かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 113

2020-10-30 17:29:45 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究13【寒気氾濫】(14年3月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)48頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
          


113 重力の自滅をねがう日もありて山塊はわが濁りのかたち

      (レポート抄)
 浄化でき得ない自身の濁りを詠い切実である。(崎尾)


      (当日発言)
★自分の濁りのかたちである山塊がなくなってしまえばよいという歌です。ニーチェにとっても重
 力は大事な力で、重力がなくなればわが濁りも無くなるんじゃないかと。(慧子)
★慧子さんのニーチェとの関連のさせ方は違うんじゃないかな。ツァラツストラは重力をあざ笑
 いながら深山に消えたという渡辺さんの歌を以前やりましたが、あそこでは精神の高みに上ろう
 とする自分を引きずりおろす力として重力といっているように思えましたが。私はこの歌ものす
 ごく単純に、山登りが辛くて重力がなかったら楽なのに、と考えながら山塊を目の前にしている
 のかと解釈していましたが。肉体的に辛くてある時ふっとそんな破滅的な考えが浮かんだと。ま
 るで自分の心の「濁りのかたち」のように山塊が横たわっていると。でもこれじゃ渡辺さんの歌
 らしくないですね。(鹿取)
★私は「重力の自滅」ってよく分からないです。自分の死を願う日もあるけど、ってことですか。
 山塊を見ながらこれは自分の精神の濁りと同じで、動かないと思っているのでしょう。自分の自
 滅なのか地球のことなのか、もっと他のことなのかよく分かりません。(藤本)
★この重力はニーチェと関係させなくても読める歌。自分の心身の濁りが山塊のように形をなして
 いて、それは重くて辛いこと。そう考えると山塊は自分の力では取り払えないので、重力がなく
 なってくれれば山塊も形をなくす可能性がある。(鈴木)


       (後日意見)(2019年1月)
 『泡宇宙の蛙』の重力の歌(超新星(スーパーノヴァ)重力に負け爆発すサラリーマンは勝たねど負けず)を鑑賞していて、113番歌の鑑賞はずいぶん的外れだったなと気づいた。初期宇宙の発生時から重力は宇宙の基本構造を形作っているということだから、重力の自滅とは、たぶん宇宙の滅亡のことなのだろう。そしてそういう願いを持つ自分のこころの濁りを目の前にそびえる山塊に例えている歌なのだろう。この一連の表題は「寒気氾濫」で、歌集名と同一であり、掲出歌はその2首目。なお1首目は「みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず」である。今あげたような解釈をすれば1首目の美しく清新な歌にもきれいに繋がる。
 (当日発言)の二つ目の★鹿取発言の中で言っている渡辺松男の歌は『寒気氾濫』冒頭一連中にある「重力をあざ笑いつつ大股でツァラツストラは深山に消えた」。
 ついでなので、重力の定義を『ホーキング、宇宙と人間を語る』(2011年刊)から引いておく。【自然界の4つの基本的な力の中で、最も弱い力。質量エネルギーを持っているすべての物質間に働 き、お互いを引きつける】
 作者は、どれくらい科学的な「重力」の定義に忠実な使い方をしているかは分からないが、重力は全ての物質間に働くのだから、少なくとも、比喩的にいって引っ張り下ろそうとする力ではないし、もちろん上からの圧力でもない。(鹿取)


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