2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
226 体育の日背高泡立草(せいたかあわだちそう)繁りたべてもたべても食べつくせない
(レポート)
背高泡立草につく害虫、例えばアブラムシになりかわって詠んだ歌のようだ。キク科の背高泡立草の咲き誇る様をひきだす具体として「体育の日」は初句に置かれたのだろう。荒地一面が真っ黄色に見えるほどの風景が、満腹感とともに不思議と実感として伝わってくる。この一首で読者は、人ではない例えばアブラムシになることで、食するという体感を持って、風景をみるという視覚的体感が得られることを知る。(泉)
(紙上参加)
体育の日、背高泡立草は大繁殖しているので、食べても食べつくせないよ、と。この時代の秋の川辺の風景をうたっている。体育の日は大概晴れている。そんな秋晴れの下で、外来種の背高泡立草は川辺や空き地で大繁殖して、在来種を駆逐しつつある。だから、駆除したいけれど、かなわないということか。けれど、最近は自ら減りつつあるので、心配はいらないかもしれないですね 。(菅原)
(当日意見)
★セイタカアワダチソウは菊科の植物だから秋を表すために体育の日を持ってきたの
かな。(泉)
★体育の日は220番(鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイ
ン)の天高き日のように読みました。そこに妄想が入り込んでいる。食べているのは
妄想。でもアブラムシに成り代わってうたっているというのも面白い。(慧子)
★短歌に主語が無いときはわれが主語ですが、この下の句「食べても食べつくせない」
はリアリティがありますね。人がセイタカアワダチソウを食べる訳が無いので、雲に
なったりするように虫になったんじゃないかなと思ったのです。慧子さんのお話は妄
想の中で自分が背高泡立草 を食べるんですね。そうかもしれないなあ。(泉)
★まあ、でも、虫とは書いてないので、私はなるべく書いてあるとおりに読もうと思い
ます。それが松男さんの言う「リアリズムの眼鏡」を掛けない方法かなあと。だから
〈われ〉が背高泡立草を食べるんですね、やっぱり。次の歌は「掬いては日溜りをた
べ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」で、日溜まりや枯れ葉を食べますから。
(鹿取)
★体育の日の設定はものすごく意味があると思います。体育の日は人間も全部生きると
いうことに肯定的で全てが満ちているような感じ、力があふれて。背高泡立草ももの
すごい勢いで伸びてきますよね。だから体育の日の背高泡立草ということで全てが肯
定的で勢いがあってエネルギッシュでがーっと全部が伸び合っている。国中、世界
中、人間が生きているということにガーと進んでいくときというのは人間の欲望も満
足度がなくて満ちてくるので、「食べても食べても食べつくせない」。体育の日も泡
立草も人間の欲望も前に向かって生気に満ちあふれている。体育の日というのを意味
無く持ってきているのではないと思います。アブラ虫にまでは行かないんじゃない
か。設定の仕方について渡辺松男という人はどうなんですか。(A・K)
★A・Kさんの意見だと〈われ〉は体育の日や背高泡立草の生命力に全く溶け込んでい
るというように感じられますが、それだと片っ端から食べていくという表現になるん
じゃないかなあ。最後の「食べ尽くせない」には不全感があるように思います。むし
ろ、体育の日や外来種の背高泡立草に〈われ〉の「個」が浸食されるのが嫌で抵抗し
ているんだけど相手が手強すぎて「食べ尽くせない」。だからたじたじとしている。
(鹿取)
★なるほどね。私も同じです。たじたじに説得力があります。渡辺さんは世界の貪欲さ
に対して「食べ尽くせない」というけど食べ尽くせないから素晴らしいではなくて、
ちょっと違うんじゃないかなあと言っていらっしゃる。(A・K)
★体育の日の一斉にならえ、みたいな姿勢が作者にはなじめないのじゃないかな。攻め
込んでくるような外来種も嫌だ。(鹿取)
★二つセットでエイエイオーという感じですね。分かりました。(A・K)
Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
226 体育の日背高泡立草(せいたかあわだちそう)繁りたべてもたべても食べつくせない
(レポート)
背高泡立草につく害虫、例えばアブラムシになりかわって詠んだ歌のようだ。キク科の背高泡立草の咲き誇る様をひきだす具体として「体育の日」は初句に置かれたのだろう。荒地一面が真っ黄色に見えるほどの風景が、満腹感とともに不思議と実感として伝わってくる。この一首で読者は、人ではない例えばアブラムシになることで、食するという体感を持って、風景をみるという視覚的体感が得られることを知る。(泉)
(紙上参加)
体育の日、背高泡立草は大繁殖しているので、食べても食べつくせないよ、と。この時代の秋の川辺の風景をうたっている。体育の日は大概晴れている。そんな秋晴れの下で、外来種の背高泡立草は川辺や空き地で大繁殖して、在来種を駆逐しつつある。だから、駆除したいけれど、かなわないということか。けれど、最近は自ら減りつつあるので、心配はいらないかもしれないですね 。(菅原)
(当日意見)
★セイタカアワダチソウは菊科の植物だから秋を表すために体育の日を持ってきたの
かな。(泉)
★体育の日は220番(鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイ
ン)の天高き日のように読みました。そこに妄想が入り込んでいる。食べているのは
妄想。でもアブラムシに成り代わってうたっているというのも面白い。(慧子)
★短歌に主語が無いときはわれが主語ですが、この下の句「食べても食べつくせない」
はリアリティがありますね。人がセイタカアワダチソウを食べる訳が無いので、雲に
なったりするように虫になったんじゃないかなと思ったのです。慧子さんのお話は妄
想の中で自分が背高泡立草 を食べるんですね。そうかもしれないなあ。(泉)
★まあ、でも、虫とは書いてないので、私はなるべく書いてあるとおりに読もうと思い
ます。それが松男さんの言う「リアリズムの眼鏡」を掛けない方法かなあと。だから
〈われ〉が背高泡立草を食べるんですね、やっぱり。次の歌は「掬いては日溜りをた
べ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」で、日溜まりや枯れ葉を食べますから。
(鹿取)
★体育の日の設定はものすごく意味があると思います。体育の日は人間も全部生きると
いうことに肯定的で全てが満ちているような感じ、力があふれて。背高泡立草ももの
すごい勢いで伸びてきますよね。だから体育の日の背高泡立草ということで全てが肯
定的で勢いがあってエネルギッシュでがーっと全部が伸び合っている。国中、世界
中、人間が生きているということにガーと進んでいくときというのは人間の欲望も満
足度がなくて満ちてくるので、「食べても食べても食べつくせない」。体育の日も泡
立草も人間の欲望も前に向かって生気に満ちあふれている。体育の日というのを意味
無く持ってきているのではないと思います。アブラ虫にまでは行かないんじゃない
か。設定の仕方について渡辺松男という人はどうなんですか。(A・K)
★A・Kさんの意見だと〈われ〉は体育の日や背高泡立草の生命力に全く溶け込んでい
るというように感じられますが、それだと片っ端から食べていくという表現になるん
じゃないかなあ。最後の「食べ尽くせない」には不全感があるように思います。むし
ろ、体育の日や外来種の背高泡立草に〈われ〉の「個」が浸食されるのが嫌で抵抗し
ているんだけど相手が手強すぎて「食べ尽くせない」。だからたじたじとしている。
(鹿取)
★なるほどね。私も同じです。たじたじに説得力があります。渡辺さんは世界の貪欲さ
に対して「食べ尽くせない」というけど食べ尽くせないから素晴らしいではなくて、
ちょっと違うんじゃないかなあと言っていらっしゃる。(A・K)
★体育の日の一斉にならえ、みたいな姿勢が作者にはなじめないのじゃないかな。攻め
込んでくるような外来種も嫌だ。(鹿取)
★二つセットでエイエイオーという感じですね。分かりました。(A・K)
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