2024年度版 渡辺松男研究34(16年1月)
【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁~
参加者:S・I、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
282 トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ
(当日意見)
★フーコーはS・Iさんに説明してもらいましょう。(鹿取)
★フーコーは有名な同性愛の哲学者ですね。ニーチェと同じように「理性」や「真理」
という絶対的価値観を壊した人です。『狂気の歴史』には「理性」の名のもとに、社
会の秩序に合わない人々、身体障害者、精神に病を持つ人、同性愛者らを隔離する
記述があり、フーコーは「理性」は絶対的なものではなく、単なる解釈、記号にすぎ
ない、この理性こそ狂気ではないか、といっています。(S・I)
★それで、この歌についてはいかがですか。(鹿取)
★この女性はフーコーの伝記みたいなものを持っていたのかな。そしてその内容にこの
女性は共感しています。現実に汗水を垂らして生きている、ものを考えたり、そうい
った世界とは違う世界の人の生きざまを詠っていらっしゃるのかなと。(S・I)
★S・Iさんの意見は同性愛者のところが強調され過ぎと思います。『フーコー』は二重
カギ括弧だからジル・ドゥルーズという人が書いた本かなと。(鈴木)
★ポスト構造主義の人ですよね。その『フーコー』の中で何を言っているかというと死
の権力と生の権力です。死の権力というのは中世の頃、国王がいて臣下を支配してい
た。刃向かうといつ殺されるか分からない。革命以降は権力者がいなくなってみん
な平等です、自由にやっていいですよと言っているにもかかわらず、政治家が権力を
もっているわけです。それを生の権力と言っているのです。ジル・ ドゥルーズという
人は現代をツリー構造とリゾーム状と2つに分けたのです。ツリー状は権力的な ピ
ラミッド状、リゾームはウエッブのように蜘蛛の巣状になっていて対等にやり取りで
きる。そこでノマドという言葉が出てきます。ノマドは遊牧地のことで全てが自由
に遊べる。ところが私有地として囲っていますと一般の人は入れなくなる。そこで
ドゥルーズは、もともと存在は私有地などに拘束されなくてやってこれたと説く。私
なりに考えてみると入会権とか入り浜権とか昔はあった。自由に山に入ってキノコ
を採ったり、浜で貝をとったりできた。そんなふうに人間はもともとノマドに逃げて
いくことが出来るんだとドゥルーズは言っています。この歌では助手席にいるという
ことは運転手が威張っているわけです。助手席の女性は使いっ走りのような存在な
のですが、『フーコー』を持っているからにはノマド的な生き方をしている。解放さ
れている人じゃないか。(S・I)
★この歌は頭で理解するのではなく、慧子さ んが言われたように「感じ取る歌」で
はないか。(鈴木)
★松男さんは『フーコー』を軽い気持ちで詠んでいるので、さっきS・Iさんが言ったよ
うな同性愛者としての見方も面白いなとは思うんですよ。ただ『フーコー』というカ
ギ括弧が付いていたんでドゥルーズまで持ち出したのですが。(鈴木)
★理性は人間が作り上げた権力だということを言っています。ニーチェが権力の意志と
いったことに連なります、特定の視点を絶対化し、それを真実と思わせる理性、それ
をフーコーは権力だと述べ るのです。(S・I)
★松男さんは以前にもトラックを運転している弟とかキャベツを運ぶトラックとかにシ
ンパシーをもって詠んでいます。この歌もそんなにフーコーに深入りしないでいいの
かなと。この歌の女性は助席に乗っているから運転手から搾取されている存在とかは
思わなくて、トラックに乗務して働く逞い女性で、価値の転倒ということを考えたフ
ーコーという人に関心を抱いている人だ、くらいの意味かなと。もっと一般的にいう
と、ブルーカラーの女性が知的な本を持っていたので、おやっと好もしく思った。
(鹿取)
★私もそう思っています。要するに生の権力とか言っても見えないのです。普通の女性
がそうやって自分らしい……(鈴木)
★鹿取さんの言っているとおりと思いますが、『フーコー』を他の題名にしたらどうな
んでしょう。やっ ぱりフーコーに意味を持たせているのでしょう。(S・I)
★『フーコー』の感じを分からせたいと思って作者も作っている。生の権力なんて言葉
は仰々しいけどみんな日頃感じている事です。それをどういう風に書くかです。
(鈴木)
★もちろんニーチェではなくフーコーだということに意味はあると思います。97年発
行の歌集ですが、男女雇用機会均等法が施行されたりした後ですよね。こういう女性
に肯定の目を向けているのでしょう。(鹿取)
★松男さんは男女に拘らない人です。作者の中に男性的部分、女性的部分があるんで
す。両方の視点 から見ています。性に拘っていない。同性愛者にも偏見をもって
いない。(鈴木)
(レポート)
ある女は汗拭きだろうタオルを持ちトラックの助手席から降りてきたというからトラックの運送のアルバイトか仕事をしていると思われ又『フーコー』を持っている。女性にはめずらしい仕事をしているが、価値観の云々は別として、ものにとらわれていないことは言えるだろう。リポーターは『フーコー』をとらえられないし、要約も出来ない。(慧子)
(後日意見)①
優れた表現者が両性具有的視点を備えていることは積極的に肯定するし、松男さんもその一人だと思う。しかし、たびたび引用している『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」巻頭歌は〈八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチひげ濃かりけり〉であり、同じ連の中には〈同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚〉がある。歌集冒頭で自分のもっているさまざまなものを出して見せていると考えると、両性具有的視点というよりも思想家や作家などの性的嗜好に関心があるように思われる。歌集中には〈赤尾敏と東郷健の政見を聞き漏らさざりし古書店主逝く〉もあり、やはり同性愛者への強い関心の現れだろう。ただしこの一首の解釈としては、同性愛ということに深く踏み込む必要はないように思う。(鹿取)
(後日意見)②
「男女雇用機会均等法…」云々という社会状況とリンクさせると、この歌の真価がどうもぼやける感じがします。松男氏の歌は時空を超えています。むしろ存在論的に鑑賞した方がよいと思います。 (S・I)
(後日意見)③
この一首はフーコーが同性愛者だという認識なしには、鑑賞できない。フーコーは社会の規範、制度といった権力構造と闘い「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と豪語し、エイズで亡くなった。『フーコー』は、遍在し、時空に漂うフーコーそのものだ。フーコーは制度によって男だとか、女といって規定されることを拒否する。運転席には「男」であるフーコーがいる。同性愛は知=肉体の融合という点では、異性愛よりも優っている。「女」と分類された人が持っていたのはタオルだ。タオルはフーコーの精神を具象化したもので、汗→労働→エロスであり、同性愛の象徴でもある。トラックに乗ってあちこち移動することは、定住を拒み必要性に応じて、住処を転々と変える遊牧民族に似ている。それを『フーコー』の作者、ジル・ドゥルーズは「ノマド」といった。かれらは法や契約、制度によって固定化され動きのない社会=領土にやってきて「脱領土化」を図る。これを「ノマド的」という。このように外から運動がやってくることを受け入れることは固定した社会に新しい価値を生みだすことになる。ノマド、あるいは「ノマド的」になることはフーコーにとってもジル・ドゥルーズにとっても理想郷であった。(S・I)
【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁~
参加者:S・I、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
282 トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ
(当日意見)
★フーコーはS・Iさんに説明してもらいましょう。(鹿取)
★フーコーは有名な同性愛の哲学者ですね。ニーチェと同じように「理性」や「真理」
という絶対的価値観を壊した人です。『狂気の歴史』には「理性」の名のもとに、社
会の秩序に合わない人々、身体障害者、精神に病を持つ人、同性愛者らを隔離する
記述があり、フーコーは「理性」は絶対的なものではなく、単なる解釈、記号にすぎ
ない、この理性こそ狂気ではないか、といっています。(S・I)
★それで、この歌についてはいかがですか。(鹿取)
★この女性はフーコーの伝記みたいなものを持っていたのかな。そしてその内容にこの
女性は共感しています。現実に汗水を垂らして生きている、ものを考えたり、そうい
った世界とは違う世界の人の生きざまを詠っていらっしゃるのかなと。(S・I)
★S・Iさんの意見は同性愛者のところが強調され過ぎと思います。『フーコー』は二重
カギ括弧だからジル・ドゥルーズという人が書いた本かなと。(鈴木)
★ポスト構造主義の人ですよね。その『フーコー』の中で何を言っているかというと死
の権力と生の権力です。死の権力というのは中世の頃、国王がいて臣下を支配してい
た。刃向かうといつ殺されるか分からない。革命以降は権力者がいなくなってみん
な平等です、自由にやっていいですよと言っているにもかかわらず、政治家が権力を
もっているわけです。それを生の権力と言っているのです。ジル・ ドゥルーズという
人は現代をツリー構造とリゾーム状と2つに分けたのです。ツリー状は権力的な ピ
ラミッド状、リゾームはウエッブのように蜘蛛の巣状になっていて対等にやり取りで
きる。そこでノマドという言葉が出てきます。ノマドは遊牧地のことで全てが自由
に遊べる。ところが私有地として囲っていますと一般の人は入れなくなる。そこで
ドゥルーズは、もともと存在は私有地などに拘束されなくてやってこれたと説く。私
なりに考えてみると入会権とか入り浜権とか昔はあった。自由に山に入ってキノコ
を採ったり、浜で貝をとったりできた。そんなふうに人間はもともとノマドに逃げて
いくことが出来るんだとドゥルーズは言っています。この歌では助手席にいるという
ことは運転手が威張っているわけです。助手席の女性は使いっ走りのような存在な
のですが、『フーコー』を持っているからにはノマド的な生き方をしている。解放さ
れている人じゃないか。(S・I)
★この歌は頭で理解するのではなく、慧子さ んが言われたように「感じ取る歌」で
はないか。(鈴木)
★松男さんは『フーコー』を軽い気持ちで詠んでいるので、さっきS・Iさんが言ったよ
うな同性愛者としての見方も面白いなとは思うんですよ。ただ『フーコー』というカ
ギ括弧が付いていたんでドゥルーズまで持ち出したのですが。(鈴木)
★理性は人間が作り上げた権力だということを言っています。ニーチェが権力の意志と
いったことに連なります、特定の視点を絶対化し、それを真実と思わせる理性、それ
をフーコーは権力だと述べ るのです。(S・I)
★松男さんは以前にもトラックを運転している弟とかキャベツを運ぶトラックとかにシ
ンパシーをもって詠んでいます。この歌もそんなにフーコーに深入りしないでいいの
かなと。この歌の女性は助席に乗っているから運転手から搾取されている存在とかは
思わなくて、トラックに乗務して働く逞い女性で、価値の転倒ということを考えたフ
ーコーという人に関心を抱いている人だ、くらいの意味かなと。もっと一般的にいう
と、ブルーカラーの女性が知的な本を持っていたので、おやっと好もしく思った。
(鹿取)
★私もそう思っています。要するに生の権力とか言っても見えないのです。普通の女性
がそうやって自分らしい……(鈴木)
★鹿取さんの言っているとおりと思いますが、『フーコー』を他の題名にしたらどうな
んでしょう。やっ ぱりフーコーに意味を持たせているのでしょう。(S・I)
★『フーコー』の感じを分からせたいと思って作者も作っている。生の権力なんて言葉
は仰々しいけどみんな日頃感じている事です。それをどういう風に書くかです。
(鈴木)
★もちろんニーチェではなくフーコーだということに意味はあると思います。97年発
行の歌集ですが、男女雇用機会均等法が施行されたりした後ですよね。こういう女性
に肯定の目を向けているのでしょう。(鹿取)
★松男さんは男女に拘らない人です。作者の中に男性的部分、女性的部分があるんで
す。両方の視点 から見ています。性に拘っていない。同性愛者にも偏見をもって
いない。(鈴木)
(レポート)
ある女は汗拭きだろうタオルを持ちトラックの助手席から降りてきたというからトラックの運送のアルバイトか仕事をしていると思われ又『フーコー』を持っている。女性にはめずらしい仕事をしているが、価値観の云々は別として、ものにとらわれていないことは言えるだろう。リポーターは『フーコー』をとらえられないし、要約も出来ない。(慧子)
(後日意見)①
優れた表現者が両性具有的視点を備えていることは積極的に肯定するし、松男さんもその一人だと思う。しかし、たびたび引用している『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」巻頭歌は〈八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチひげ濃かりけり〉であり、同じ連の中には〈同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚〉がある。歌集冒頭で自分のもっているさまざまなものを出して見せていると考えると、両性具有的視点というよりも思想家や作家などの性的嗜好に関心があるように思われる。歌集中には〈赤尾敏と東郷健の政見を聞き漏らさざりし古書店主逝く〉もあり、やはり同性愛者への強い関心の現れだろう。ただしこの一首の解釈としては、同性愛ということに深く踏み込む必要はないように思う。(鹿取)
(後日意見)②
「男女雇用機会均等法…」云々という社会状況とリンクさせると、この歌の真価がどうもぼやける感じがします。松男氏の歌は時空を超えています。むしろ存在論的に鑑賞した方がよいと思います。 (S・I)
(後日意見)③
この一首はフーコーが同性愛者だという認識なしには、鑑賞できない。フーコーは社会の規範、制度といった権力構造と闘い「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と豪語し、エイズで亡くなった。『フーコー』は、遍在し、時空に漂うフーコーそのものだ。フーコーは制度によって男だとか、女といって規定されることを拒否する。運転席には「男」であるフーコーがいる。同性愛は知=肉体の融合という点では、異性愛よりも優っている。「女」と分類された人が持っていたのはタオルだ。タオルはフーコーの精神を具象化したもので、汗→労働→エロスであり、同性愛の象徴でもある。トラックに乗ってあちこち移動することは、定住を拒み必要性に応じて、住処を転々と変える遊牧民族に似ている。それを『フーコー』の作者、ジル・ドゥルーズは「ノマド」といった。かれらは法や契約、制度によって固定化され動きのない社会=領土にやってきて「脱領土化」を図る。これを「ノマド的」という。このように外から運動がやってくることを受け入れることは固定した社会に新しい価値を生みだすことになる。ノマド、あるいは「ノマド的」になることはフーコーにとってもジル・ドゥルーズにとっても理想郷であった。(S・I)
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