かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 257(韓国)

2019-10-24 19:34:55 | 短歌の鑑賞

ブログ版馬場あき子の外国詠1(2010年12月実施)
  【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
   参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
                へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

257 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す 
     (レポート)
 はじめての草なのだろうか。「名を知らざれど手に折りて」が作者にしてはおとなしい表現だが、異国にての行為のゆえか、そこはかとなく味わいがあるのは下の句「韓の陽眩しわづか目を伏す」という消極的な行為の為であろう。思えば「秋の草」は韓国の民、または民に愛されている草のように思う。自国と韓国の古代文化のまぎれないつながり、ながい確執など歴史とこの風光の中で、みずからの情緒も含め、「眩し」み「わづか目を伏す」のである。「眩し」の漢字表記は全体を甘くさせない効果があり、三句の「手に折りて」の「折りて」は祈りに似ている。字が似ているだけでなく、掲出歌には祈りにかよう心がある。(慧子)

           (当日発言)
★心の深い歌。結句に思いが凝縮されている。目を伏せているのは韓国だから。(藤本)

     (まとめ)2013年9月
 秋草は日本にはない種類のものだったのだろうか。藤本さんの発言は、作者があとがきに述べているような「長い長い歴史の告発を受けているような悲しみを感じて」目を伏せていたのだ、と言いたかったのだろう。作者は韓国の旅の間中、この悲しみを背負っていたのだろう。(鹿取)


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