渡辺松男研究39(2016年6月実施)『寒気氾濫』(1997年)P133
【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
320 一ミリに満たざる髭も朝ごとに剃りて制度の内側の顔
(レポート)
制度の中のこまごまとした制約、規約があり、また職務としてゆるさよりは明確さが求められるはずだし、さまざまに内的葛藤もあろう。それをかかえる胸中の、それはそれとして、髭はまず一ミリに満たざるものも処理するごとく剃り、朝朝制度の内側へすべり込んでゆく。(慧子)
(当日意見)
★レポートに「職務としてゆるさよりは明確さが求められる」とありますが、これをわざわざ書か
れたのには訳があるのですか?(石井)
★わけはありません。「ゆるさ」はいらなかったですね。(慧子)
321 誰よりも俯きてあれわが日々よ俯かざれば時代が見えぬ
(レポート)
魅力的で箴言のような一首。「誰よりも俯きてあれ」とは謙虚であれ、自己をよく見つめて忠実であれと戒められているように受け取った。もちろん戒めであろう。だが修身上のことのようにのみは受け取れない。このままではどうも下句に繋がらない。では上句のように俯きていればどうなるのだろう。顔を晒さないことになろう。何に対して?世の中に、時代にということになろうか。つまり時代を表層的、常識的でなく、それらを突き抜けて深くみるために、逆説的に「俯きてあれ」といってはいないか。次のような文章に出会ったことが理解の助けになったので記載する。(慧子)
しかし人間であっても樹におけるのと同じなのだ。高く明るい処へのぼろうとすればするほど、その根は、いよいよ力強く、地中深くへと進んでゆくのだ、下方へ……(以下略)
ニーチェ著・原田義人訳『若き人々への言葉』(角川文庫)
(当日意見)
★引用されたニーチェの言葉は魅力的ですが、私は少し違うように感じました。目を伏せるのは目
を開けて見てしまうといろんなものにまどわされて本当の時代が読めなくなるのでなるだけ心の
目、自分の考えに従って世の中を見ようという意味なのではないかと思います。目の前で繰り広
げられる人間関係だったり、テレビニュースだったり情報雑誌だったりいろいろありますが、自
分の思考を信じていこうと。(真帆)
★私もこの歌とニーチェの言葉はあまり関係ないように思います。(石井)
★慧子さん、ニーチェのことばとこの歌はどう関係するのですか?(真帆)
★逆説的に「俯きてあれ」だから、樹が伸びる為に地下に根を張るのと同じなんです。(慧子)
★私は目隠しじゃないけど、目の前の現実に惑わされないように「俯きてあれ」だと思います。
内へ内へではないと思います。(真帆)
★そうですか、惑わされるな、というところが読めていませんでした。(慧子)
★「目の前の現実に惑わされるな」は間違いではないと思うけど、そこをあまり強く押し出さない
方が私はいいと思います。内省的、思索的な姿勢によって時代が認識できるということだと思い
ますが。その為にニーチェを引用されたので、私は関係があると思います。(鹿取)
★「考える人」のポーズは俯いていますよね。だから時代を真摯に見ようとしたら俯かないといけ
ないんじゃないかな。慧子さんの「謙虚であれ」も一つの捉え方でいいとは思います。(石井)
★レポート1行目から2行目にかけて「自己をよく見つめて忠実であれと戒められている」の
「られ」は、受け身ですか?尊敬ですか?(鹿取)
★受け身です。(慧子)
★それだと違うように思います。松男さんは他人に対して「俯きてあれ」って言っているのでは
なく自分に対して言い聞かせているんですよね。だから「誰よりも」が前に付くのです。「謙
虚であれ」も同様で他人に言っているのなら違うと思います。自分の内面をよくよく見つめるこ
とによってしか時代は見えないんだぞと自分に言い聞かせている歌だと思います。他人に向かっ
てお説教する態度はこの作者には無いので、レポートの「だが修身上のことのようにのみは受
け取れない」も、修身の要素はなくて、それ以外が大切と思います。ニーチェの引用は「宇
宙のきのこ」の鑑賞でもこの部分もう少し長く引用しましたし、しばしば樹木関連の歌で話
題に上ったところですね。(鹿取)
★この歌の「時代」は過去のことではないですか?今の時代ならまっすぐ目をあげている方が見や
すい。俯いて見えるのは過ぎ去った時代の事だからでしょう。(M・S)
★それだと当たり前すぎて面白くないです。(石井)
★常識ではM・Sさんのおっしゃるとおりなんですが、松男さんは違う姿勢の方なのでしょうね。
『寒気氾濫』の出版記念会で、山田富士郎さんがこの歌を褒められたのを覚えています。
(鹿取)
【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
320 一ミリに満たざる髭も朝ごとに剃りて制度の内側の顔
(レポート)
制度の中のこまごまとした制約、規約があり、また職務としてゆるさよりは明確さが求められるはずだし、さまざまに内的葛藤もあろう。それをかかえる胸中の、それはそれとして、髭はまず一ミリに満たざるものも処理するごとく剃り、朝朝制度の内側へすべり込んでゆく。(慧子)
(当日意見)
★レポートに「職務としてゆるさよりは明確さが求められる」とありますが、これをわざわざ書か
れたのには訳があるのですか?(石井)
★わけはありません。「ゆるさ」はいらなかったですね。(慧子)
321 誰よりも俯きてあれわが日々よ俯かざれば時代が見えぬ
(レポート)
魅力的で箴言のような一首。「誰よりも俯きてあれ」とは謙虚であれ、自己をよく見つめて忠実であれと戒められているように受け取った。もちろん戒めであろう。だが修身上のことのようにのみは受け取れない。このままではどうも下句に繋がらない。では上句のように俯きていればどうなるのだろう。顔を晒さないことになろう。何に対して?世の中に、時代にということになろうか。つまり時代を表層的、常識的でなく、それらを突き抜けて深くみるために、逆説的に「俯きてあれ」といってはいないか。次のような文章に出会ったことが理解の助けになったので記載する。(慧子)
しかし人間であっても樹におけるのと同じなのだ。高く明るい処へのぼろうとすればするほど、その根は、いよいよ力強く、地中深くへと進んでゆくのだ、下方へ……(以下略)
ニーチェ著・原田義人訳『若き人々への言葉』(角川文庫)
(当日意見)
★引用されたニーチェの言葉は魅力的ですが、私は少し違うように感じました。目を伏せるのは目
を開けて見てしまうといろんなものにまどわされて本当の時代が読めなくなるのでなるだけ心の
目、自分の考えに従って世の中を見ようという意味なのではないかと思います。目の前で繰り広
げられる人間関係だったり、テレビニュースだったり情報雑誌だったりいろいろありますが、自
分の思考を信じていこうと。(真帆)
★私もこの歌とニーチェの言葉はあまり関係ないように思います。(石井)
★慧子さん、ニーチェのことばとこの歌はどう関係するのですか?(真帆)
★逆説的に「俯きてあれ」だから、樹が伸びる為に地下に根を張るのと同じなんです。(慧子)
★私は目隠しじゃないけど、目の前の現実に惑わされないように「俯きてあれ」だと思います。
内へ内へではないと思います。(真帆)
★そうですか、惑わされるな、というところが読めていませんでした。(慧子)
★「目の前の現実に惑わされるな」は間違いではないと思うけど、そこをあまり強く押し出さない
方が私はいいと思います。内省的、思索的な姿勢によって時代が認識できるということだと思い
ますが。その為にニーチェを引用されたので、私は関係があると思います。(鹿取)
★「考える人」のポーズは俯いていますよね。だから時代を真摯に見ようとしたら俯かないといけ
ないんじゃないかな。慧子さんの「謙虚であれ」も一つの捉え方でいいとは思います。(石井)
★レポート1行目から2行目にかけて「自己をよく見つめて忠実であれと戒められている」の
「られ」は、受け身ですか?尊敬ですか?(鹿取)
★受け身です。(慧子)
★それだと違うように思います。松男さんは他人に対して「俯きてあれ」って言っているのでは
なく自分に対して言い聞かせているんですよね。だから「誰よりも」が前に付くのです。「謙
虚であれ」も同様で他人に言っているのなら違うと思います。自分の内面をよくよく見つめるこ
とによってしか時代は見えないんだぞと自分に言い聞かせている歌だと思います。他人に向かっ
てお説教する態度はこの作者には無いので、レポートの「だが修身上のことのようにのみは受
け取れない」も、修身の要素はなくて、それ以外が大切と思います。ニーチェの引用は「宇
宙のきのこ」の鑑賞でもこの部分もう少し長く引用しましたし、しばしば樹木関連の歌で話
題に上ったところですね。(鹿取)
★この歌の「時代」は過去のことではないですか?今の時代ならまっすぐ目をあげている方が見や
すい。俯いて見えるのは過ぎ去った時代の事だからでしょう。(M・S)
★それだと当たり前すぎて面白くないです。(石井)
★常識ではM・Sさんのおっしゃるとおりなんですが、松男さんは違う姿勢の方なのでしょうね。
『寒気氾濫』の出版記念会で、山田富士郎さんがこの歌を褒められたのを覚えています。
(鹿取)