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いま午前3時50分頃だろう。眠れない。でも眠れないことに関してはどうってことはない。それより眠れない理由が問題なのである。それは、僕の知り合いのお姉さんが自殺をして亡くなった。まったく会ったこともない女性だ。彼女は、関西では最も難関だと言われている国立大学の文学部の学生だった。才能溢れる女性だった、と推察する。彼女はこれまで睡眠薬の大量服薬で、死にかけたことがあるし、リストカットから縁が切れない女性だった。彼女の顔も知らないし、明瞭な印象も浮かんではこない。あたりまえのことだ。しかし、彼女の場合は若すぎる死だった、と思う。勿論、若くして自ら命を絶った天才も文学や哲学の世界にはいる。
僕が若い頃、そういうふうに命を絶った天才青年や少女に対して憧憬の念をもたなかった、と言えば嘘になる。僕にもっと某かの才能が溢れるように当時あったとしたら、もしかしたら死の世界に踏み込んでいたのではないか、と思う。しかし、今回の出来事はたいへんな衝撃を僕に与えた、と思う。知り合いと言っても、その知人は僕が大切に思っていた女性だからである。勿論恋愛感情なんかではない。人間として、彼女の力になりたい、と心底思っていた人の姉の死に直面すると、さすがにこの歳になってもまいる。何故将来のある若者が死を選ばなければならなかったのか、ということを考えると、どうしても納得がいかないし、落ち込んでしまうのである。
とは言え僕だって遅ればせながらの自殺未遂者である。何度も書いたが、職場を47歳というもう取り返しのつかない状況のもとで追放されたからである。僕は追放された教師という職業が好きだったし、生徒や親ともうまくいっていたからである。これから、という時の理事会からの、西本願寺に対する宗教にたいする非協力な態度の蓄積と、当時管理職が動かなかったので、僕が個人的に数社の旅行社と交渉して、いくつかの留学先を見学した。勿論領収書もとっておいたから、正当な扱いを受けていれば僕は定年をまじかに控えた教師として働いていたはずである。しかし、僕は辞めさせられるために、「懲罰委員会」という訳の分からぬ委員会で査問されることになった。僕を辞めさせるために管理職は露骨な工作をしてきた。当時の家内に電話して、懲罰委員会にかかれば間違いなく懲戒免職になり、いまなら、依願退職扱いで、退職金も出る、という脅しをかけてきたのである。当時の家内はその話に乗っかった。そして、結果的に僕は依願退職になり、もう信じられなくなった当時の家内と離婚することになった。ちょっとした蓄財だが、すべて家内に持たせた。ふたりの息子も家内について行った。家は家内に渡す慰謝料のために売った。僕は50歳になる前にして無一文同然になった。それ自体も堪えたが、何より僕を落ち込ませたのはもう僕の人生も終わりだ、という何とも言えない切ない感情だった、と思う。
二度首を吊ったが、二度とも失敗した。それからもつらいことは山ほどあるが、僕にとっては1969年から70年代にかけて起こった学生運動の挫折体験があり、その時はまだ強気だったので自殺のことは考えなかったが、人生も後半に入った時期の仕事の略奪は正直堪えた。死を考えたのもたぶん自然な行為だった、と思う。しかし、僕は死ねなかったし、それ以降も死のうという想いはあったが死ななかったのである。それでよかったのである。考えてみれば、人生というのは、挫折体験があってこそ、人生の醍醐味を味わえるのではないか、と思うのである。僕の人生にはある意味正しい挫折体験が訪れたことになる。これを味わわなくて、何が人生と言える? 人生の成功者も敗残者も外からはそう見えるが、成功者といえども某かの挫折体験があっただろうし、もしそういうものと無縁だとすれば、この先必ず訪れてくるのである。その意味で人生は帳尻が合っているのである、と僕は確信している。
だから、若者よ、人生に性急な結論を出してはならない。人間はいくらがんばってもいずれは、何らかのかたちで死を迎えるのである。それまで楽しいことも苦しいことも存分に味わおうではないか! いま僕はそう考えているのである。
〇推薦図書「<つまずき>のなかの哲学」山内志朗著。NHKブックス。なかなか困難な哲学的論考です。しかし、それでもくいついていると、生きる希望を取り出す思考につきあたります。ぜひ読まれることをお勧めします。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
いま午前3時50分頃だろう。眠れない。でも眠れないことに関してはどうってことはない。それより眠れない理由が問題なのである。それは、僕の知り合いのお姉さんが自殺をして亡くなった。まったく会ったこともない女性だ。彼女は、関西では最も難関だと言われている国立大学の文学部の学生だった。才能溢れる女性だった、と推察する。彼女はこれまで睡眠薬の大量服薬で、死にかけたことがあるし、リストカットから縁が切れない女性だった。彼女の顔も知らないし、明瞭な印象も浮かんではこない。あたりまえのことだ。しかし、彼女の場合は若すぎる死だった、と思う。勿論、若くして自ら命を絶った天才も文学や哲学の世界にはいる。
僕が若い頃、そういうふうに命を絶った天才青年や少女に対して憧憬の念をもたなかった、と言えば嘘になる。僕にもっと某かの才能が溢れるように当時あったとしたら、もしかしたら死の世界に踏み込んでいたのではないか、と思う。しかし、今回の出来事はたいへんな衝撃を僕に与えた、と思う。知り合いと言っても、その知人は僕が大切に思っていた女性だからである。勿論恋愛感情なんかではない。人間として、彼女の力になりたい、と心底思っていた人の姉の死に直面すると、さすがにこの歳になってもまいる。何故将来のある若者が死を選ばなければならなかったのか、ということを考えると、どうしても納得がいかないし、落ち込んでしまうのである。
とは言え僕だって遅ればせながらの自殺未遂者である。何度も書いたが、職場を47歳というもう取り返しのつかない状況のもとで追放されたからである。僕は追放された教師という職業が好きだったし、生徒や親ともうまくいっていたからである。これから、という時の理事会からの、西本願寺に対する宗教にたいする非協力な態度の蓄積と、当時管理職が動かなかったので、僕が個人的に数社の旅行社と交渉して、いくつかの留学先を見学した。勿論領収書もとっておいたから、正当な扱いを受けていれば僕は定年をまじかに控えた教師として働いていたはずである。しかし、僕は辞めさせられるために、「懲罰委員会」という訳の分からぬ委員会で査問されることになった。僕を辞めさせるために管理職は露骨な工作をしてきた。当時の家内に電話して、懲罰委員会にかかれば間違いなく懲戒免職になり、いまなら、依願退職扱いで、退職金も出る、という脅しをかけてきたのである。当時の家内はその話に乗っかった。そして、結果的に僕は依願退職になり、もう信じられなくなった当時の家内と離婚することになった。ちょっとした蓄財だが、すべて家内に持たせた。ふたりの息子も家内について行った。家は家内に渡す慰謝料のために売った。僕は50歳になる前にして無一文同然になった。それ自体も堪えたが、何より僕を落ち込ませたのはもう僕の人生も終わりだ、という何とも言えない切ない感情だった、と思う。
二度首を吊ったが、二度とも失敗した。それからもつらいことは山ほどあるが、僕にとっては1969年から70年代にかけて起こった学生運動の挫折体験があり、その時はまだ強気だったので自殺のことは考えなかったが、人生も後半に入った時期の仕事の略奪は正直堪えた。死を考えたのもたぶん自然な行為だった、と思う。しかし、僕は死ねなかったし、それ以降も死のうという想いはあったが死ななかったのである。それでよかったのである。考えてみれば、人生というのは、挫折体験があってこそ、人生の醍醐味を味わえるのではないか、と思うのである。僕の人生にはある意味正しい挫折体験が訪れたことになる。これを味わわなくて、何が人生と言える? 人生の成功者も敗残者も外からはそう見えるが、成功者といえども某かの挫折体験があっただろうし、もしそういうものと無縁だとすれば、この先必ず訪れてくるのである。その意味で人生は帳尻が合っているのである、と僕は確信している。
だから、若者よ、人生に性急な結論を出してはならない。人間はいくらがんばってもいずれは、何らかのかたちで死を迎えるのである。それまで楽しいことも苦しいことも存分に味わおうではないか! いま僕はそう考えているのである。
〇推薦図書「<つまずき>のなかの哲学」山内志朗著。NHKブックス。なかなか困難な哲学的論考です。しかし、それでもくいついていると、生きる希望を取り出す思考につきあたります。ぜひ読まれることをお勧めします。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃