対話型授業検討会をテーマとした研究協議会を見学させていただきました。
昨年、共に学んだ学卒院生の皆さんが企画に携わる会で、
東京都高等学校国語研究会の主催です。
授業公開はもちろん、協議会のなかで行われる模擬授業もオール国語の授業。
余計なことは考えられない状態で、
生徒の役割をわざわざ演じなくとも、
ありのままででノープロブレムでした。
今回見学させていただいて、
対話型授業検討会の強みは、
今、まさにここで起こっていることに着目し、
その時の考えや感情に焦点を当て、
よりナラティブであること、だと思いました。
教材開発・研究をする上では感情の部分はそぎ落とし、
より一般化することを目指します。
しかし、一般化されている森だけを見ていると気づかないことが山ほどあります。
視点を森と木の間で行き来することで、
自分が何を当たり前としているかに気づきやすくなるのではないか、と思いました。
検討会では、授業者・学習者双方のwant,do,think,feelに着目します。
授業者フルボッコ会では勿論ありません。
アドバイス会でも、べた褒め会でもありません。
修造もバンデューラも登場しません。
昨日の参加者の中に、
「自分は、どうしたらいいか教えてほしい方です」
と改善方法を求めている方がいらっしゃいました。
教授・伝授型の授業研究会に慣れてしまうと、
もしかしたら、教授・伝授型の学びに慣れてしまうと、
教員自身がアクティブラーナーになれないのかも知れません。
一方、上から目線であれやこれや言われたくない、
と思うケースも多くあると思います。
授業者本人が問題だと思っていないことをあれやこれや言われても、
余計なお世話、でしょう、多分。
生徒の学びと同じく、
授業者も自らwhy?が出てこなければ学ぶことはできないと思います。
自らの授業を振り返り、自ら問いをもつ、
このチャンスを検討会を通して得られると思います。
その先の解決策を検討する段階になって、
初めて専門家の知見や他者の経験談が必要になります。
生徒も教員も多分、このあたりは同じような気がします。
この検討会でのキーは「対話の成立」だったと思います。
私が見学した分科会では、
上から目線での教授・伝授が始まるシーンはありませんでした。
参加者の関係がフラットだったのです。
任意の研修会なので、そもそも負のオーラを発する参加者はいません。
しかし、参加者の職業上?、教えることに抵抗がない集団です。
特に同じ教科同士なので
「ここはこうした方が良いのでは?」のような発言がでるのではないかと、
ひやひや(少しわくわく)していました。
検討会の後も、
何故、フラットな関係をあの時間だけでも築けたのかということが話題になりました。
授業見学や模擬授業中に、
「生徒の役割」を果たし、「生徒の視点」を意識してきたことで保てたのではないか?
という結論に至りました。
では、フラットな関係を保つためにはどのような意識が必要なのか?が次の疑問でした。
私が検討会に参加し、「生徒の役割」を果たそうとしたら、
まず、邪魔になるのは、大半の生徒にはないであろう自分の経験や価値観、
当たり前だと処理している認識だと思います。
それは授業方法であったり、進行方法であったり、
同分野であれば教科の知識であったり、いろいろあると思います。
目の前で起こったことに対して自分のwant,think,feelが動いたとしたら、
何かしら自分の内側にある経験や価値観などにアクセスされているのではないかと思います。
この自分の前提を自覚した上で話すか否かが、
価値観の押し付けになるか、
授業者も見学者も共に学習する場になるかも分かれ道ではないか、と思いました。
フラットな関係って、
相手の認識を尊重するだけでなく、
自分の認識を自覚することも大切なんです、きっと。
フラットな関係を築いた上で対話を深めるために必要な要素は?と話題になったとき、
「発散」というワードが浮かび上がりました。
そこから先は、ホワイトボードミーティングで習得(しようと)した「発散」「収束」「活用」の流れと、
オープンクエスチョンの有効性が浮かんで、
別のもやもやが出てきそうなところで韓国料理のお店へ。
トッポギ、美味しかった