ミュシャ作ビート聖堂のステンドグラス(撮影 石井彩子)
馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
409 ステンドグラスの絵図にとこしへに苦しめる人ありそこに光とどかず
(レポート抄)
王家の「洗礼」を主題としたものであるこのステンドグラスの制作者への、キリスト教への深い理解が作者にはあるのであろう。光の届かない人々へも思いは及んでいるのであろう。(崎尾)
(当日発言)
★この歌は402番(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見
てゐる)と2句までが同じ。402番歌はミュシャに光を当てているが、この歌では絵図
に描かれた人に焦点がある。「とこしへに苦しめる人」は絵そのものが題材。(藤本)
★光が当たらない部分が実際にあるのだろう。だから先生はそこに描かれている人はとこし
えに苦しめる人だと思った。(慧子)
★そうすると光が届いている人は苦しんでいない人ということになるが、そうですか?「光
とどかず」の部分の解釈にレポーターは苦しまれたと話されましたが、そこは物理的に光
が届かない部分があるという意味ではないですか。(鹿取)
★光とはステンドグラスで強調したい所。もともと強調したい救世主などにスポットライト
を当てる技法。制作者が強調していない部分が「光とどかず」で、作者はそこに苦しんで
いる人がいることを発見したんじゃないか。英雄など讃えられる人の影としてある人が、
確実にいて苦しんでいることを発見したんじゃないか。制作者が浮かび上がらせることを
意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ。(鈴木)
★鈴木さんの意見、面白いですね。(鹿取)
★いや、みなさんの解釈のように歌からどんどん離れていくのはよくない。ステンドグラス
はまんべんなく光が当たるように設計されている。時間によってあたらない時もあるかも
しれないが。この絵にはチェコに初めてキリスト教を伝えた聖キリルと聖メトディウスが
描かれていて、物理的には光は当たっている。しかし聖人といわれるこの人たちは永遠に
苦しんでいるので、その点を光が届いていないと表現している。(藤本)
★そうすると藤本さんの意見は、「光とどかず」の光は太陽光ではないということね。
(鹿取)
★藤本さんの説には反対。あくまで現場詠だから、そのとき光が当たっている所と当たって
いない所があったのだと思う。(鈴木)
★意見が分かれましたが、並列で表記しておきます。(鹿取)
(後日意見)(2015年9月)
「ステンドグラスはまんべんなく光が当たるように設計されている」という意見があったが、普通のガラス戸だって外からの光はまんべんなく当たる。また「制作者が強調していない部分が『光とどかず』」だという意見もあった。ミュシャのステンドグラスの写真には例えば右下の暗い部分には頭を抱えて嘆いている人の姿が描かれている。その人物を眺めていると、ミュシャが英雄だけにスポットライトを当てて浮き上がらせ、重要でない人は隅の方に暗く描いているとは思えない。ミュシャは暗く描いた人の苦しみにも聖人と同等の精神性を認めているようだ。だから、藤本さんの意見のように聖人だけが苦しんでいるとは思わない。また、鈴木さんの「制作者が浮かび上がらせることを意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ」という意見に賛成したが、今はどうもそうではないように思われる。ミュシャは隅々まで入念な意図の元にステンドグラスを作ったし、作者はそれに導かれて隅に暗く描かれた名もない人の苦悩にも心打たれたのだろう。制作者の力でもあるし、鑑賞者の力でもある。(鹿取)
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