2023年版 渡辺松男研究 16 2014年6月
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
140 根が地下で無数の口をあけているせつなさよ明けてさやぐさみどり
(紙上意見)
たぶん根は昼夜を問わず二十四時間、無数の根の先からたえまなく水を吸い続ける。それを「無数の口をあけている」と表現するが、それを思えば切ない。しかし、そのおかげで翌朝には、爽やかなさみどりの葉がさやぐのである。(鈴木)
(当日発言)
★「根が地下で無数の口をあけている」が上手。私だったら水を吸っているとしか言え
ない。「切なさよ」でつなぐところが良い。(慧子)
★木が生きるため「根が地下で無数の口をあけている」その切ない気分はよくわかる。
ただ、鈴木さんのように根が水を吸っているおかげで……というほどには因果関係の
接続を思わないけど。もっと微妙な接続に思える。それから上の句ではニーチェとの
繋がりとか、原罪とか存在悪と言ったら大げさかもしれないけど、生の根源のような
ことを考えさせられる。(鹿取)
(まとめ)
『寒気氾濫』の小さな批評会で大井学さんが話された資料に、この歌をニーチェとの関連で読んでいるところがあるので引用させていただく。(鹿取)
……この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋が
るものであることが解る。「高みへ、明るみへ、いよいよ伸びていこうとすればす
るほど、その根はいよいよ強い力で向かっていく――地へ、下へ、暗黒へ、深みへ
――悪のなかへ」というニーチェの言葉を思い浮かべるとき、さみどりの色彩は、
地下の無数の口に支えられ、いよいよ高く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴
えているようだ。些か不用意かと思われる「せつなさ」という言葉が、やはりここ
に使用されるだけの作者の内面的な根拠があったことを思わせる。
(後日意見)(2020年12月)
この歌は「せつなさよ」をどう捉えるかが、要だとおもいます。鈴木氏の紙上意見は、単に歌の表面的解釈に終始して「せつなさよ」という作者の詠嘆に近い思いを鑑賞しようとしていません。だいたい「おかげで」という解釈は間違ってます。渡辺氏はそのような通俗的な理屈を嫌います、その無理解は「明けて」を「翌朝」と解釈していることからもわかります。これは根が地下の暗闇にあり、緑の葉は明るい地上にあると、対比しているのです。又「明けて」は「翌朝」という具体的な時間帯ではなく根からの水分を吸い上げた結果、緑の葉の存在が現出するのだという因果関係を客観的に述べているだけです。
大井学氏は<この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋がるもの>と述べ、「みどりの色彩は…いよいよ高く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴えているようだ。と、ニーチェ的解釈されていますが、渡辺氏は、大井氏のようにニーチェを無批判に受け入れてはいません。
この「せつなさ」の感情はニーチェ的力の「均衡」よりも、仏教的なものを根源としているのではないでしょうか、美しさと悲哀を訴えているのはみどりの色彩ではなく、無数の口をあけて何かを主張し訴えざるを得ない根なのです、それは暗闇に追いやられ、存在を消されて怨念に近いものなのかもしれません。口は食物を摂取する器官と同時に、語り掛け訴える器官なのです。そして無数の無用なものが、葉っぱ一枚の地上の生存を成り立たせるために地下へと追いやられるのです。「せつなさ」はそのような根と緑の葉、明と暗、光と影といった生きとし生けるものの本当のありよう、摂理をみつめ、認識したときに湧き上がる感情ではないでしょうか。
渡辺氏はあらゆる生き物を人間と同等に扱い、立場の弱い者に対して慈しみの感情を持って謳い上げます。渡辺氏のこのような作家姿勢はきっと若いころ精神病を患っておられたことと関連しているのでしょう。馬場あき子もこの世で受け入れられなかったものに深い共感を示されます。『鬼の研究』の鬼、あるいは東北のアテルイなど。それは歴史そのものが勝者のものだからです。比喩的に捉えると、地上世界の緑の葉は秩序、道徳を、地下世界の根は無秩序、混沌を象徴するのでしょう。『異邦人』のムルソーは、人を殺したのは太陽のせいと、意味不明なことをいったため狂人扱いされました。私が渡辺氏の歌に惹かれるのは、本当の詩人が詠うことのできる生の真実を描いてくれるからです。(S・I)
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
140 根が地下で無数の口をあけているせつなさよ明けてさやぐさみどり
(紙上意見)
たぶん根は昼夜を問わず二十四時間、無数の根の先からたえまなく水を吸い続ける。それを「無数の口をあけている」と表現するが、それを思えば切ない。しかし、そのおかげで翌朝には、爽やかなさみどりの葉がさやぐのである。(鈴木)
(当日発言)
★「根が地下で無数の口をあけている」が上手。私だったら水を吸っているとしか言え
ない。「切なさよ」でつなぐところが良い。(慧子)
★木が生きるため「根が地下で無数の口をあけている」その切ない気分はよくわかる。
ただ、鈴木さんのように根が水を吸っているおかげで……というほどには因果関係の
接続を思わないけど。もっと微妙な接続に思える。それから上の句ではニーチェとの
繋がりとか、原罪とか存在悪と言ったら大げさかもしれないけど、生の根源のような
ことを考えさせられる。(鹿取)
(まとめ)
『寒気氾濫』の小さな批評会で大井学さんが話された資料に、この歌をニーチェとの関連で読んでいるところがあるので引用させていただく。(鹿取)
……この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋が
るものであることが解る。「高みへ、明るみへ、いよいよ伸びていこうとすればす
るほど、その根はいよいよ強い力で向かっていく――地へ、下へ、暗黒へ、深みへ
――悪のなかへ」というニーチェの言葉を思い浮かべるとき、さみどりの色彩は、
地下の無数の口に支えられ、いよいよ高く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴
えているようだ。些か不用意かと思われる「せつなさ」という言葉が、やはりここ
に使用されるだけの作者の内面的な根拠があったことを思わせる。
(後日意見)(2020年12月)
この歌は「せつなさよ」をどう捉えるかが、要だとおもいます。鈴木氏の紙上意見は、単に歌の表面的解釈に終始して「せつなさよ」という作者の詠嘆に近い思いを鑑賞しようとしていません。だいたい「おかげで」という解釈は間違ってます。渡辺氏はそのような通俗的な理屈を嫌います、その無理解は「明けて」を「翌朝」と解釈していることからもわかります。これは根が地下の暗闇にあり、緑の葉は明るい地上にあると、対比しているのです。又「明けて」は「翌朝」という具体的な時間帯ではなく根からの水分を吸い上げた結果、緑の葉の存在が現出するのだという因果関係を客観的に述べているだけです。
大井学氏は<この相反する力の「均衡」が生きんとするものの根源的な「せつなさ」に繋がるもの>と述べ、「みどりの色彩は…いよいよ高く、いよいよ深くその美しさと悲哀とを訴えているようだ。と、ニーチェ的解釈されていますが、渡辺氏は、大井氏のようにニーチェを無批判に受け入れてはいません。
この「せつなさ」の感情はニーチェ的力の「均衡」よりも、仏教的なものを根源としているのではないでしょうか、美しさと悲哀を訴えているのはみどりの色彩ではなく、無数の口をあけて何かを主張し訴えざるを得ない根なのです、それは暗闇に追いやられ、存在を消されて怨念に近いものなのかもしれません。口は食物を摂取する器官と同時に、語り掛け訴える器官なのです。そして無数の無用なものが、葉っぱ一枚の地上の生存を成り立たせるために地下へと追いやられるのです。「せつなさ」はそのような根と緑の葉、明と暗、光と影といった生きとし生けるものの本当のありよう、摂理をみつめ、認識したときに湧き上がる感情ではないでしょうか。
渡辺氏はあらゆる生き物を人間と同等に扱い、立場の弱い者に対して慈しみの感情を持って謳い上げます。渡辺氏のこのような作家姿勢はきっと若いころ精神病を患っておられたことと関連しているのでしょう。馬場あき子もこの世で受け入れられなかったものに深い共感を示されます。『鬼の研究』の鬼、あるいは東北のアテルイなど。それは歴史そのものが勝者のものだからです。比喩的に捉えると、地上世界の緑の葉は秩序、道徳を、地下世界の根は無秩序、混沌を象徴するのでしょう。『異邦人』のムルソーは、人を殺したのは太陽のせいと、意味不明なことをいったため狂人扱いされました。私が渡辺氏の歌に惹かれるのは、本当の詩人が詠うことのできる生の真実を描いてくれるからです。(S・I)
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