渡辺松男研究 25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
210 仁王像秋のひかりをはじきたり骨格はもつ太き空間
(レポート)
仁王とは金剛力士の別名をもつ。ちなみに金剛とは、金属中最剛の物の意でありながら、この仁王は金剛の類の金属質ではなく、一木作りでもなく、おそらく内部は空間であるところの乾漆像なのだろう。仏法を守護するものとして、又悪を寄せないもの(強者)として置かれながら、内部は太き空間を抱き込んでいる。強さを願って作られながら、表面は秋の光をはじいてやさしく、内部はむなしいものだと作者はとらえる。(慧子)
(意見)
★慧子さん、内部は空しいものだと捉えられていますが、どこから出てきたのですか?(石井)
★空しいというのは空間ということです。(慧子)
★そうすると骨格=太き空間なので、骨格が空しいということ?(石井)
★私達の体にはは肉や骨が詰まっていますけど、この仁王さんは空っぽ。それは人間から見れば空
しさに通じませんか?(慧子)
★作者はそこまで言っていらっしゃるかなあ。(石井)
★「内部はむなしいものだと作者はとらえる」の箇所を疑問にすればよかったですか。(慧子)
★仁王像の全体から転換して骨格に焦点を当てている。それを太き空間と表現しているんだけど、
それって空しいかなあ。ものを剥いだ時に見えるものを表現されたのかなあ。骨格に持って行く
のが独特な作者の目ですね。(石井)
★仁王像は大きいから一度に作れなくていろんなものを寄せて作る。だから中に空間ができる。(曽我)
★あんなものすごい形相をした仁王さんの内部が空しいところに作者の目は行っていると思う。太
き骨格を持っているのに内部は空っぽ。(慧子)
★この仁王像が乾漆づくりだとは断定できないですね。内部まで土の詰まった塑像の仁王もありま
すから。乾漆像だと確かに内部は空洞かもしれないけど、それだって骨格そのものは空洞ではな
いでしょう。また。「骨格はもつ」って、内部の空間ではなくて、ダイナミックで逞しい骨格が
占めている空間のことを言っているのではないでしょうか。「太き」というからには空虚とか空
しいには繋がらない気がしますが。ここには肯定的な何かがあると思います。(鹿取)
★何もかも肯定的だったら歌の深みが出ない。「太き」を肯定でとったら当たり前でつまらない。
ここは極端に言えば、存在というものは空しいということでしょうかね。(石井)
(後日意見)
木を詠んだほかの歌もそうですが、作者には太い骨格、地面をしっかり踏みしめて自分で立っているものへの憧れがあるように感じます。夏の光は強烈だ。強烈な光であれば、物の陰影がくっきりはっきり色濃く浮かび上がってくる。秋の光は柔らかい。柔らかい光であれば、物の陰影はあいまいになり、輪郭もやわらかになる。穏やかで、優しい気持ちになる。仁王像は、そんな柔らかくやさしい光さえも弾き返し、筋骨をくっきりと浮かび上がらせ、がっしりと地をつかみ、体全体に力をみなぎらせて立っている。柔らかな秋の光の中で仁王像を見上げた時に感じた、その圧倒的な存在感を「太き空間」と表現したのではないでしょうか。(T・H)
参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
210 仁王像秋のひかりをはじきたり骨格はもつ太き空間
(レポート)
仁王とは金剛力士の別名をもつ。ちなみに金剛とは、金属中最剛の物の意でありながら、この仁王は金剛の類の金属質ではなく、一木作りでもなく、おそらく内部は空間であるところの乾漆像なのだろう。仏法を守護するものとして、又悪を寄せないもの(強者)として置かれながら、内部は太き空間を抱き込んでいる。強さを願って作られながら、表面は秋の光をはじいてやさしく、内部はむなしいものだと作者はとらえる。(慧子)
(意見)
★慧子さん、内部は空しいものだと捉えられていますが、どこから出てきたのですか?(石井)
★空しいというのは空間ということです。(慧子)
★そうすると骨格=太き空間なので、骨格が空しいということ?(石井)
★私達の体にはは肉や骨が詰まっていますけど、この仁王さんは空っぽ。それは人間から見れば空
しさに通じませんか?(慧子)
★作者はそこまで言っていらっしゃるかなあ。(石井)
★「内部はむなしいものだと作者はとらえる」の箇所を疑問にすればよかったですか。(慧子)
★仁王像の全体から転換して骨格に焦点を当てている。それを太き空間と表現しているんだけど、
それって空しいかなあ。ものを剥いだ時に見えるものを表現されたのかなあ。骨格に持って行く
のが独特な作者の目ですね。(石井)
★仁王像は大きいから一度に作れなくていろんなものを寄せて作る。だから中に空間ができる。(曽我)
★あんなものすごい形相をした仁王さんの内部が空しいところに作者の目は行っていると思う。太
き骨格を持っているのに内部は空っぽ。(慧子)
★この仁王像が乾漆づくりだとは断定できないですね。内部まで土の詰まった塑像の仁王もありま
すから。乾漆像だと確かに内部は空洞かもしれないけど、それだって骨格そのものは空洞ではな
いでしょう。また。「骨格はもつ」って、内部の空間ではなくて、ダイナミックで逞しい骨格が
占めている空間のことを言っているのではないでしょうか。「太き」というからには空虚とか空
しいには繋がらない気がしますが。ここには肯定的な何かがあると思います。(鹿取)
★何もかも肯定的だったら歌の深みが出ない。「太き」を肯定でとったら当たり前でつまらない。
ここは極端に言えば、存在というものは空しいということでしょうかね。(石井)
(後日意見)
木を詠んだほかの歌もそうですが、作者には太い骨格、地面をしっかり踏みしめて自分で立っているものへの憧れがあるように感じます。夏の光は強烈だ。強烈な光であれば、物の陰影がくっきりはっきり色濃く浮かび上がってくる。秋の光は柔らかい。柔らかい光であれば、物の陰影はあいまいになり、輪郭もやわらかになる。穏やかで、優しい気持ちになる。仁王像は、そんな柔らかくやさしい光さえも弾き返し、筋骨をくっきりと浮かび上がらせ、がっしりと地をつかみ、体全体に力をみなぎらせて立っている。柔らかな秋の光の中で仁王像を見上げた時に感じた、その圧倒的な存在感を「太き空間」と表現したのではないでしょうか。(T・H)
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