ブログ版 清見糺の短歌鑑賞 おいたるダビデ
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
191 ゆあがりのかたひざたててきるあしのつめのかたさにちょっとたじろぐ
「かりん」2002年5月号
湯上がりの爪は普通柔らかくなっているものだが、歳を重ねるにしたがって固くなるのであろうか。これほどまでに老いたのかという思いが「ちょっとたじろぐ」という口語表現に出ていて、ここにリアリティがある。
かすがの に おしてる つき の ほがらかに あき の ゆふべ と
なり に ける かも 会津 八一『鹿鳴集』(昭和15年)
全ひらがなの歌でまず思い出すのは、ひらがな分かち書きの会津八一である。清見はひらがな書きの効用を、漢字のように意味がすぐにはとれないので、ゆっくり考えながら読んでもらえることと、歌に柔らかい味を出せることと説いていた。
もちろん会津以外にも多くの歌人が全ひらがなの歌を試みている。
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
馬場あき子『飛花抄』(昭和46年)
全ひらがなで分かち書きもない。しかし意味は明瞭にとることが出来る。またこの歌は当時馬場が執していた鬼をテーマにした秀歌で、人口に膾炙している。ちなみに著名な『鬼の研究』を上梓したのが『飛花抄』と同年の昭和46年である。なお、『飛花抄』時代、馬場は新仮名づかいである。
いそぐべきなにもなきゆゑ ひたはしりわれはいそぎてゐるゆふまぐれ
村木 道彦『天唇』(昭和49年)(新旧かなづかいはママ)
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
こちらは昭和49年刊行の歌集から。村木は昭和17生まれの、このときまだ22歳になったばかりの学生だった。
かわひらこぴぴるぱぴよんぴるぴるとどこみてもうののささらのみどり
渡辺松男『歩く仏像』(2002年6月)
『歩く仏像』はひらがな多用の歌がかなり多い歌集であるが、全ひらがなはこれ一首のみのようだ。この歌は、すべて意味の明らかな言葉から構成されている。初出は「かりん」01年7月号である。「かわらひこ」は蝶の古名で、「ぱぴよん」はフランス語で蝶の意味、「うののささら」は持統天皇の名である。
一首は蝶が飛び、一面にみどりがあふれる大和の風景を詠んでいるが、その緑はさわやかな色ではなく、塚本邦雄の『緑色研究』のようなまがまがしい色のようだ。持統天皇は叔父・天武天皇と結婚し、夫亡きあとは息子の草壁皇子に皇位を継がせるため実の姉の子・大津皇子を亡きものにした。そして孫が皇位につくまで女帝として君臨した等々。もっとも、持統天皇と姉の大田皇女は同じ男=天武天皇を夫にしているので、大津皇子は甥といっても亡き夫の子でもあったのだ。そのあたり権力欲だけではない複雑さがある。「ぱ」とか「ぴ」とか弾む音が使われながら、この歌に何かざらざらした感触があるのは、背景のおどろおどろしさにあるようだ。この歌をこのように鑑賞するのは、歌集で次に置かれた歌が「大和に火の小綬鶏が鳴きあらそわばみな死ぬほどの狭きまほろば」だからでもある。
同じ「かりん」誌00年2月号には、清見糺の全ひらがなの歌(既に80番で鑑賞済みだが
たいくつというぜいたくをもてあますこのぜいたくをみやことなしつつ
が載っている。清見と渡辺、どちらがどちらのヒントになったのかは一概には言えないようだ。お互いが影響関係にあったのかもしれないし、会津八一、馬場や村木など先輩歌人たちからの影響関係のあるなしに関わらず、それぞれが独自で試行していたのかもしれない。
単発的な試みはいろんな歌人がしているようだが、筆者(鹿取)も、1994年に全ひらがなの歌を「かりん」誌に載せているのを思い出した。
わたつみのそこひにゆすれ りゆうぐうのおとひめのもとゆひのきりはづし (94年作)
鹿取未放『いろこの宮日記』(2009年刊)
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
191 ゆあがりのかたひざたててきるあしのつめのかたさにちょっとたじろぐ
「かりん」2002年5月号
湯上がりの爪は普通柔らかくなっているものだが、歳を重ねるにしたがって固くなるのであろうか。これほどまでに老いたのかという思いが「ちょっとたじろぐ」という口語表現に出ていて、ここにリアリティがある。
かすがの に おしてる つき の ほがらかに あき の ゆふべ と
なり に ける かも 会津 八一『鹿鳴集』(昭和15年)
全ひらがなの歌でまず思い出すのは、ひらがな分かち書きの会津八一である。清見はひらがな書きの効用を、漢字のように意味がすぐにはとれないので、ゆっくり考えながら読んでもらえることと、歌に柔らかい味を出せることと説いていた。
もちろん会津以外にも多くの歌人が全ひらがなの歌を試みている。
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
馬場あき子『飛花抄』(昭和46年)
全ひらがなで分かち書きもない。しかし意味は明瞭にとることが出来る。またこの歌は当時馬場が執していた鬼をテーマにした秀歌で、人口に膾炙している。ちなみに著名な『鬼の研究』を上梓したのが『飛花抄』と同年の昭和46年である。なお、『飛花抄』時代、馬場は新仮名づかいである。
いそぐべきなにもなきゆゑ ひたはしりわれはいそぎてゐるゆふまぐれ
村木 道彦『天唇』(昭和49年)(新旧かなづかいはママ)
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
こちらは昭和49年刊行の歌集から。村木は昭和17生まれの、このときまだ22歳になったばかりの学生だった。
かわひらこぴぴるぱぴよんぴるぴるとどこみてもうののささらのみどり
渡辺松男『歩く仏像』(2002年6月)
『歩く仏像』はひらがな多用の歌がかなり多い歌集であるが、全ひらがなはこれ一首のみのようだ。この歌は、すべて意味の明らかな言葉から構成されている。初出は「かりん」01年7月号である。「かわらひこ」は蝶の古名で、「ぱぴよん」はフランス語で蝶の意味、「うののささら」は持統天皇の名である。
一首は蝶が飛び、一面にみどりがあふれる大和の風景を詠んでいるが、その緑はさわやかな色ではなく、塚本邦雄の『緑色研究』のようなまがまがしい色のようだ。持統天皇は叔父・天武天皇と結婚し、夫亡きあとは息子の草壁皇子に皇位を継がせるため実の姉の子・大津皇子を亡きものにした。そして孫が皇位につくまで女帝として君臨した等々。もっとも、持統天皇と姉の大田皇女は同じ男=天武天皇を夫にしているので、大津皇子は甥といっても亡き夫の子でもあったのだ。そのあたり権力欲だけではない複雑さがある。「ぱ」とか「ぴ」とか弾む音が使われながら、この歌に何かざらざらした感触があるのは、背景のおどろおどろしさにあるようだ。この歌をこのように鑑賞するのは、歌集で次に置かれた歌が「大和に火の小綬鶏が鳴きあらそわばみな死ぬほどの狭きまほろば」だからでもある。
同じ「かりん」誌00年2月号には、清見糺の全ひらがなの歌(既に80番で鑑賞済みだが
たいくつというぜいたくをもてあますこのぜいたくをみやことなしつつ
が載っている。清見と渡辺、どちらがどちらのヒントになったのかは一概には言えないようだ。お互いが影響関係にあったのかもしれないし、会津八一、馬場や村木など先輩歌人たちからの影響関係のあるなしに関わらず、それぞれが独自で試行していたのかもしれない。
単発的な試みはいろんな歌人がしているようだが、筆者(鹿取)も、1994年に全ひらがなの歌を「かりん」誌に載せているのを思い出した。
わたつみのそこひにゆすれ りゆうぐうのおとひめのもとゆひのきりはづし (94年作)
鹿取未放『いろこの宮日記』(2009年刊)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます