2024年度版 馬場あき子の外国詠9(2008年6月実施)
【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P52~
参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:藤本満須子 まとめ:鹿取未放
※この項、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)・
『ザビエルとヤジロウの旅』(大住広人)・講談社『日本全史』等を参照した。
74 遠い記憶の底に澄むかな宣教師ザビエルが泣きし日本の食(じき)
(レポート)
〈1995(平成7)年5月31日より6月10日まで11日間、スペイン・ポルトガル周遊吟行の旅〉
ザビエル(1506~1552):最初のキリスト教伝道者。インド及び日本への使徒、スペインのナバラ地方、バスク系貴族の家に生まれた。パリ大学留学中イエズス会創立に参加、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で1541年リスボンからインド布教に。日本人アンジロー(ヤジロー)を知り、1549(天文18)年トレス・フェルナンデスを伴い鹿児島に上陸、島津貴久に謁見、同地に10ヶ月滞在、平戸、山口、京都にのぼったが、布教の目的を達せず、1551年豊後を出帆してインドに向かい、翌年広東(カルトン)の川上(カンチュアン)島に上陸、中国本土布教を目指したが、熱病に冒され病没。遺体はゴアに移され、のち右腕はローマに送られた。1662年列聖。1904年〈世界伝導事業の保護者〉と定められた。
さて、この歌の眼目は2句の「底に澄むかな」にあるのではないだろうか。「澄む」は作者の記憶が澄んでいる、これは伝道者としてのザビエルのキリスト者としての精神をもうたったことばではないか。上の句と下の句にかかる16世紀半ば頃の日本の食とは粟か稗か麦か米か、いや米はないだろう等と想像する。最初の宣教師として日本にやってきたザビエル、その目的を果たせず約2年で日本を離れた。作者は異国スペインに到着し眠っていた遠い記憶を呼び起こす。まずザビエルを思う作者、単に日本の食だけではなく目的を果たせなかったことも〈ザビエルが泣きし〉にかかっているように思う。(藤本)
(まとめ)
ザビエルの父はボローニャ大学で法学の博士号を取り、ナバラ王国の大臣にまでなった人だという。ザビエルはパリ大学で哲学と神学を修め助教授になっている。たいへん理性的な人だったというが、様々な事情からイエズス会創立にかかわり、東洋への布教を任命された。
そのザビエルにして泣いた日本の食とはどういうものだったのだろうか。ザビエルが鹿児島滞在後八十日目に、ゴアのイエズス会神父宛に書いた手紙には、日本人の食生活について「食事は少量で、この地方にはぶどう畑がないので米から取る酒を飲んでいる」という記述があるそうだ。神を象徴するワインが日本では手に入らないことが彼を苦しめたのかもしれない。しかし「食」というからには、日本の菜食中心の食事がザビエルには合わなかったのだろうか。神を信じ、布教に命をかけた人ですら肉のない雑穀の貧しい食生活は耐え難かったのだろうか。作者はそこに理性的な宣教師の人間的な一面をみて親しみを感じたのであろう。
ザビエルが日本の食に泣いたという遠い記憶が「澄むかな」とあるところに、ザビエルに対する好意的なまなざしがあるようだ。(鹿取)
(後日意見)(2018年8月)
『馬場あき子新百歌』で米川千嘉子がこの歌に触れて次のように書いている。(鹿取)
来日したザビエルは教会本部への手紙に、日本人が家畜を殺して食べず魚と少量の米麦で元気なことを書いたが、それは馬場の記憶の中の日本の食の涙ぐましい簡素さを思い出させる。(米川)
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