今では当たり前になったコンポーネントという概念ですが、1950年代まではブレーキはブレーキの専門メーカーが、チェーンホイールはチェーンホイールの専門メーカーが作るのが当たり前でした。
「同一メーカーが同一のコンセプトで作った方が高性能を発揮する」というのがコンポーネントの概念ですが、この概念をリードしたのは、カンパニョーロの創業者であるトゥーリオ・カンパニョーロでした。これが1950年代の初めのことでした。
カンパニョーロは1951年にパラレログラム式のリアディレーラー「グランスポルト」を、53年にパラレログラム式のフロントディレーラーを、58年には5アームのチェーンホイールを、68年にブレーキセットを発表し、コンポーネントという概念を現実のものとして来ました。
今でこそプーリーがスプロケットの歯先に沿って移動するスラントパンタ式が当たり前になっているリアディレーラーですが、1920年代まではリアハブの両側にギアを取り付けたダブルコグが主流で、登りにかかるとバイクを降りて、ホイールを外し、向きを換え再び装着するというのが当たり前だったのです。
1920年代後半にフランスのサンプレックスが、ワイヤーにつながれた小さなチェーンで変速機ごと真横にずらすことで、バイクを降りなくても変則が可能なスライドシャフト式ディレーラーを開発してから、20年もの間、サンプレックスのスライドシャフト式ディレイラーが標準という時代が続きます。
1951年にカンパニョーロが発表したパラレログラム式リアディレイラー「グランスポルト」は、現在流通するリアディレイラーのルーツともいえる存在で、1952年のツール・ド・フランスで見事に優勝したのを皮切りに、サンプレックスやユーレーを猛追し、60年代以降はカンパニョーロの圧倒的優位が続くことになるのです。
1963年、サンツアーのブランド名で知られている前田工業が、スラントパンタという画期的な機構を盛り込んだ「グランプリ」という変速機を発表。スラントとは「傾斜」という意味で、パンタグラフ部が平行(パラレル)ではなく斜めに移動ように角度が付けられていて、プーリーがフリーホイールの刃先に沿って動くことで、よりスムーズな変則を可能にした画期的な製品でした。スラントパンタは前田工業のパテントであった為、その後20年間は他メーカーの追随を許すことはありませんでした。
1984年にパテント切れを待っていたかのようにシマノが1984年発表の7400系Dura Aceにスラントパンタ機構を取り入れるのですが、カンパニューロは従来の「縦メカ」から「横メカ」化したCレコードでようやくスラントパンタを取り入れることになるのです。それは1992年のことなのです。
今でこそカンパニューロと肩を並べるシマノですが、古くからの自転車文化をもつヨーロッパへ進出するのは並大抵のことではなかったようです。島野庄三郎が島野鉄工所を創業したのが1921年。1951年に称号を島野工業株式会社に変更し、1965年にはアメリカに事務所を開設するとともにヨーロッパへの進出を図りますが、保守的で排他的な当時のヨーロッパのロードレース界で、東洋の島国のメーカーに注がれる目は異様に厳しいものでした。
1984年に発表された7400系Dura Aceは先に記したスラントパンタ式ディレイラーは勿論ですが、最も注目すべきは、位置決め変速機構・SIS(Shimano Index System)レバーの搭載でした。それまでは、ある程度のスキルを持った人しかできなかった「変速」という作業を、誰にでもできるものにしたのですから。変速レバーの押し込み加減で変速を調整しろといわれて、できる人は皆無でしょう。それでも当時のヨーロッパでは「位置決め変速機なんて子供のおもちゃだ」と公言するプロ選手も多かったと聞きます。
しかし、その便利さはプロのレースでも徐々に浸透し、いつしか多くのプロ選手がインデックスシステムを使うようになります。さらに、1990年に手元での変速を可能にしたデュアルコントロールレバー(STIレバー)を発表したシマノはヨーロッパでの市場を徐々に広げて行くのです。そして1999年のツール・ド・フランスでランス・アームストロングがDura Aceで初めて勝利し、シマノはようやくカンパニョーロと肩を並べる存在となるのです。
シマノはまたチェーンホイールやスプロケットに加工を施し変速を迅速にするハイパーグライドシステムを開発し、シマノ製品で部品を統一する方が変速が容易になるというコンポーネントの概念を一歩推し進めたメーカーでもあるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます