かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 中欧 377

2021-12-11 17:45:46 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)(2021年12月改訂)
       【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


 ※379番歌「ドナウ川クルーズもややに夕暮れてハンガリー舞曲奏でられたり」の関連で一連
  の歌の鑑賞を一分アップします。

377 「知識人の役割」を熱く語りたるサルトルの通訳は深作光貞なりき

     (レポート)
 サルトルは、講演のなかで、①専門外のことに口をだすものこそが知識人であり、タコツボ的に個別の領域に閉じこもる専門家は、知識人ではない ②知識人は普遍性を追求するものだが、専門家は、結局は個別的なブルジョア階級に奉仕している ③普遍性を追求する知識人は、個別的な階級の利害の外に出ることになる ④個別具体に関わらない口先だけの偽の知識人にならないよう、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき真の知識人となる、などと熱く語っている。その時の通訳は、深作光貞(1925~91)文化人類学者。1952年~57年パリソルボンヌ大学留学(現代文明の重苦しい息苦しさを感じる)。その後、5年間 東南アジア、カンボジアで生活(自然の中で生きてゆく博物誌的な人間の瑞瑞しさを知る)。(鈴木)


    (当日発言)
★わざわざ通訳の名前を出しているのは特別だから。この人は通訳なのにサルトルと丁々発止と
  やり合ったと聞いた。(曽我)
★そうすると通訳としては適役ではなかったのか。(鈴木)
★否定的という訳ではない。(曽我)
★馬場と深作は短歌で深い繋がりがあったので好意的に詠んでいる。知識人の政治参加を強く訴え、
 世界が熱狂して受け容れた〈かのサルトル〉の通訳がわれらの深作だったんだよと言っている。
 文化人類学者である自分の専門に閉じこもらず活躍していた深作だからこそサルトルの通訳とし
 て適役だったと思う。(鹿取)
★丁々発止の内容を知りたいなあ。話は逸れるが、早稲田の大隈講堂で行われた国際ペン学会でカ
 ナダ人の会長の口からいきなり佐藤佐太郎の短歌が読み上げられたことがあった。10カ国語ほ
 どに同時通訳されていたので通訳者は困惑するのではと驚いたが、こういう場合演説の原稿は前
 もって通訳者には渡されているそうだ。深作にも前もって原稿は渡っていて丁々発止の準備期間
 が充分あったのだろう。(鹿取)
★でも、短歌を知らない人には深作の名が出てきても分からない。(崎尾)
★作者は自分の歌を読む人は当然深作を知っていると考えて作っているのだろう。それにわれわれ
 は「短歌を知らない人」ではなく短歌を知っている立場ですから、深作の名前を知らないのはま
 ずいし、知らなければ調べればいい。エッセーなどで馬場は深作との関係をしばしば語っている。
 例えばつい最近の「かりん」にはこんなことを書いています。

 四月には東京の練馬にある豊島園で、「現代短歌シムポジウム」が開かれ、塚本邦雄にはじめて会った。これが縁となって、深作光貞が主催する歌誌「律」誌上に、塚本の企画による紙上劇「ハムレット」にガートルード役で参加したが、この作詞によって想を得たのが、短歌で創作する劇詩「橋姫」である。私はガートルードの余力を駆って五十首相当ほどの作品をまとめた。
    (「かりん」2011年10月号)

  昭和38(1963)年当時の回想です。歌誌「律」は深作が資金を提供し、中井英夫が編集人となった歌誌。ただし、7号で終刊した。深作は若い時「人民短歌」によって実作もしたようです。91年、66歳で没しています。(鹿取)


         (追記)(2015年8月)
 小中陽太郎が『1968 パリに吹いた「東風」—フランス知識人と文化大革命—』の中で、深作光貞が通訳をしたこの講演のことに触れているので、以下引用する。

 1966年、ベ平連は、ある版元とサルトルとボーボワールを日本に呼んだ。パネルのひとり谷川雁は開口一番「サルトルの名前は不愉快だ、下宿でコッペパンをかじりながら読んでいた頃を思い出す」といかにも貧乏学生らしい歓迎の辞を発し、これにはさすがのサルトルも帰国後「日本は大変楽しかった、ベ平連でさえ」といった、と風のたよりに伝わった。火花が飛んだのはボーボワールだった。開高健が「『第二の性』にベトナム植民地の話が全く出てこないのはなぜか」と問うたからたまらない。カッとなったボーボワール、ものすごい早口でまくしたてた。通訳にあたった深作光貞(精華大教授)もお手上げだ。女史は「トミコ、トミコ」と会場の朝吹登水子を壇上に呼び、「それは別の話(本)だ」と応じたが。

 評者はサルトルに謝まった。彼は「ça fait rien」と答えた。「たいしたことない」という常套語である。アルチュセーリエンヌの「リヤン」と同じ言葉である。評者はこれを深く徳とし、のちモンパルナスの墓地に行って二人の墓に手を合わせた。

 ここで、「評者」とあるのは筆者の小中陽太郎のことである。この討論集会に参加した様々な「知識人」が回想を記しているが、日本滞在中通訳として同行した朝吹登水子も『サルトル、ボーヴォワールとの28日間・日本』という本でこの場面に触れている。小中よりボーヴォワールの主張は詳しく書かれているが、深作の通訳については立場上配慮されたらしく記述はぼかされている。参加者の回想をひとつひとつ当たれば、サルトルと深作の丁々発止の具体的なやりとりが読み取れるかもしれない。ちなみに、通訳を努めた深作はこの時41歳、この討論集会の傍聴者は1300人だったそうだ。(鹿取)


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