ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

若者よ、死んではならないんだよ

2007-03-03 04:03:55 | 観想


いま午前3時50分頃だろう。眠れない。でも眠れないことに関してはどうってことはない。それより眠れない理由が問題なのである。それは、僕の知り合いのお姉さんが自殺をして亡くなった。まったく会ったこともない女性だ。彼女は、関西では最も難関だと言われている国立大学の文学部の学生だった。才能溢れる女性だった、と推察する。彼女はこれまで睡眠薬の大量服薬で、死にかけたことがあるし、リストカットから縁が切れない女性だった。彼女の顔も知らないし、明瞭な印象も浮かんではこない。あたりまえのことだ。しかし、彼女の場合は若すぎる死だった、と思う。勿論、若くして自ら命を絶った天才も文学や哲学の世界にはいる。
僕が若い頃、そういうふうに命を絶った天才青年や少女に対して憧憬の念をもたなかった、と言えば嘘になる。僕にもっと某かの才能が溢れるように当時あったとしたら、もしかしたら死の世界に踏み込んでいたのではないか、と思う。しかし、今回の出来事はたいへんな衝撃を僕に与えた、と思う。知り合いと言っても、その知人は僕が大切に思っていた女性だからである。勿論恋愛感情なんかではない。人間として、彼女の力になりたい、と心底思っていた人の姉の死に直面すると、さすがにこの歳になってもまいる。何故将来のある若者が死を選ばなければならなかったのか、ということを考えると、どうしても納得がいかないし、落ち込んでしまうのである。

とは言え僕だって遅ればせながらの自殺未遂者である。何度も書いたが、職場を47歳というもう取り返しのつかない状況のもとで追放されたからである。僕は追放された教師という職業が好きだったし、生徒や親ともうまくいっていたからである。これから、という時の理事会からの、西本願寺に対する宗教にたいする非協力な態度の蓄積と、当時管理職が動かなかったので、僕が個人的に数社の旅行社と交渉して、いくつかの留学先を見学した。勿論領収書もとっておいたから、正当な扱いを受けていれば僕は定年をまじかに控えた教師として働いていたはずである。しかし、僕は辞めさせられるために、「懲罰委員会」という訳の分からぬ委員会で査問されることになった。僕を辞めさせるために管理職は露骨な工作をしてきた。当時の家内に電話して、懲罰委員会にかかれば間違いなく懲戒免職になり、いまなら、依願退職扱いで、退職金も出る、という脅しをかけてきたのである。当時の家内はその話に乗っかった。そして、結果的に僕は依願退職になり、もう信じられなくなった当時の家内と離婚することになった。ちょっとした蓄財だが、すべて家内に持たせた。ふたりの息子も家内について行った。家は家内に渡す慰謝料のために売った。僕は50歳になる前にして無一文同然になった。それ自体も堪えたが、何より僕を落ち込ませたのはもう僕の人生も終わりだ、という何とも言えない切ない感情だった、と思う。

二度首を吊ったが、二度とも失敗した。それからもつらいことは山ほどあるが、僕にとっては1969年から70年代にかけて起こった学生運動の挫折体験があり、その時はまだ強気だったので自殺のことは考えなかったが、人生も後半に入った時期の仕事の略奪は正直堪えた。死を考えたのもたぶん自然な行為だった、と思う。しかし、僕は死ねなかったし、それ以降も死のうという想いはあったが死ななかったのである。それでよかったのである。考えてみれば、人生というのは、挫折体験があってこそ、人生の醍醐味を味わえるのではないか、と思うのである。僕の人生にはある意味正しい挫折体験が訪れたことになる。これを味わわなくて、何が人生と言える? 人生の成功者も敗残者も外からはそう見えるが、成功者といえども某かの挫折体験があっただろうし、もしそういうものと無縁だとすれば、この先必ず訪れてくるのである。その意味で人生は帳尻が合っているのである、と僕は確信している。

だから、若者よ、人生に性急な結論を出してはならない。人間はいくらがんばってもいずれは、何らかのかたちで死を迎えるのである。それまで楽しいことも苦しいことも存分に味わおうではないか! いま僕はそう考えているのである。

〇推薦図書「<つまずき>のなかの哲学」山内志朗著。NHKブックス。なかなか困難な哲学的論考です。しかし、それでもくいついていると、生きる希望を取り出す思考につきあたります。ぜひ読まれることをお勧めします。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

国会議員のみなさん、真面目に議論してください!

2007-03-02 23:57:30 | Weblog
今日の衆議院予算委員会は野次と怒号の中で、政府与党の提出した予算案が、与党議員すら自分が何に対して賛成しているのかどうかわからない状態で、予算委員会の議長の席近くにいるおっさん議員の立て! という合図で立ち、座れ! という合図で座って、今年度予算は予算委員会を通過したのである。与党である自民党と公明党は、議論なしの状態でもなんでも今年度予算案をともかく通せばよい。野党の方も力なし。野次を飛ばすだけの応戦の仕方である。これをもって、国民の生活を決定するための大切な今年度予算案が、予算委員会という大切な議論の場で殆ど議論なく通過してしまった。一体、どうなっているのか、この国は。これから衆議院本会議に予算案がかけられるが、まともな議論ができようはずがない。そして参議院行き、だ。そこで今年度予算がきちんと審議されるという見通しが立つのか? 無理である。
どう控えめに見ても、安倍政権は、真面目な議論をしようとする意思がないと見える。安倍首相は、任命権者としての責任すら果たしているとは到底言い難い。柳沢厚生労働大臣の心ない発言が相次ぐ中で、野党は議論を放棄した。柳沢議員はその後も発言する度に舌禍事件になるようなことばかり言って憚らない。まともな首相ならば、こういう問題発言をする議員は野党の辞職勧告を無視して強がるばかりでない。それなりの対応を試みるのが筋というものだ。ところが、安倍首相は少なくとも柳沢議員を何故かわからないが、辞めさせるどころか守り抜いた。そのことで議論が完全に麻痺した状況を柳沢厚生労働大臣は身に滲みて分からなければ、まともな人間とは言えないのである。彼は野党が議論放棄した委員会内で厚顔ぶりを曲げなかった。それどころか別の場面でまた問題発言をしているのである。柳沢という人間が低劣な人間であることは十分に分かったが、そのことによる議論停止状況を重大な事態であると認識しない、しようとしない安倍首相の責任が最も重い。安倍も人間的にダメである。あんな人に<美しい国、日本>などという言葉を軽々しく言ってほしくはない、と心底思う。政治に抽象論を持ち込んでは危険なだけである。たとえスローガンであろうと、もっと具体的なイメージが持てるものでなくては、いまの日本の状況は救えないのは目に見えている。安倍首相はできるだけ早く首相を辞めるべきである。いまの安倍首相には内閣改造など意味がない。首相自身が政治力ゼロの人間なのである。単なる二世議員のボンボンの中でも、もっとも質が悪い。政治的力量がないのであるから、彼には何も生み出せない。それはいまの段階ですでに明らかである。
財政破綻した夕張市をどうするのか? あるいは、夕張市につづくような地方自治体をどうするのか? 財政再建のための議論が緊急な課題のはずである。とりわけ衆議院予算委員会で、このような具体的な議論がなされないような状況をつくる与党はその責任をとるべきである。また野党もずるずると欠席するばかりで、もどってくるのが遅すぎる。これでは与党をねらっている民主党にも政権など夢のまた夢である。勿論その他の野党は論外である。これほど国会議員がアホに見えたのは初めてである。勿論政治に興味も夢も、もう何も感じてはいなかったが、安倍政権はあまりにひどいので、素人目にもアホに見えてしまうのである。
そのアホ政権を超えるような政策論争をやる野党がいて、初めて均衡がとれるというのに、野党の方もアホ政権と同じレベルでせめぎ合っているだけである。庶民はリストラの憂き目に合い、3万人に及ぶ人々が自殺しているのである。教育がうまく機能しているとは決して思えない。このようなダメ政権が考える教育政策の中で育った人間が今後の日本を背負って立てるのだろうか? 若者だって危機的な状況にあるのだ。いじめ問題はどうする? たくさんの幼い自殺者が出ているではないか。いまの政府は局部的な対応しかしようとしない。財政政策であれ、教育政策であれ、殆どチキンラーメン並の性急さだけが目立つ。チキンラーメンはうまいが、国策においては多少の時間がかかっても、大きな視野に立った政策が立てられなければならないはずである。このままでは第二、第三の夕張市が出てくるだろうし、教育の問題にしても、社会に出て希望の持てる社会であるなら若者だって勉強する意味も諒解できるのだろうが、例えば東大出の父親がリストラされた子どもが有名私立中学や高校へ入って、東大に入っても、どうなる? というのだろうか? 子どもたちだってちゃんと親の生活を見ているのである。夢もなく受験競争に乗っかって、有名大学に入って、さて、その後はどうする? 彼らが夢を持って活躍出来る社会が瓦解しつつあるのである。
国会議員さんたちよ、もっと本質的な、人間が豊かに暮らせる社会を創るための議論をしてください。あなた方は、そういう責任を負った仕事をするためにいまを生きているのですから。政治的駆け引きや選挙で勝つことばかりを考えていては本当に国民はあなた方を見放しますよ。僕はとっくに見放してしまったが、真面目に頑張っているお父さん、お母さんが可哀相じゃあないですか! おい、国会議員たち、もっと真面目にやれよ!!

〇推薦図書「幻をなぐる」瀬戸良枝著。集英社刊。本当は政治学か何かの本を推薦しようと思いましたが、もう、いまはどうしようもない状態です。いまは、宗教なき近代に、もっと絶望を! もっと祈りを! というキャッチフレーズを推薦者の文学者に書かせた、おもしろい本でも読んで安倍政権が崩壊するのを待ちましょう。

関根 勤というタレントから学んだこと

2007-03-02 10:41:49 | Weblog
関根 勤という「お笑いタレント」というジャンルをとうの昔に超えてしまったタレントをご存じの方は多いと思う。彼はテビューしてから永年ラビット関根という芸名で、テレビで主に物真似で売ってきた才能豊かなタレントである。いつからラビット関根から関根 勤という芸名に(あるいは本名に変えたのかも知れないが)なったのは定かではないが、彼の芸風にはセンスがある。お笑いのセンスというのは千差万別だが、嫌な笑いを誘う芸人もいる。僕が嫌いなタレントで、ゲスな感性を売り物にしているのがいる。その意味で、僕は、たかじんというお笑いタレント兼歌手が大嫌いである。彼のかつてのマネージャーは僕の教師時代の教え子の30代の女性だから応援したいし、彼女がマネージャーになったいきさつも、彼女がたかじんの熱烈なファンであるという事実から、学生時代の空想が現実になった。だからこそ、たかじんのファンにもなりたいものだが、僕には、どうしても彼の芸風が気に入らない。たかじんは一見して、いろいろな芸能ネタを切って捨てるという荒くれ芸で売っている。勿論そういう芸風があってもよいとは思うが、たかじんの場合は、その切って捨てる態度の中にまず客受けのする切り捨て方があり、そうしてその内実は、実に人間を小馬鹿にした、冷たい、時にはぞっとするような感覚を僕は感じてしまうのである。たぶん彼は観客を心の底から楽しませようという感覚に乏しいのだ、と思う。そういう態度が彼のセリフから透けて視えてしまうのである。だから、たかじんの番組は観ないようにしている。お笑い芸人でありながら、人を不快にさせるタレントは不思議なことに、僕にとってはたかじんという人物だけだ。それ以外は意外に無反応にテレビに観入っていることが多い。勿論僕がテレビを観る時は大抵の場合は必ず何かをしながらのことだから、たかじんに対してたいへんな誤解をしている可能性もある。が、少なくともいま感じるたかじん像は、こういうものなのである。
それに比して、関根 勤は、物真似芸から始まって、確かにおもしろいタレントだなあ、とは思ったが、他の多くのタレントと同じように、いずれは僕たち視聴者の前から、消えていく運命を辿るのだろう、と勝手に想像していた。ところが、どうだ、彼はいまだに生き残っているではないか! 物真似といってもコロッケなどと比べると断然レパートリーの少ないタレントである。しかし、彼は確実に人気のあるお笑いタレントとしてバラエティ番組を中心に生き残っている。それも立派に。別に関係はないのだろうが、関根 勤は53歳であり、僕と同い年である。もう人生の終盤に入ってしまった、と思い、自分の過去の後悔をいまだに拭いきれず、人生の敗残者の気分の強い僕と比べて、関根 勤という同い年のタレントの、衰えるどころか、ますます若く、そして人間が生きていることに、喜びを感じさせてくれる人もいるのである。あれだけ競争の激しい世界で、あの若々しさと、人の心を和ませてくれる感性を保持し続けてこれたのは一体何故だろう? 何が関根 勤というタレントを永年に渡って生き長らえさせているのであろう?
たぶん関根 勤という一個の人間は、挫折という二文字を超越する生に対するセンスを持っているのではないか、と思う。彼にも哀しみはあった、と思う。人間だから当然のことだ。しかし、彼はその哀しみを笑いに変えてしまう天才的な才能を持っているのではないだろうか。そして生を楽しむという哲学的な才能を見い出したのではないだろうか。それはあくまで厭味のない、爽やかな才能に違いない。いま彼の才能は開花し、多才なタレントになった。そしていつまでも若々しい。彼が幕末の頃ペリーが黒船を率いて日本にやってきて徳川政権と交渉するときに、関根 勤に言わせると、ペリーはカタコトの日本語で、「国をあけなさーい!」と言ったと言うのである。あり得ないことが、関根にかかるとあり得るように感じられるから不思議だ。彼が、頭髪の真っ白なかつらをかぶった学者ネタも笑わないぞ、という思いで観ていても思わず笑ってしまう。
結局人間は関根 勤のように、人生を楽しんで生きようとする姿勢を失ってはいけないのである。人生を楽しく生きる最低条件は、他者を楽しくさせるだけの覚悟というか、人生哲学を持っていなければならない、と感じるのである。関根勤は、軽く観ていてはいけないタレントである。彼は決して天然の明るさだけで今日まで生き残ってきた人間ではないような気がどうしてもするのである。彼には明朗な人生哲学があり、それを倦むことなく(ここが大切なところだ)、やってのけてきた人物である。僕は彼が僕と同い年である、という共感だけで書いているのではない。もっと深いところでの共感が自分の裡に在るように思うのである。おそらくは関根 勤というタレントはこれから先も形は変わるかも知れないが、芸能界という厳しい世界に、彼の人生哲学を振りまきつつ、視聴者に明るい笑いを与え続けてくれることであろう、と確信している。がんばれ、関根 勤!

〇推薦図書「西鶴くずし 好色六人女」藤本義一著。角川文庫。関根、勤とはまるで関係がないのですが、今日は楽しく、それも思い切り笑えるセクシャルな物語を、これも小説の中の語りの名人である藤本義一作の好色物を推薦します。楽しんでください。

重松 清と白石一文の文学作品について感じること

2007-03-01 21:06:46 | Weblog
最近になるまでずっと白石一文の作品にのめり込んでいた。小説のおもしろさというものを思い出させてくれる作品ばかりだったので。ただ、失敗作もあるが、それには目をつむって余りある作家だと感じたのである。今年度の直木賞を逃した作家の一人である。何故こういう作家に直木賞を授与しないのか、僕はそのことに不条理を感じていたのである。文体にも躍動感があり、プロットの運びにも計算されつくしたものを感じていたし、何よりも男と女の心情を描かせたらこの人の右に出る人はいないであろう、と思っていた。さらに、殆どの作品における白石の持ち味は、主人公の挫折とその挫折によって主人公は、新たな人生を歩むであろうという予想を漂わせながら終焉していくのが、この作家のある意味、イニシエーションストーリー作家としての最大の魅力なのである。もう一つ付け加えると、この作家のセクシャルな描写の凄まじさというか、粘りつくような感性を思いのままに描ききるところが実に素敵なのである。確実に直木賞が取れる作家だと確信もし、この作家が直木賞を逃がしたのはほかでもない、選定委員のレベルの低さにあるに違いない、と僕は憤慨していたのである。
昨夜、重松 清の「トワイライト」という長編を読了して、何故白石一文という作家が直木賞を逃したのか、という理由が分かったような気がしたのである。ご承知のように重松 清は、直木賞作家である。「ビタミンF」という作品で直木賞を取っている。この作家は多作の作家であるし、僕自身もこの作家には興味を抱いていたので、数編の作品は書棚に載っていた。「トワイライト」という作品を読むきっかけを与えてくださったのは、僕の友人(と僕は思っているが、彼がそう僕のことを認めて下さっているかどうかは定かではない。が、時折頂くメールによって僕は勝手にごく親しい友人、あるいは敬愛する人と思い定めている)のKWさんが、ご自分が読んだ本のことを控えめにメールに書き送って下さったのである。この方は僕が推薦した白石一文の「一瞬の光」という作品のことを評価してくださったのである。そして、ごく控えめにご自分の読んでいる本の中に重松 清の「トワイライト」がある、ということを書いてくださったのだ。この方は決して、白石一文よりは重松 清の方がすばらしい、などという書き方をしない方である。あくまで謙虚なインテリなのである。たぶんKWさんはそれとなく、重松 清の作品の持つ意味を教えて下さったのだろうと推察する。KWさんはもう一人、女性作家の作品も紹介してくださったので、この作品については読了してからまたこの場で紹介することにする。ともあれ、僕に重松 清の作品を読む機会を与えてくださったのはKWさんその人なのである。そして、僕はKWさんに感謝するとともに、彼の眼力の鋭さにも感動させられたのである。
「トワイライト」一作で、何故重松 清がすでに直木賞作家であり、白石一文が何故今年度の直木賞を逃したのか、という意味が分かったように思う。この作品は小学生の頃の少年たちと少女たちの数人の未来に対する夢、この小説の時代背景が1970年の万博の時代、日本人が素朴に未来に対して希望を抱いて疑わなかった時代に、子ども時代を送った数人の主人公たちの夢がなんだったのか、そして、26年後にかつて通った小学校の校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こすために集まった二十数名の中の数人の主人公たちの夢と、26年という歳月が無残にも彼らの夢を粉々に打ち砕いてしまった現実とを描ききった作品なのであった。そして、主人公たちが粉々に打ち砕かれた夢の崩壊の果てに、人生の後半をどのように生きていくのかが、全て読者の読後の判断に委ねられてしまい、読者の方は、たぶん、彼らの後半生が、決してきらびやかな、夢と希望に満ち溢れたものではないにしても、それでも主人公たちはそれぞれの挫折体験を乗り越えて生きていくのである、という予感を抱かせるようにして終焉する。この手法はかなり手ごわい創りである。しかし、重松 清は、人生の酷薄さを余すところなく描きながら、その描写とともに、密やかに訪れるであろう、未来への展望のあり方を読者の想像にゆだねるという、鮮やかなイニシエーションストーリーに仕上げている。そこにはつくりものの不自然さがまるでない。まるで自分の過去と現実とこれから押し寄せてくるであろう、酷薄な未来を読者一人一人が考えざるを得ない状況下へと追い込める。そういう筆致の強さが、重松 清の持ち味である。
白石一文の弱点は、どこまでもつくりものの世界を感じさせてしまうところである。なるほど、白石の作品においては、セクシャルな描写も女性の心理を描かせても一流であり、その点では、重松の作品の方が、無骨であり、ぎくしゃくとした読後感を与えるのだが、大いなる違いは白石の作品の世界像が模造品だとすると、重松の作品における登場人物たちの生きざまには本物の人間の息づかいが聞こえてきそうなリアルな世界像が感じられるのである。これが、僕の感じる二人の作家の違いである。みなさんはどう思われますか?

〇推薦図書「ビタミンF」重松 清著。新潮文庫。この作品は「トワイライト」をさらに洗練させたようなイニシエーションストーリーです。ここにも重松の人生に対する決して輝いてはいないのですが、何とか生きてみようか、と読者に感じさせる説得力を持った作品です。なるほどこれが直木賞作品でしょう。そう感じます。