ってみて、その苦悩の実体と面と向き合う、というのが前提である。そして、向き合ってみて、自分が抱えもっている苦悩が苦悩の実体をすでに失った幻影のようなものである、ということを思い知ることである。そこからしか、生に再び生き生きと繋がる細い糸は見えては来ないのである。簡単なことだ、とは僕は言っていない。それはかなりの努力が必要である。ただ一つ言えることはその努力は必ず報われるということだけは確かな真実である。簡単に言ってしまえば、実存的に生を生きる、というのは、こういうかなり人間的で危ういが、必ずやそこにはつかみとれる生への道筋が開けているということである。少なくとも僕はそういう生き方を選んだ。過去は忘れるものではなく、向き合うものである。そして向き合って苦悩という癌細胞のように変化してしまった実体を超克するのである。生への道筋を見つけ直すのである。

その意味で、生に対する夢の挫折とその超克という課題は、中高年にとってこそ、大いなる課題である。もう過ぎたことだ、と安心している場合ではない。いまを生きるのである。人生の折返点を過ぎた人々も。いや、生きなければならないのである。中高年の自殺が多いが、実際は、中高年にとっても人生は、これからなのである。生とはいつも、これからの要素を含みつつ僕たちの前に立ち現れてくるような存在なのだ。苦悩と向き合って初めて、その向こうに<希望>という二文字の意義が視えてくるのではないだろうか。僕はそんなことを考えつつ、今日一日をやり過ごした。残念ながら、僕にはまだ新たな<希望>という二文字が見えただけで、それを自分の手で掴みとれてはいないけれど・・・・・

〇推薦図書「共同幻想論」吉本隆明著。いまは文庫で出ています。アマゾンには出版社が出てこないのです。いま手元にはないので、もし興味があれば本屋で見つけてください。吉本が実存主義者か、というとかなりずれた見方になってしまいます。どちらかというと、彼はずっと真正の左翼主義者だ、という感じがします。いつも彼は一人きりで思想の深みに分け入って生き抜いてきた哲学者だと思います。彼が伊豆でしたか、海水浴をしていて死にかけたことがありましたが、そんなありきたりの死に方はしないでくれよーと僕は祈るような気持ちを抱いた記憶があります。幸運にも彼は蘇生し、現在も活躍しています。もしこの本を読まれて共感された方はかなり難しいですが、「言語にとって美とは何か」(これも文庫でいまは読めるはずです)に挑戦してください。お勧めです。

文学ノートぼくはかつてここにいた   長野安晃

大人はもっとしっかりと絶望しよう!

2007-03-09 00:30:48 | Weblog
僕が教師として勤めていた頃、知っていた同じような私立中学や高等学校の形態がどんどんと変わっていく。ある学校は男子校だったのが男女共学になったり、単一の中学高校だったのが、大学の附属校になったりでいよいよ私立の学校の生き残り策もその競争の形態がはっきりとしてきたように思う。立命館大の附属校になったり、龍谷大の附属校になったり、あるいは京都産業大のそれになったりで、附属校化が男女共学制の次の流行りらしい。僕が永年通っていた東山にあるかの女子学園は、どうも女子の総合学園という名目もあってか、その流れには乗れなかったようである。聞くところによると、中学校に留学を取り入れた変なカタカナ語のコースが出来たと思ったら、来年度からそれとは別の三類というエリート? コースを創るらしい。もうこうなると恥も外聞もないらしい。もともと思いつきで(みなさんは不思議に思われるでしょうが)大切なことが決まってきて、何とかそれでもやってこれた妙な経験のある学校なので、たぶんこの決定も誰それの思いつきが如何にも考え抜いた提案であるかのごとき様相で、職員会議に提案され、恐らくはいまの職員会議でまっとうな議論が出来ているとも思えないので、教職員のみなさんの頭の中には「イキノコリ」という訳の分からぬ言葉が渦巻いていて、すーと通った議題になった、というのが僕の想像だが、たぶん間違いのないところだろう、と思う。
何人かの元同僚にメールをしてもいつの頃からか、返信が来なくなった。たぶんメールどころではないのだろう。訳のわからない忙しさ(と思っているだけで、その多忙さの中に自分を置いて安心しているだけだろうが)の中で、食うために働いているのは当然だが、いまの暮らしのレベルを下げたくない一心でがんばっているのが妥当な姿であろう。
大体において、コースを創設して、大学進学の多様化に対応するという名目で生徒募集をやってきたのが、多くの私立学校の現状だったのである。僕がいる頃から、その矛盾は出ていた。実はコースを分けるというのは生徒募集上、学校にとって都合がよいだけで、生徒やその親たちにとってはそれほどメリットのない制度なのである。実体のない夢を売って、商売している感があり、そのエセ物の夢に釣られて親は自分の大切な子どもを優秀なコースへ入れるように塾に通わせて、子どもの遊ぶ時間をどんどん奪っていった。そうして入った学校が、そのコース制度という名の差別、選別教育の只なかで、生徒の心は荒廃していくことの責任を教える側は見ようともせず、学校に行けなくなった生徒や、授業に出られなくなった生徒は切り捨てられる。リストラの学校版なのである。教育の多様化という耳障りのよい言葉のもとに、コースをますます細分化させる。とりわけ中学校でその典型例になろうとしているかの学園は、低年齢層である中学校で、なんと3つのコースを創るのである。矛盾が起こらないはずはない。生徒たちの心の状態というものに想いを馳せられる人間はもういないのだろうか。
教師がその失ってはならない価値意識、それは単純なものでよいのであるが、例えば、生徒に生きる希望を与えるのだ、というようなもので十分なのだが、そういう価値意識が、教師という職業人の中から、それは公立であれ、私立であれ、失われつつあるのではないだろうか。最も優秀とされる高校・大学を卒業して、リストラされたり、事業を立ち上げても倒産したりする世の中である。会社はアメリカのレイオフ制度の悪い面だけを真似してリストラや子会社への左遷を意味する出向を平気でやるのが特段驚きもしない事態になってしまった。もう既に学歴社会は通用しない。学歴社会であるかのごとき実体のない夢を売っているのは受験産業と、進学校に名を連ねている学校だけである。親は自分たちが既に知っている世界に目を覆い隠すかのようにして、自分たちと同じかあるいはもっと切ないほどの「未来」を子どもに与える幻想を抱いて進学させる。一昨日亡くなったフランスの哲学者であるジャン・ボードリヤール氏だったら、こういう現実をどのように描くのだろうか? 一度、日本の教育の問題だけを取り出して、彼にはその実体を余すところなく表現の場で評価してほしかった、とつくづく思う。
小学生の低学年から塾、進学校、浪人したら予備校、そして一流どころの大学、もうよいではないか。もういい加減にこういう悪循環から子どもを解放してあげようではないか。それが大人としての急務の責任というものである。もう子どもを持つ親は十分に絶望しているではないか。ごく、ごく、一部の勝ち組への競争に子どもを駆り立てるようなブザマな行為はもうやめようではないか。いじめ問題や、不登校や、引きこもりが、その過程で起こることくらいはもう分かったはずである。子どもを飯の種にするような輩たちのもとへ送り出すような愚行はいまの親の世代でやめにしようではないか。大人はもっとしっかりと絶望しないといけないのである。そうではないですか?

〇推薦図書「十九、二十」原田宗典著。新潮文庫。原田宗典氏はずっと前にも紹介しましたが、重度のうつ病患者です。この本は、その彼が書いた哀しくも切ない青春小説です。重松 清もよいですが、この人も素敵な人です。大人になったみなさんこそがいま読むべき物語の一つだ、と僕は思います。どうぞ。

居直ろうじゃあ、ないか!

2007-03-08 00:38:30 | Weblog


若い頃に描いた夢を年月を経るにしたがって、その夢とは縁遠いところで生きざるを得ない、という挫折した感覚を大人になると否応なく持たされる。これが少数の勝ち組の人々を除く、その他大勢の人々に共通する感覚だ。1969年から1970年代の初めにかけて、僕は目茶滅茶な高校生活を、学生運動という波に押し流されるようにおくっていたし、この運動に未来はないな、と頭の片隅でぼんやりと考えながら、その一方で、フランス文学に憧れ、フランス哲学を敬愛し、フランスに本気で(本当はその気になろうとしただけだったのかも知れないが)留学するつもりであった。当地で某かのアルバイトをしながら、きっと大学資格試験(バカロレア)に通って、パリのソルボンヌ大学へ入学してやるぞ、というもの凄い非現実的な夢を夢とは思わずに生きていたように思う。事実僕の高校卒業時の進路希望調査書には、ソルボンヌ大学に留学予定、と書いた。それもたぶん、しっかりと迷いなく書いた、と思う。当時、両親にもそんなふうに、勝手に告げていた、と思う。別に精神に異常をきたしていた訳ではない。僕の大いなる人生における<居直り>であった。そうすることが、僕の存在証明でもあった、と思う。僕にとってはフランス留学は非現実的であり、かつ大いなる存在感のある「現実」でもあった。が、僕が行き着いたのは、東京の秋葉原という巨大な電気街だった。そしてやっと電気屋でのバイトをしながら、アテネ・フランセという語学学校に通っていたに過ぎない。訳の分からない挫折体験の最初だが(最初と書いたのはいくつもそれは僕にはあるから)、それは間違いのない挫折体験であり、実体のある挫折だったのである。

以前21世紀という時代は、やけに過去に想像した未来像とはかけ離れてしまったイヤな現実がいっぱいあることを書いたように思う。そして、この時代に生きる若者はたいへんだ、とも書いた。若者よ、夢を持とう! と言っても無意味なのだろう。たぶん、現代に生きる若者には挫折のための夢すら描けないのではないか? それがいまの若者が置かれている精神状況ではないか? 何となくそう思えるのである。彼らには過去の僕たちに出来たはずの、一旦夢を描いて挫折することすら許されていないようである。現代に生きる若者は、夢を描くことをすっ飛ばしてこの酷薄な現実と向き合わねばならない。感性が鋭ければ鋭いほど、この現実の只なかで未来を想像してみせる、という行為が如何にエセものであるのか、ということに否応なく気づいてしまうのではないだろうか? そうすると、自分の、未来のない世界に生きる苦しさだけがどっと押し寄せてきて、もう消えてしまいたい! という気分に襲われてしまうのではないだろうか? リストカットを繰り返す若者が、自分の血の吹き出る手首を見て、生きている実感をやっとつかめる、という哀しい現実は世の中にたくさん存在する。そうやってギリギリのところで生きている若者たちがいる。

過去に夢を描いて、絵に描いたように挫折して、切ない現実の中で息をひそめながら生きてきて、ある日唐突にリストラ宣言されて、投身自殺する中高年の数はこれからも減りはしないだろう。もう大人にだって、夢の挫折体験が、生にしがみつくための心の道具にはならない時代なのかも知れない。自分の子どもたちの世代に未来はすばらしいんだ、という幻想すら与えられなかった世代が、僕たちの世代なのだろう。あるいはもっと下の世代も同じ道筋を歩んでいるのかも知れない。中学生や高校生のいじめ自殺はそうでなければ説明がつかない。勿論親だけが責められるべきではない。親だってギリギリのところで生に耐えている時代なのだから。自殺者が3万人も出る国なのだから、いまが、かつての青年たちが夢見た未来と如何に遠いものであるのかがわかるではないか。

これが、我々を取り巻く時代性というものならば、もう生き抜く手は僕には一つしかないように思われるのだ。それは若者も、中高年も、同じ理屈でよい、と思う。いま僕たちに必要なのは、自己の生のあり方を肯定することである。いや、肯定なんてできっこない、という人もひっくるめて、肯定するのがよい。もう、矢でも鉄砲でも持って来いよ、という<居直り>こそが、いま、僕たちに必要な心のエネルギー源なのではないか、と僕は思っている。そして、そうやって死が向こうからやってくるまでは、生き抜いてやるぞ、という<居直り>を実践することだ。若者たちはいきなりだが、その居直りを学んでほしい。そのためには、夢破れた親の世代が、居直って生き直さなければならない。それが、現代という時代の結構重要な課題だと僕は思うのですが、みなさんは賛成してくれますか? それとももっとよい手があったら、教えてほしいのです。僕だって、いまやっと居直って生きているに過ぎないのですから。

〇推薦図書「透きとおった悪」ジャン・ボードリヤール著。紀伊国屋書店刊。僕の敬愛するジャン・ボードリヤール氏が亡くなりました。哲学者であり、社会学者でもありました。常に刺激的な発言をし続けたフランス知識人の典型と言ってもよいでしょう。彼が最も日本人に知られるようになった著書はたぶん「消費社会の神話と構造」です。こちらもどうぞ。「湾岸戦争はなかった」という作品もいいかも知れません。いずれにせよ、すばらしい知性を失ってしまいました。残念です。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

孤独であるためのレッスン

2007-03-07 00:28:22 | 観想
○孤独であるためのレッスン

重松 清の作品を読んでいると、それはいくら読んでも終わりのない円環運動のように、僕の胸の中をえぐってくるように感じる。それは悪い感触では勿論ない。人間の、かつては抱いていたもっと単純で豊かな未来に対する夢を主人公たちはみんな持っていて、そして、迎えた21世紀という時代は確かにそれなりに進歩の跡は伺えるのだが、決して1970年代に感じた未来への素朴な想像とはまるで違っていた、ということに深い共感を受ける。一つ一つの作品から、同じ共通感覚を得ることが出来るのである。と言っては何だが、重松の作品から受ける印象はどうしても後味が切ない。それだけではなく、読者である僕自身の<いま>をどのように解釈すればよいのか、という課題を一冊読み終えるごとに与えられる有り様なのである。

もう手塚 治もいない。彼の描いて見せた未来像を21世紀の今になって信じることは出来ない。鉄腕アトムの登場するような世界は訪れはしなかった。むしろ、生活は多少便利にはなったような感覚はあるが、人間は当時より苦しんでいるように思う。当時子どもだった世代がいまや、社会から引退しようとしている時代である。所謂団塊の世代の人々が、高度経済成長を支えた中心的な役割を担ったとは言え、その名残りとは一体何だったのだろう? いまはその良い名残りを残した時代と言えるのだろうか? 日本人がカイシャ(と敢えてカタカナを使う)という特殊な感覚で、帰属し得た会社は、いまや終身雇用制度を物の見事に捨て去った。いまやもうカイシャに安心して帰属出来る時代ではなくなった。かと言って、日本はアメリカン・ドリームが現実におこり得る社会はない。逆に簡単にリストラが行なわれ、これまでのカイシャへの帰属意識は否応なく捨てねばならない。そして、その先は別の良き機会に恵まれているわけでは決してなく、生活の基盤そのものが危うくなってしまうだけの世の中になってしまった。

僕の危うい記憶の底から出てきた言葉はハイデガーが看破した、人には<世界から自己を解釈する傾向がある>というものである。つまり、現実の世界そのものの見方に馴染み、感じ方に慣れ、この方向から自己を解釈してしまう、という傾向が人間にはある、ということである。そしてその傾向を了解してしまうのでもある。もっと簡単に言うと人間は世間並に発想し、世間並の見方でしか自己を理解できず、世間並の生き方しか出来なくなってしまう、ということである。さらに換言すれば、世界が悪くなれば、悪くなった場所からしか自己を解釈できなくなる、ということである。そういう意味で21世紀に生きる僕たちも<世界から自己を解釈している>人間そのものになってはいないだろうか? かつての良きものを取り戻すという思考ではなく、過去よりさらに生き難くなった現代の価値意識から逃れるどころか、それに馴染み初めているのではないだろうか? たとえばサラリーマンにとって、いつリストラされるか分からない、という恐れは現実的な恐れであり、想像の中のそれでは決してなく、リストラされたら、一体自分はどうすればよいのか? という思考回路が普通の世の中の解釈の方法論として通用しているのではないか?

こんな世の中であればこそ、もう労働組合とか、革新政党とか、という幻想自体が、現実的な幻想そのものになりつつあるのではないか? かと言って何かを保守するべき価値観があるのか? と言えば、保守すべき実体そのものもない。自民党という保守政権がその愚かしさそのものを躍起になって法制化しようとしているではないか。

世界はこんなふうに、人間を主人公にしてくれない方向へと流れ続けている。だからこそ、人間は存在そのものの孤独感の中に封じ込められてしまいがちである。こういう世界から自己を解釈してしまうと、大抵の人間は過酷な孤独に立ち向かえなくなってしまう。毎年、毎年、自殺者が3万人を下らない国とは一体どういう国なのだろうか? 現代の若者の多くが自分に合ったカイシャを探そうとしてすぐに就職したカイシャを辞めてしまうのは、当然のことなのである。もうかつてのカイシャは存在しないからである。だからと言って、それまでより条件の良い会社が見つかるか、と言えば必ずしもそうではない。キャリアップできない古い土壌も日本の社会の中には過去の残骸のように生き残ってもいる。つまり職場を換える度に生活の質が落ちていくのである。これは明らかに終身雇用制度の残滓である。

こんな中途半端な世界を僕たちは世代ごとに少しずつ異なった感覚をもって、ハイデガーが看破したような生き方をせざるを得ないのが現代という時代である。すこぶる孤独な時代背景を背負っているのが、いまを生きる人間の時代性とも言える。ならば、僕たちはもっと深くその中に沈潜してやろうではないか! それが今日の僕の目論見である。人間が孤独の中を彷徨わなければならないとするなら、むしろ、その孤独を自己の中に取り込んで、孤独の主人公になってやってもよい。否、むしろ、孤独になるレッスンをこそ、いま個々の人間の世界像の中にきちんと据え直さなければならないのではないか、というのが、僕の主張である。世界に振り回されず、自己が世界の中心であるべきなのである。たとえ、嫌な時代に直面しているにせよ、人間が中心になれるような思考回路を持とうとしなければ、時代の波にさらわれてしまうどころか、殺されてしまう。現代における自殺の有り様とは、殺される側の人間の論理で成り立っているようなものだ。さて、みなさん、いまだからこそ、自らの創造的な孤独づくりのためのレッスンをはじめようではありませんか。そういう岐路に僕たちは立たされているのですから。

〇推薦図書「孤独であるためのレッスン」諸富祥彦著。NHKブックス。この本は僕が主張するよりは、もっと積極的な孤独のためのレッスンに関する書です。この時代をタフに生き抜くための、それ故に必要な孤独になる能力を身につけましょう、と言っていますよ。これは、たいへんですね。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

重松 清の作品が語っているもの

2007-03-06 00:01:23 | Weblog
順調に重松の作品を読み進んでいる。彼の手に入る限りの作品は手に入れた。彼のテーマは同じだ。しかし、それなら、なぜそんなにたくさんの作品を読む必要があるの? という疑問をお持ちだろう。だが、それでいいのである。何故なら、重松の作品は、現代に生きる人間にとってとても声を大にして語ることがもうすでに憚られるようになってしまった人間的価値を作品の中に閉じ込めているからである。だから、僕にとってはこの人の作品は、ウェイトトレーニングみたいなものなのである。規則正しい繰り返しが必要なのである。心の中に少しずつたまっていけば、それが最も僕には都合がよいからである。
重松は、一体人間にとって、真理とは何か? あるいは 善性とは何か? また 美的なものとは何を指すのか、というかなり古典的な価値意識を僕たちに繰り返し、伝えようとしているからである。簡単にまとめれば、<真・善・美>の世界観なのである。難解な哲学的用語を解読するように、哲学書を読む必要はない。この人が、人生におけて夢を抱く必要性と、夢は壊れるものであるけれども、その夢の挫折を乗り越えて、人間は立ち上がっていくのだ、ということを何度も、何度も重松は読者に訴えようとしているのである。
話を換える。今日、<若者よ、死んではならない>というブログで触れた自殺した天才的な若き女性の妹が僕に会いにきてくれた。僕がメールを送ったのである。それも弱々しく。できれば、君に会いたい、というふうに。この姉妹は精神的な繋がりが強く、深い姉妹であるので、姉の死に僕は大きなショックを受けたが、前にこの場に書いた<哲学的・文学的天才少女について>というブログの主人公であるこの妹は死なせてはならない、と強く思っていたからであった。しかし、僕に出来たことと言えば気弱なメールを送ることでしかなかった。だが、この天才少女は来てくれたのである。亡くなったお姉さんについては、この天才少女の口から漏れ出たイメージしか僕はない。しかし、僕の頭の中では確固とした実像として存在していた。僕はずっと心の中で泣き叫んでいたように思う。実際に涙が出た。号泣に近い涙だった、と思う。恥ずかしくはない。彼女の姉に対する鎮魂の涙だったから。この天才少女には、重松 清の価値意識を正面から伝えたかったが、出来なかった。僕の言葉は、君は死ぬなよ、死んではいけない! という訴えに過ぎなかった。でも、人生とは夢を持ち、その夢は瓦解するかも知れないが、その瓦解した残骸の中から立ち上がるのも人生の醍醐味なんだよ、ということを本当は伝えたかったのに。彼女は、しかし月に1回は来てくれると約束してくれた。今日はそれで十分だった、といまは思っている。
さて、<若者よ、死んではならない>というブログに対して、ある青年がコメントをくれたので答えておく。彼のコメントはこうだ。<<はじめまして。自分は受験生で滑りどまった龍谷か近畿大学に行くことになりそうですが、学歴というのは就職や社会において大きな影響になるのでしょうか?まだ未熟すぎるので、さまざまな経験をされた方にぜひ聞きたいです。>> というものだが、学歴というのはむしろ自分がこだわってしまいがちなものではないか、と思う。入りたい学部さえ間違わなければ、滑り止めの大学でもよいではないか。世の中はもう学歴社会ではない。そういう時代は過ぎた。進学高や予備校がこだわっているのは、そこで飯を食っている人々が、生徒を集める必要があるからだ。人生、立場の違いで、言うことが異なってくる。それが事実である。ただ、青年よ、君にも夢を抱く必要はある。そしてその夢ははかなくも消えてしまうようなものかも知れないが、君はそこから立ち上がってくる醍醐味を人生から学びとることで、生きる喜びが増える。挫折というのは悪いことばかりではないのである。これは挫折ばかり体験している僕には自信を持って言える。だから、君、がんばりたまえ。

〇推薦図書「明日があるさ」重松 清著。朝日文庫。これはエッセイ集です。小説に飽きたらエッセイを。でも重松は読み続ける価値のある小説家です。声を大にして叫ばなければならないことを彼は書き続けているのですから。

フランス雑考(というより雑感)

2007-03-05 12:18:26 | Weblog
今日はとりとめのない話しになるし、話しもうまく繋がるかどうか分からないので、時間のない方にはお勧めできません。あらかじめことわっておきます。すみません。
僕が高校生の頃、1969から'70年代前半にかけてフランスの文化がかなり日本に浸透していた、と思う。日本人のフランス熱も結構なものがあった。当時僕ですら、マルクスを読みながら、憧れはフランス文学のスタンダールやバルザックだったし、学校の勉強は殆ど放棄した状態で、新左翼運動に傾倒していたのに、その合間をぬって、神戸から芦屋のセイドーという語学学校でフランスネイティブのマダムにフランス語を習っていたくらいだったから。それにNHKのフランス語講座は、今の大学生はもう本屋で見ても興味を惹かれないのかも知れないが、当時有名だったフランス文学者兼哲学者の丸山圭三郎が担当していたくらいだから、僕はその意味でかなり恵まれた時代に高校生活を送ったことになる。ただ学校の勉強には興味が持てなかっただけで。とは言え、当時の授業で英語の勉強だけは僕にしては熱心にしていた。というのは、1970年代前半という時代は、公立の高校教師がマイカーに乗って通勤できる時代ではなかった。それほど教師の給料は高くはなかった、と思うし、マイカーを持てる人は金持ちと相場が決まっていた。ただ、一人だけさっそうとマイカーで通ってくる英語の女性教諭がいらした。その方のご主人はある会社の重役で娘さんはフランスの大学に留学中だった。なぜだか分からないが、僕はその先生のお気に入りで、芦屋のフランス語の学校を教えていただいたのもその先生からだった。ニックネームは<ファッション>だったから、かなりセンスが良いというか、一目でお金持ち、というのがわかる服装をしてくるのだった。着物で通勤されることもしばしばだった。その<ファッション>先生はまず僕の外見が気に入ってくれたらしく、君は何だか日本人には見えないし、どちらかと言うとスペイン系の顔だちね、としばしば僕にほめ言葉として声をかけてくれた。まあ、年月というのは残酷なもので、僕の当時の鋭かった眼光の輝きも、外人っぽくみえたであろう外見もいまは全て失われてしまって、単なる正しい日本人のおっさんである。
さて、僕の担任は体育のマッチョで性格は粘着質な嫌な野郎だった。かの<ファッション>先生が、僕の将来に口を挟むのを極端に嫌がった。というか、自分の存在を否定されたと思ったのだろう、ジェラシーの塊みたいな言葉を僕に投げつけてくるのであった。卒業後に同級生の女の子で可愛くてセクシーな子がいたが、その子に執拗につきあってくれ、という電話をかけたことがその女の子を通じて噂になったから、単なるスケベな野郎だったわけで、こういう男も世の中にはいるんだなあ、と感嘆し、そして軽蔑して切り捨てた。卒業まで何とかこぎ着けたので、進路を報告しなければならなかった。<ファッション>先生はしきりにフランス留学を薦めたので(彼女は僕の家庭が結構裕福だと勘違いしていた)、飛行機代くらいは持って当てもなくフランスを彷徨ってみるか、と思って、学校にはフランス留学をする、という進路報告を書いておいた。だが、卒業して、行き着いたのはこの場で何度も書いたので、いきさつは省略するが、東京の秋葉原の電気屋の小僧であった。しかし、フランス語の勉強だけは欠かさなかった。秋葉原からお茶の水まで歩いて30分くらいのところにアテネ・フランセというフランス語の学校があったので、電気屋の小僧をしながら、そこで勉強していた。僕が大学に戻ろうと思ったのは、そこで出会う大学生にたぶんに刺激されたからだった。慶応の仏文と同士社の英文と政治学と関西学院の仏文と社会学に運よく合格したので、当然慶応で仏文(勿論これは文学部に合格したのであって、仏文を選ぶのは一般教養を履修した時点で決めるのだが、僕の心の中ではそれ以外に行きたいところはなかった)に入ればよかったが、もう東京という場に嫌気もさしていたし、どういう訳か、<ファッション>先生は英語をやるなら同志社の英文でやればいいわ、といつもおっしゃっていたので、そこで僕の進路が決定的になった。確かに僕は同志社の英文に入ったが、授業料と生活費を稼ぎ出すために、アルバイトに明け暮れ、学校には殆ど行けなかった。授業料だけは同志社の授業料の半額免除の奨学金と育英会の特別奨学金があったから、何とか払えたが、英語の実力の方はさっぱりだった。結局僕は独学の道を歩いているだけだった。
その頃からフランス文化の影響力はだんだんと衰え、入ってくるのはアメリカの文化に片寄りつつあった。それはまず僕の感覚から言えば映画の配給が殆どアメリカ映画になった。フランスの恋愛物などは姿を消した。高校生の頃に観た「愛のために死す」という、フランスの高校の女教師が自分の教え子と恋に落ち、たしかその女教師には別れた夫との間に子どもがいたと思うが、その女教師がフランス女性らしいセンスの良さで、名前はとっくに忘れたが、僕はその女優に恋をし、映画館に5回も同じ映画を観に行ったのである。僕が英語の教師になってからだいぶ経ってフランス物の映画が配給されるようになって、僕はビデオで観たのだが、「ダメージ」という映画はよかった。いまでもレンタルビデオ店で借りられるはずである。政治家の息子が恋人を家に連れてくる。父親の政治家とその息子の恋人は一目見た時からただならぬものをお互いに感じる。そしてこのふたりは禁断の恋に落ちる。主人公の女性は悪魔的な魅力をもった女性としてこの映画に登場する。息子と付き合いながら、その父親とパリの市街地にアパルトメントを借りて、合いびきを重ねる。父親は息子の恋人をどうしても諦めきれない。きっかけは覚えていないが、息子は恋人が新たに借りたアパルトメントを突き止めて訪れる。父親と息子の恋人は激しいセックスをしている。ドアの外に行き着いた息子はただならぬ女性の性の高ぶった声を耳にする。息子はおそるおそるドアの鍵を開ける。そこには父親と自分の恋人との激しい肉体の交わりが在った。青年はドアからのけぞって、階段の手すりまで勢いよくあとずさりする。そして息子は手すりを乗り越えて転落死する。最後のシーンは、父親は地位も財産も失って、パリの裏町のうらぶれた部屋の壁に貼った拡大した彼女の写真を見ながら、ひっそりと暮らしているところで終わる。愛には<からだ>がついてまわり、悪くすると人生そのものが激変してしまう、凄さと怖さを見せつけられたような気がした。だが決して出来の悪い映画ではない。もし観る機会があれば観ておくことをお勧めする。
さて、フランス人は理屈っぽいとよく言われる。それはその通りだろう、と思う。何故なら、哲学の新たな潮流はとりわけ現代思想においては常にフランスからやってくるからである。フランス哲学の激しい本流を日本に紹介したのは、浅田 彰である。彼の出世作である「逃走論」には、これまで聞いたこともない哲学者の名前とその内実が要領よく紹介されていた。浅田 彰はいまは京大の教授になっているはずである。若い教授だ。話がまるでまとまらないが、僕の大好きなカナダ出身のピアニストであるグレン・グールドのドキュメンタリー映画があったが、浅田 彰自身がグレン・グールドのファンであり、彼の独自のグレン・グールド像を明瞭な解説によって、表現しきったのは見事であった。もうグレン・グールドは50歳という若さでこの世を去ってしまっていたから、僕にはとても刺激的なテレビ番組だった。さあ、僕が浅田 彰から刺激を受けて、手さぐりで食らいついた哲学者たちは、まずはアルチュセールのマルクス主義的構造主義という思想であった。そして、その後に訪れた潮流はその構造主義を壊して、哲学の新たな地平を見極めようとする、デコンストラクション(再構築主義)であった。この発想は、ひからびたシステム思考ではなく、絶えざる再生産運動のパターンとしてしか捉えられないような何ものかである。この思想はドゥルーズ=ガタリのいう「マシーン」やフーコーのいう「装置」に近いかなりダイナミックなものであるように僕には思われた。その延長線上にポストモダニズムという思想的運動がやってきた。近代的思想を超克する思想的潮流である。現代はポスト・ポストモダニズム運動の時代に入ったように思う。21世紀を表現するための思想的装置になるはずの哲学的運動形態である。こんなふうにして僕たちはフランス文化の影響をたぶんに受けている。それは知らず知らずのうちに受けているはずなのである。さて、文学についてはどうだ? というところで今日はやめておこう、と思う。もうかなり話が分散してしまったし、読んで頂いている方々ももう限界だろうから。今日はこんな分裂したものになってしまいました。たぶん僕の調子が悪いのでしょう。お許しください。

〇推薦図書「逃走論」浅田 彰著。ちくま文庫。フランスの現代思想の潮流が諒解出来たのは浅田 彰の功績が大きいと思います。彼の作品はたくさん出ていますが、少し古いのですが、敢えて彼の出世作をここで紹介しておきます。よろしければ、どうぞ。

再び、若者よ、死んではならないのだ!

2007-03-04 21:27:29 | Weblog
今日は3/4日の日曜日である。3/2の金曜日の夜に僕が大切に思っている少女の母親からその少女の、優れた知性をもった姉が自殺した旨のメールをいただいた。この大切に思っている少女というのはかつて、この場に書いた、<哲学的・文学的天才少女について>というブログで紹介した少女のことである。この少女の姉も僕は彼女から間接的にしか聞いていなかったが、まさに天才少女であったのである。この姉にコンタクトを取りたい、という欲望をどうしても捨てきれずに、彼女に姉にコンタクトをとるにはどうしたらよいのか、と迫って、困惑させたことすらある。たぶんそのとき、この少女は僕と、天才だが気弱な姉とのあいだで、板挟みになっていたに違いない。本当に、僕に接近させてよいのかどうか、彼女なりに考えたに違いない。彼女の姉は昨日も書いたように、一度は大量の睡眠薬をあおり、死にかけて生還した経験の持ち主である。そしてリストカットもかなりひどい状態まで行なっていて、自分の手首を深く傷つけては、自分の妹に、これから医者に行って縫ってくるわ、と言って憚らないような哀しい生を生きていたのである。その姉が亡くなったのは2/13で、お葬式は2/16だった。僕はお葬式の日にこの少女からメールをもらっている。メールのやりとりはしていたが、なかなか返信が帰って来ないので、こちらから一方的に送る方が多かった少女なのである。その彼女が何故姉のお葬式に僕にメールをくれたのか、その意味については考えれば考えるほど分からなくなる。それに、彼女は自分の姉のことには一切書いてはいなかった。だから、僕は3/2にこの少女の母親からメールで知らせてもらうまで全く事実を知らなかったのである。
僕にしては深く、永い沈黙の後で、少女にメールを出すことにした。恐々に、である。メールには一切彼女の姉については触れてはいない。この少女と出会って、結局僕はカウンセラーとして何もしてあげられず、最後は彼女から去っていった経緯もあったので、そのことに対して、お詫びするためのメールの内容に徹して書いた。そしてできれば、会いたいとも。
日曜日の今朝、唐突に少女から電話があった。メールの返信を返しておいた、という話であった。その電話で彼女に僕は会えるとしたら、いつ会えるのか? と聞いた。すると、彼女は明日の月曜日の3/5ならいいという。有り難い話だから、一もニもなく、おいで、と答えた。その後、僕は今日一日を何も出来ずにいま終わろうとしているのである。3/2は金曜日だから、これまでの彼女の動きからすると、あまりに早い対応なのである。そして姉のお葬式以後、ずっと引きこもっていた彼女なのである。この事実がどうしても僕の胸をざわつかせた。今日一日、そのことで僕は正直今後彼女がどうやって自分の生を生き抜いていくのか、という想像が、悪い方へ、考えてはならない方へと向かっていくのを禁じ得なかったのである。
僕は彼女からの電話の後、遅い朝食を摂って、つまらないバラエティ番組を観るともなく観ていた。そのうちに急に体から力が抜けてきて、それ以降は苦しい夢ばかりを見ていた。いまはもう午後9時前だ。先ほどまた遅い夕食を摂った。残念ながら、彼女の希望に満ち溢れた顔がどうしても思い浮かばないのである。明日は彼女と会う。が、楽しみとともに深い恐れもあることは事実だ。彼女は生き急いでいるのではないか? という疑問からどうしても抜け出ることが出来ないからである。僕がもっとジイサンになって、彼女が大人の女性になって、元気かい? って言い合っている姿がどうしても浮かんでこないのである。勝手な、嫌な想像に過ぎないのだが、いまの僕には実存主義者としての生のあり方に関してかなり自信をなくしているようである。どうか、君、自分の生を生き抜いてください。そして、君の大人の姿を見せてください。僕は今日だけは何かに祈ってもよいのである。いや、何に対しても祈る覚悟がある。そういう一日であった。

〇推薦図書「考える人」池田晶子著。中公文庫。哲学は訳者の発明した難解な哲学用語を解明するところから始めなくてはならないのが、その国の言語を介せない人間の弱さです。哲学というとどなたでもこの種の困難さに悩まされた経験がおありでしょうが、池田氏の哲学講義(敢えて言っておきましょう)は、そういう難解な哲学用語を日常語で、原文の深みへと分け入って行きます。それは暴力的とも言える凄まじさです。彼女の筆致の強さに感服します。しかし、昨日の新聞には池田氏の46歳という若すぎる死の知らせが載っていました。残念でなりません。こういう人には永く生きていてほしいのです。池田氏の冥福を祈りながら、今日の推薦書とさせていただきます。