ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○何かが足りない・・・んだけれど。

2011-01-09 11:18:45 | 観想
○何かが足りない・・・んだけれど。

生きることが時としてうっとうしくなったり、退屈感に苛まれたり、憂愁の中に落ち込んだりして、生きている意味を見失うことなどしばしば。そもそも人間、生きている意味などあるのだろうか?などと極端なことまで考えてしまう。単に生物学的にこの世界に生きているとするならば、考える能力などかえって邪魔ではなかろうか、とまで。

しかし、こういう心境に陥っている場合は、大抵この世の中の仕組みが、人をがんじがらめにしているようで、とても息苦しくなっているはずだ。もっと言うと、人を縛っているものの実体は、社会的な約束ごとの総体だけれど、そのシステムが、人生のどこかの時点でシステムそのものを恣意的に動かせる側にまわった人間と、システム自体の中に組み込まれている側の人間の差異の大きさの前で立ちすくんでいることと同義語である。人はそういうことを不条理だと感じるのである。あるいは差異そのものの実質も二項対立的な単純なものではなくて、もっと人には予測し難いようなどんでん返しも含んだ不条理性そのものなのかも知れない、とも感じるのである。何かが足りない、と僕が感じるときに胸に去来する想いの実質は、大体こういうものである。

何かが足りないという気分をなにほどか晴らしてくれるのは、人はどのような状況に追い込まれたとしても、どんな深き暗黒の底からでも這い出して来れるという強い想いが、裡に湧き起っても来るからである。しかし、こういうことを書いたからと言って、自分がとても強い確信を持っている人間では毛頭ない。

個性差もあるのだろうが、やはり、生きていくプロセスとは希望と絶望というふたつの概念性に乱暴に分ければ、僕の感覚から云えば、確実に絶望感の方が自己の生を決定づける要因になる確率が高い、と思う。だからこそ、人は人生に対して、手ばなしで謳歌できない瞬間、瞬間が訪れもするのではなかろうか。もし、そうであれば、なおさら僕たちは、生きる覚悟(死する覚悟を持つ以上に)をしっかりと確立する必要性に迫られているのではないか、と思うのである。

社会制度的には、どう控えめに見ても生き難い時代なのである。もっと正確に言えば、たとえ、生き難い時代性の中にたまたま生まれついたとしても、その時代の中で社会制度そのもの、体制そのものを変革し得る可能性に満ちているとすれば、生き難さは、生きる可能性の中に包括され得るものになるだろう。民主主義が悪いのではない。民主主義を悪用する輩が悪いのである。世界中で横行しているテロリズムの思想は、平等な社会の中で、不平等をつくり出す輩を是々非々を尽くすことなく抹殺することである。テロリズムは、また別のかたちのテロリズムの思想を生み出す。尽きることはない。

人間はよほど自己卑下の固まりにならない限り、自己を変革し、しいては、より良い世界に変革したい、という根源的な欲動を持っているはずである。そういう欲動を実現させるには、絶望感の支配下に陥ることだけは、少なくとも避けねばならないだろう。希望のひかりを見ようとするなら、生きる覚悟を強く持つべきである。詩的に死を想うのは、精神の肥やしなる。認めるが、やはり、人は生きる意思をリアルに持つべきだろう。その人なりに、でよろしいのである。夢想家だというそしりは敢えて受ける。そういう覚悟で書き記す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○あの頃のことを思い出す瞬時がある・・・・・

2011-01-07 09:55:42 | Weblog
○あの頃のことを思い出す瞬時がある・・・・・
 宗教法人との確執がいよいよ本格的になって、教師としての身分が危うくなり始めた頃、打たれ強かったはずの自分が結構うち沈んでいることに気づいて愕然とした。まわりの風景の色彩がまったく消え去った。大袈裟に書いているのではない。すべての色彩が消え失せて、薄い灰色になった。
 四輪駆動車をぶっ飛ばして、琵琶湖のあちこちの波打ち際で、ぼんやりとしていることが多くなった。当時の琵琶湖はどこへでも車で波うち際まで行けた。いまは、規制が厳しくてそれもかなわぬのだろうと思う。狭い私学の空間の中に閉じ込められていると、いくら外部との接触が多い仕事をやっていても、やはり僕だって自分の身分、僕が最も嫌悪していたはずの、宗教法人が支配する学園の看板を背負わなければ、自分の信用も築けないほどに堕落していた感を拭えない。要するに、言葉どおりの捨て身になりきれてはいなかったのである。教師という身分を奪われたら、47歳にもなって、いったいどうして食っていくことができるのだろうか?という、いまにして思えばつまらない煩悶に身もだえていたのである。恥ずかしい話である。
 海外のあやしげなサイトから、法律違反ぎりぎりのクスリを個人輸入した。飲まずにおいておいたら、いく箱もたまる。その年の年末に、憂愁な気分に負けた。よく確かめもせずに、あやしげなカプセルに手を出した。ハイテンションになるどころか、数時間後には、前後不覚になった。気分が悪く、1時間以上も嘔吐し続けた。冷や汗が出たと思ったら、次は高熱にうなされた。数時間我慢したが、さすがに危険を感じて、当時の女房に救急車を呼ぶように訴えたら、彼女はなかなか動こうとしなかった。すでに冷え切った関係だったし、彼女にしてみれば、僕の置かれていた危険な状況など知りもしなかったから、たぶん、クスリなんかで救急車を呼ぶとクビになりかねない、と直感したのだろう。ほんとはもっとアブナイ状況に僕はいたのに。自分で電話したら、すぐに入院ということになった。覚せい剤かなにかだと思ったのだろうか、医者も不親切極まりない、どうでもよい治療しかしなかった。クスリの内実が分からないのだから、使うべき抗生物質の特定も出来なかったわけで、生理的食塩水だけの点滴で放置されたのも致し方なかったのだろう、といまにして思う。発熱と嘔吐感で3日間唸った。医者が警察に通報したらしい。4人やって来て、事情聴取された。クスリのことでやられるか、と思ったら、ネット犯罪の聞き取りだった。申し訳程度に来ていた女房は、病院だというのに、海外の土産に買って帰ったポワゾンの薬草ぽい匂いをプンプンさせながら、ブルっていた。僕はといえば、ポワゾン(皮肉な香水の名前だな、ほんとに)のキツイ匂いで、嘔吐感が高まるばかりだった。
 その頃、強度の不眠症にて、内科で処方されていた睡眠薬を飲まずには眠れなかったので、二日間苦しい中でも、一睡もしていなかった。医者からその薬を飲むように指示が出た。薬はもううんざりだったので、飲むのを拒否していたら、女房が飲むようにと説得し始めた。僕にはまるで彼女の言葉が耳に入らず、飲まずにいたら、ヤンキーふうの化粧をした看護婦さん(やっぱり看護師というよりは、女性は看護婦、男性は看護夫がよろしいな)がやって来て、飲むように説得された。大袈裟ではなくて、天使のような(天使がどんなものかまるでわからないが)声に、唐突に涙が出た。おいおい泣いた。睡眠薬も飲んだ。傍で見ていた女房の表情は歪んでいた。当然だろうな。
 退院して、3日遅れのおせち料理は、味がしなかった。カスカスという音がしたような気がした。最悪の正月だった。その年の6月という、教師にしては中途半端な時期に、体よく学校を追放された。依願退職扱いだったから、離婚しようとしていた女房は喜んだろうな。退職金が出るんだから。全部もってけよ、って言ったらほんとに全部持っていった。
 朔太郎だったか、佐藤春夫だったのか、どちらでもないのか、失念した。ともかく逆説的に「春は憂鬱な季節だ」と言った言葉が頭の片隅に残っているが、僕にとっての6月は文字どおり憂鬱な季節である。梅雨が憂鬱なのではない。6月の出来事が憂鬱にさせるのである。とりとめもないことを書いたのは自覚しているけれど、それでも書き遺しておこうと思う。これを読む人は迷惑なんだろうな。ごめんね、みなさん。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム      長野安晃

○人生の岐路に立っていると感じる、この頃である。

2011-01-06 15:29:23 | Weblog
○人生の岐路に立っていると感じる、この頃である。
 どこまでも粘っこく生き抜いてやる、とついこの間まで思っていた。生の一回性ということを自覚すればするほど、その想いは強くなっていった感がある。残された人生の、それほど長くない時間を、この世界の中で、自分がさほど興味を持てなかった事柄を生き方の目標の一つに数えてもいた。しかし、僕が忘却していたことがある。それは、この世界というのは、己れの意気込みだけで成り立つほど甘くはない、ということであった。大きな失策をしたのではないが、僕を巡る状況が激変しようとしているのである。もはや、この2.3年を費やして実行しようとしていた事柄にも興味が持てる状況ではない。自分の心の中のどこかしらで、生き急ぎ、あるいは死に急ぎの感性が支配的であったので、常に焦燥感に見舞われている始末だった。
 ある関係性の崩壊の危機に直面して、僕は、上記のような自己のありさまを直視することになった。短時間でなさねばならぬことの実現をイメージしながらの、息せき切った行為の集積の疲労感と徒労感が、僕を肉体的にバテさせた。こころとからだのバランスは、よく出来ているもので、肉体のスタミナが剥がれ落ちたら、心のカタルシスが同時に自己の内面で起こっていることに気づいたのである。いろいろな雑念が一挙に自身の体内から抜け落ちた感がある。人間とはどこまでも欲深いもので、人生が残り少なくなれば、それなりに欲動のあり方も底深くなるようだ。そういうことにも気がついた。
 もともと分かっていたことなのである。自分の生のあり方とは、いろいろなしがらみが、意図的であれ、無意識的なものであれ、自分からどんどんと剥がれ落ちていき、たとえて言えば、老境に達しようとしている自分の姿とは、デフォルメして表現するならば、それは、たぶん丸裸に近いそれである。また、それでよいのである。カウンセラーという仕事を、いましばらくは続けるにしても、漂白された自己から視えるクライアントさんたちの姿は、自然と余分な想念を抱かずに感得することが出来る。もう、長らくはカウンセラーという仕事を続けることもなかろう。自己表出が過ぎて、かえってクライアントさんにご迷惑をおかけしたこともあるが、たぶん、いましばらくは続けるであろうこの仕事については、いまが、僕の最も冴えている時期だ、と思う。つまらない宣伝をする意図はないが、同じカウンセリング料を支払ってカウンセリングを受けるおつもりならば、たぶん、僕と対峙することがクライアントさんの利益になると思う。
 なんだかやっと、来し方、行く末について、あらゆる邪心がとれて、自己の内面との対話が出来る、と感じている。人生の総括と称して、このブログを書きはじめて以来、ほぼ、1000に及ぶブログをありとあらゆるジャンルを素材にして書き綴ってきたが、いまにして思うに、その結末は想いのほか、シンプルなものに帰結するような気がする。書きはじめた当初、僕の想念はいくつもに枝分かれして、分岐した数だけ生の総括のあり方が異なるのだろう、と思っていたフシがあるが、いまは、まったくそれとは逆の予測の上に立って、これを書いている。
 そもそもひとりの人間の生の軌跡など、それほど多岐に渡って書き綴れるものではないだろう、と、いまにして思う始末である。ひとつに収斂させること、あるいは、限りなくそれに近い生の総括にすること。それが、いまの僕の目論見である。
 種田山頭火は、自己の生からあらゆる雑念を払拭していくために、ひとり孤独に野原を駆け巡り、俳句という究極の表現手段で、己れを、また、己れにまつわる生のすべてを書き遺した天才である。それも俳句という最低限の約束ごとすら破壊しつつ。邪念だらけの男だったと感じるが、山頭火は、己れの邪念さえも俳句という表現手段を破壊しつつ、生の真理に昇華させ得たのではなかろうか。いっときの山頭火ブームも過ぎ去った感のある今日、あらためて山頭火の死に方に想いを馳せてみたい、と心底思う。
 僕なりの漂泊の旅の準備を整えなければ、と感じている。とは言え、いましばらくは、ボヤキ漫才風に、これを書き綴ってもいこうと思うので、興味を持っていただける方に捧げる自分自身への、お笑いの鎮魂歌としたい。もうしばらくお付き合いくださいね。

京都カウンセリングルーム
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○人間は人それぞれに、生きる美学というものを模索すべきなのではなかろうか?

2011-01-05 12:52:53 | 観想
○人間は人それぞれに、生きる美学というものを模索すべきなのではなかろうか?

生きる美学といったところで、僕の云うそれはたいしたことではない。美学という言葉が当てはまるのかどうかさえ定かではないような気がする。僕は老いたる者なので、老いを背負った側から自分の言葉を発信する。若き人々のことについてはまったくの見当外れの言説なのかも知れない。あらかじめお断りしておくことにする。

老いた者は当然に自己の死を、個性差はあるにしても、逃れられないものとして認識せざるを得ないのである。現代という時代は、老いを、若さの崩れや壊れと認識させられる風潮が強いので、性差を問わず、少々見苦しき老いへの抗いに傾斜している感が拭えない、と感じるのは果たして僕だけなのであろうか。老いたることを醜悪とも感じるのは、若さを喪失したことを認められない心性が、老いをせき止めようとするがごときの抗いを演じることである。膚の色艶の喪失、水分の枯渇、頭髪のあれこれ、等々への抗いなど、せいぜいが自己満足の域にとどまっているならお遊び程度でよろしいが、あたかも死を遠ざけることが可能であるかのような様相を帯びてくると、少々醜悪である。いや、かなり醜いのである。若さの模倣と死の隠蔽とが、思想的に底で繋がっているするならば、これは単なる逃避でしかなかろうに。逃避としての若さへの渇望は、若き者に対する無理解を生む。何故なら、己れの老いの意図的な忘却は、いつまでも銭金の取得を必要とすることと繋がっているわけで、そうであれば、老醜が、若き者たちの活躍の場を結果的に奪うことに繋がることは必然である。こういうことを老醜を晒すというのである。

老いの美学というものがあるのではないか、と常々考えてきた。老醜を晒すということが、前記したことにその主因があるとするならば、老いを生かす路も必ずや在るものと僕は考える。身体的な老いはむしろ逃げずに引き受けようではないか。健康診断の基準値が変動するのは当然だろう。いろいろなところに不具合が生じてくることの認識のために、その変動を認識すればよいのであって、製薬会社を喜ばせるために、やたらと正常値?にもどす無駄な努力など唾棄すべきである。不快な症状だけをとればそれでよいではないか。それすら無理ならば、その不快さと上手に付き合っていけばよい。そうすることで、生の本質に近づけるかも知れないのだから。

老いの美学に不可欠なことは、明日のことなど考えないということが前提である。もっと正確に言うと、明日の心配や怖れのために、今日生きることの歓びを見失うことなかれ、ということである。長年生きていれば、僕のような知恵なき者にも、何ほどかの思想の深化はある。老いとはそういうものではないのだろうか?喪失した若さへの郷愁と媚びへつらいに終始するような馬鹿げたことは、もうやめようではないか。次元の差があるにせよ、老いたるもの、若きものへの思想の受け渡しという大切な役割があるだろう。日常語でよろしいのである。これを老いの美学と言わずして、なんと表現しようか!昨今のセンスなき流行り言葉でいえば、老いの作法とでも表現してもよい。

少年の頃、数学が嫌いだった。大抵の数学教師は、数学の問題を解答する方法論しか教えなかったからである。しかし、ある老境に達したひとりの冴えない数学教師が、ふとした瞬時に、二次関数の曲線を黒板に書きながら、おい、この曲線の美しさが分からんやつは、いくら数学の成績がよろしくても、生きる歓びなど永遠に分からぬぞ、とぼそっと言ったことがある。いまだに耳の底に彼の声が聞こえるような気がする。あの呟きが、たとえば、彼の裡なる老いの美学の表出だったと思う。それで数学が好きになったかというと、ウソになるが、そんなことはどうでもよいのである。かの教師の感性が一瞬にせよ、僕の感性を揺り動かした。そのことに意味があるのである。

たぶん、この種のことなら誰にでも自己の生き方の中で掴みとった真実を述べ伝えることが出来るだろう。老いの美学とは書いてみれば簡単極まりないことなのだ。老後の蓄えがどうのこうの、24時間介護つきのマンションが流行ったら、そういうところを血眼になって探すなどもってのほかだ。金がある人は使い切って死ねばよい。金に不自由している人は、知恵を使って生活が成り立つ方法を考えればよい。その気があれば、何とかなるシステムがまだ日本にはある。孤独死という死に方も、当人がそれを意識的に引き受けるのであれば、悲惨でもなんでもない。要は覚悟の決め方次第。それが老いたるものの美学だろう、と僕は思うが、おせっかいなどこかのNPO法人の方々は、僕のことを血も涙もない人間だと言うに違いない。それもよし、である。今日の観想として書き記す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○今日は私的な、納得できない事柄に関しての雑感です。払拭したきことなので。ごめんなさいね。

2011-01-04 12:26:40 | Weblog
○今日は私的な、納得できない事柄に関しての雑感です。払拭したきことなので。ごめんなさいね。
 僕の仕事柄、身うちの問題についてのご相談が結構多い。それらは、大体において、家族、縁戚における関係性のあり方と、主にその修復に関するものである。しかし、考えてみれば、僕自身の縁戚関係はぶっ壊れていると言っても過言ではなく、自分のことは棚上げにしての話をしていることになる。まあ、その意味では、長年の教師生活などは、棚上げの最たるものだったから、いまの方がたぶん、許される範囲ではないか、と思う。それに無論教師時代も含めて、僕はいい加減には考えてはいないわけで、自分にとってもそうであるのが望ましいだろう、ということを伝えているのだから許されることではないか、と思うようにしている。そもそも、そういう居直りのごとき心境でなければ、他者の相談ごとなどで、飯を食ってはいけないのだろう。飯のお代としては、真摯に他者の置かれた状況に共感し、もしも考え得ることがあるとするならば、確信を持って、伝え知らせるものであるだろうから。
 さて、長年音信が途絶えていた一つ違いのいとこと連絡がとれるようになって、3度ほど電話で話をしたのである。何年もの空白などウソのように心が通じ合うかのような錯誤(だろう、いまにして思えば)を錯誤とも思わず、まるでアホウのように絆の意味を感得していたのである。幼き頃から、仲のよかったいとこゆえにこちらにも油断があったのかもしれない。油断といっても、彼がどのように時間の流れの中で、変貌しているのかということに関する想像力を、敢えて抑え込んでいたという意味である。彼が大した仕事をしているとは思わない。ごく普通のサラリーマン生活がようやく終わりを告げようとしていて、それほど多くはない退職金で、世間でいうところの老後をどうのように過ごすのかを考えているような男になってしまったのだろう。僕の残された人生の目論見は、たぶん、彼にとっては危険な匂いがしたのかも知れない。何度か手紙を書いたが、無返信であった。まるで、初めから僕など存在しなかったかのように、だ。
 おそらく、自分が感じとっている以上に僕のこれまでの生き方、現在の生き方は、彼のようにこつこつと同じ仕事を勤めあげようとしている男には、関わり合いを持ちたくはない人間のようだ。何を守るべきことがあるのかは知らないが、ともあれ、人生の守りに入った人間ほど、低劣な存在はない、と僕は思う。何故低劣かというと、己れの価値観、人生観、生活感で捉えきれないものは、極力排除しようとする心性まる出しだからである。庶民、市民といっても、こういう心性が生きる第1義的な目的になってしまえば、もはや自分の視野に入るのは、狭隘な人間像だけである。あらゆる可能性がすでに磨滅している。誤解なきように。僕はまじめに働く人々がすべてこのような人間になり下がるなどと言っているのではない。やはり、個性の問題なのだろうと思う。あるいは、狭隘な人間の関係性の中で、自ら狭隘であることに価値を見出しただけのことなのであろう。ともかくもつまらねえ人間との付き合いなど、こちらから願い下げである。もはや、僕にも残された人生など限られたものに過ぎない。凡庸さが過ぎて、姑息な人生観を抱いてしまった縁戚などには用はないのである。
 この歳になって、血縁などというものの不確かさ、血縁という絆の虚妄にようやく気がついたし、なぜか、自分の中のどこかに血縁という絆に対するアホらしいほどの幻想があったことにも気がついた。だからこそ、縁戚との疎遠は、どこかしら一抹の寂寥感を誘う要因になってもいた。が、もはや、ここに至って、そういう心境などまったく払拭された感がある。自分のまわりを見まわたせば、まったく異なった人生を歩んできた人たちが、僕のよき理解者である。それで十分である。むしろ、そういう人間関係を築けた自分にもっと誇りを持とうと思う。二人の息子たちとも、11年という空白の時間がある。下の息子のことは、偶然にいまの暮らしぶりを知ることになった。3度手紙をしたためたが、これも無返信だった。上の息子のことも気にかかり、そのことも知らせてほしかったのだが、そういう感性よりも、たぶん、僕に対するル・サンチマンの方が勝っていたのだろう。しかし、息子たちよ、ル・サンチマンでは、生きるエナジーには変換できないんだ。そういうことだけを書いて、これで永劫の別れとしよう。もはや君たちにも幻想を抱くのは止めることにした。
 古い映画だが、ゴダール監督作品の「勝手にしやがれ」の中のジャン・ポール・ベルモントみたいに、犯罪者のベルモント演じる主人公が、警察に売られる最後の場面のように、人生を終わりそうな感じもするが、警察に売った張本人が自分の恋人だったというオチは、少々哀しいので、そこだけは、自己修正しておきたい。
 ともあれ、二人の息子たちよ、いろいろな縁戚関係の人々よ、愛をこめて、「勝手にしやがれ」である。僕だって、勝手にやりますから。ジャン・ポール・ベルモントのようにはいかないが、少しは格好をつけてあと少々生きるつもりである。

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○すばらしき先達もいた・・・・

2011-01-03 23:51:47 | Weblog
○すばらしき先達もいた・・・・
 僕が浄土真宗西本願寺が実質的な支配権を行使して、学校法人たる、かの女子学園を支配していた場に曲がりなりにも23年間も在職していられたのは、決して自分だけの力量あってのことではない。教えるべき生徒たちがいたから、などという、模範解答をするつもりもない。そんなことはむしろ当然のことで、あえて口実にするつもりはない。
 僕があの学園の最初で最後の一般公募の教員募集で入り込んで、尊敬に値するお二人の先輩教師に出会わなければ、たぶん数年で教師稼業などから身を引いていたと思う。お二人がいたから学ぶこと多く、閉塞した私学という場で生き永らえたのだと思う。お二人ともに古き良き時代の、京都の革新府政の、思想的指導の中心的役割をしていた日本共産党員だったと思う。僕自身は共産党とは真逆の左翼思想の持ち主だったが、このお二人はともかく考え方が柔軟だった。たとえ思想のコアーが違えども、このお二人とは共有できる思想も行動も見出すことが出来たのだと思う。昭和一桁生まれの男女だったが、特に男性教諭は優れた人だった、と心底思う。かの小田実が東大から、この人は京大から、アメリカの財団の公費留学制度の第1回目の試験会場で顔を合わせ、小田は合格して、後の「何でもみてやろう」という書で世の中に問いかけ、思想家、実践家の生涯をつらぬくが、この人は、不合格にして、英語教師のかたわら、私学の教職員組合代表として、地方労働委員を長年勤めた人である。彼の業績を列挙することは不可能なので、これだけを書きとめるが、僕が曲がりなりにも、自分の考えを文章化しようとしたのは、彼の影響と、彼から受けた辛らつという言葉が最もふさわしい訓練に耐え得たからだと思う。
 僕と同期の数学の教師が、学園当局に実質的に寝返って教頭に成り上がったとき、僕は彼に問い詰めたことがある。同じ共産党員なのに、あなたは放置しておくのか、と。彼は答えて曰く、共産党などといっても決して一枚岩などではないし、つまらない党員だってたくさんいる。それにあいつは、人間的に堕落した輩だし、また、党費を支払ってれば、党則を破らない限りは党員で居座れる。それが現実だよ、君。と、彼が苦々しい表情をうかべながら口にしたとき、ああ、この人は、ホンモノだと思い、恐れ入った。
 僕は年賀状というものが嫌いで、特に同僚には書くことがなかったが、彼は、毎年同じ目線で、心情を吐露する真摯な賀状をくださった。まじめに返信した。僕なりの正直な心情を書き記して。
 彼が退職して、いよいよ僕の身が危うくなりかけていた頃、彼はある民放のラジオドラマの脚本で賞をとり、趣味は料理とのことで、わざわざ僕の当時の妻と僕を自宅に招待する旨の葉書きをいただいた。が、その頃は、夫婦関係も崩壊過程にあり、返信すらできなかった。申しわけない気持ちはいまも消えることはない。彼がお元気で、かくしゃくとして、ご活躍をされていることを心から願う。彼への感謝の言葉としたい。

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○生の物語性について語り得ること。

2011-01-03 23:47:24 | 哲学
○生の物語性について語り得ること。

人は、いま生きていることすら、言葉にして規定することがとても困難なことであることは、たぶん表現者という立場を自覚的にとらまえ得るとするならすぐにわかることだ。まず、事実とは、ひと言でいえば、ありのまま、というありふれた表現がすぐに想起されるのだが、客観的な立場に立ちきったとして、いざつい先ほどの出来事を<ありのまま>に書き綴ろうとすると、もはやそこには文字通りのありのままなど、どこにも存在しないことが身にしみてわかる。

人は、言葉という表現手段を手にしたその瞬間から、<ありのまま>の中に含蓄される虚構性という存在に気づかないではいられないのである。敷衍して言うと、人の言動とは、言葉で言い現そうとすれば、必然的に物語性というファクターを内包せざるを得ない。無論日常語で言うところのウソ、という単直な概念ではなく、誤解を恐れずに言えば、事実とは<ありのまま>に表現しようとすれば、その瞬間から事実そのものから逸脱していく宿命性を背負っている、というのが僕の伝えたきことの原型に最も近いのかも知れない。

このような考え方に立脚するならば、僕たちが一般に事実だと認識していることの殆どが物語性というファクターを抜きにしては考えられないものだ、ということに気づかざるを得ないだろう。敢えて書きおくが、僕は断じて不可知論者ではない。そういう短絡からは、これを読む人は自由であってほしいのである。

人が生きるというのは、自己の物語性そのものを生きていることと同義語である。換言すれば、人は現実という虚構の時間の中を浮遊する存在なのである。したがって、人生におけるリアリティ(reality)とは、常にアンリアル(unreality)と通底している。たぶん、人が生の旺盛期を夢のごとくに終焉したことに何ほどかの違和感を感じ、過ぎ去った自己の生の時間の総体を認識出来ず、老いの前で立ち往生するごとき戸惑いを、思想的に内面化できるのかどうかで、その惑いそのものを、生の充溢感へと昇華し得る可能性を獲得できる、と僕は思う。また、そのように振る舞いつつ、生の終焉へと向かいたいものだ、とも思う。これが僕の生きる覚悟であると声をひそめて告白したきことである。今日の観想として書き残す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○2011年を迎えて、あらためて想うこと。

2011-01-03 23:43:41 | Weblog
○2011年を迎えて、あらためて想うこと。
 初夢とは年の暮れから元旦にかけてみるのもなのか、元旦の夜から2日にかけてみるものなのかはよく知らないし、そんなことはどうでもよいことなのだが、ともあれ、昨夜見た夢の中身とは、こうだ。いや、そのまえに、夢なんてものは、論理性もへったくれもない、時間の想定も訳がわからないし、物語の構成なんて、あってながごとし。自分が登場したとしても、それは、自分であって自分ではない。フロイトの「夢判断」を読んでもちっとも説得的でないのは、たぶん夢そのものについて、読み手の側に、なんらの夢の存在に関する確証が持てないからなのだろうし、夢の価値理由そのものが、脳の中のちょっとした混乱なり、次の日を過ごすための、脳細胞の再生の過程で起こるいっときのカオスに過ぎないのかも知れないという前提を置いて語ることゆえに、その内実についての稚拙さについては、年の初めの戯言くらいに読んでくださればありがたい限りである。
とここまで書いて気が変わった。ひとり旅の、何の変哲もないビジネスホテルの有料テレビの番組の中に、「アバター」があったので、遅ればせながらいままで観ていたら、自分の初夢などどうでもよくなった。結論から言うと、「アバター」という映画がなぜあんなにヒットしたのか、まったくわからなくなったのである。アバターになれないことが、現実の世界との乖離感をつのらせ、<アバターうつ>になる人々が出たというが、たぶんそういう現象は宣伝効果をねらったエセラごとだったと思う。映画の原型は、昔よく観た西部劇のつくりそのままだった。ネイティブ・アメリカンの豊かな土地を略奪していくヨーロッパ移民と、彼らの圧倒的な暴力と不条理性の前にたじろぐネイティブ・アメリカンに共感する英雄たり得る白人種のヒーローの登場をして、世界中の注目を集めたジェイムズ・キャメロンという監督は、かなりなやりなやり手なんだろう、と思う。シュワルツ・ネッガーの「ターミネーター」も、ディカプリオの「タイタ二ック」もキャメロンの出世作。
 人の才能のありようは、様々だろうが、自分の生きた時代に認められる才は、たとえ時代という概念を超越し得る代物に及ばぬにせよ、僕は、凄い、と思うな。と、同時に、時代の中に埋もれた才能なんてほざいている自分が、ちょっと嫌いになったかも知れない。なんだか、またもや、多難な一年の船出なのか、とも思う。

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○ひとりになることの効用

2011-01-03 23:38:31 | Weblog
○ひとりになることの効用
 旅の途中で書いている。年末・年始にひとりになることにしたきっつかけは、みずからが選び取ったものではない。あいも変わらず失敗の多い生き方の結末が招いたことに過ぎないのである。多くの人々のごとき、一年の仕事の区切りとして、あるいは所謂骨休めとしての旅ではない。要するに、京都にとどまっていても自分の日常性の中に、より深き孤独という心の深遠が広がることに懈怠(けたい)を感じて、それならばいっそのこと、何の計画も立てずにブラリとローカル線を乗り継ぎ、人知れぬ街に降り立つ、ということになって3年目。まあ、そういういきさつである。
 こういう旅をしていると、いま自分はどこにいて、いや、それどころか、こうして見知らぬ街にいる自分とはいったい何者であるのか、という疑問の輪郭さえおぼろげになってくるのである。ただ息をし、視界に入るものを素直に受け入れる。ふだんどおりの食い物を食し、たぶんいつもよりはまずいはずの食事にありつけることに、結構な満足感を抱き、人のなにげない言葉に慰められもする。日常生活という単調な営みに、ちょっとしたうるおいと刺激とを注ぎ込む儀式、それのひとつが正月という行事であるとするなら、僕なりの彷徨だって結構意味あるもののように感じられもする。友人たちが招いてもくれはするが、何かと理由をつけてはこういう旅路へと向かうのは、自分なりにある種の浄化作用の効用を認めているからなのかも知れない。
 いくら円高の効用があるとはいえ、バカ高い旅費を使っての、ありふれた海外の観光地などへ行く必要もないのである。鄙びた、人知れぬ、何げない街の、予約すら不要なビジネスホテルの一室で迎える正月の味わいもなかなかのものなのである。故郷から遠く離れて、何らかの事情のためにひとりで過ごす正月の味わいを、寂しき、みじめなものと思うことなかれ。あるいは、都会に送り出した子どもたちが、家庭を営み、子を生み育てても帰郷しないことで、孤独な心情に陥っている親御さんたち、ものは考えよう、みんなが元気でいればそれに勝ることなどないのです。行く年、来る年、どのような正月であれ、元気で生き抜きませぬか?

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