2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介してお きます。(鹿取)
『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。
5 するすると世界を抜けてゆくきのこ今宵は白く川の辺に佇つ
(まとめ)
映像としてこの世界を抜けていく茸を思い浮かべてみる。この茸は一本か集団か迷ったが、山毛欅の倒木を埋め尽くす無数のキノコの写真を図鑑で見た後なので(どこにも集団とは書いてないけれど)無数のきのこが見渡す限り一列に連なってするするとこの世界を抜け出ていく様子を想像した。川のほとりに今宵は佇んでいて、明日はどこに行くのだろう。何か次元を超えての脱出行のようで痛快な気分になる。(鹿取)
(歌集評)
かくしてきのこは汚れた世界から脱出してとうとうと白く流れる川のほとりに屹立する。きのこがすべての生物の存在を代表するのである。(鶴岡善久)
「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
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