かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 53 中欧 385

2022-06-19 12:38:22 | 短歌の鑑賞
  22年度 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
      【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


385 チャスラフスカいかなる齢(よはひ)重ぬるや雨に虹立ちやすしプラハは

     (レポート)
 1964年東京オリンピックで金メダルを獲得したチャスラフスカはどのような齢を重ねて生きてきたのだろうか、と体操選手だった彼女を思いつつ、しかし雨が降れば、すぐ虹の立つプラハだよ。虹は明るい未来の象徴、プラハ・チェコを希望をもって見ている作者と思う。チャスラフスカという一人の女性を詠いつつその背後のプラハの歴史や長かった民族独立運動に思いを重ねている。激動の時代を生きてきた人々への熱い目差しを感じさせる。(藤本)


    (当日発言)
★私は東京オリンピックの体操で金メダルをとった人としてしか知らなかった。調べてきた
 ので読み上げます。【1968年のチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」の支持
 を表明していたので、ソ連軍のプラハ侵攻の折はやむなく身を隠していた。同年のメキシ
 コ五輪には直前に出場を許されたが、金メダルはソビエトの選手とダブル受賞となった。
 その後1989年、ビロード革命によって共産党体制が崩壊、ハベル大統領のアドバイザ
 ー及び「チェコ・日本協会」の名誉総裁に就任した。後にチェコオリンピック委員会の総
 裁も務めている。2010年旭日中綬章を受章。】(Wikipediaより抜粋)「いかなる齢
 重ぬるや」と言ってはいるが、作者はチャスラフスカの金メダル後の生き方を知った上で
 わざとぼかしてこう表現したのだろう。(鹿取)


   (追記)(2017年1月)
 昨年(2016年)8月、チャスラフスカは74歳で死去。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 53 中欧 384

2022-06-18 11:56:00 | 短歌の鑑賞
  22年度 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
     司会と記録:鹿取 未放


384 旅人に見えざる歴史の時間あれどカレル橋雨のヴルタヴァを見す

    (レポート)
 旅人には見えない歴史の流れがあるけれども、ヴルタヴァ川にかかる最古の橋カレル橋はまるで何もなかったように風情豊かなヴルタヴァを見せている。カレル橋からは堂々としたプラハ城の姿を見上げることができるが、作者は橋の下のヴルタヴァ川にプラハの歴史への思いを重ねている。(藤本)


        (当日発言)
★歴史をどんなに調べても現地で体験した人たちにはかなわないという認識がある。あるい
 はもっと昔に遡れば民族のDNAに染みついていることがらは、旅人には立ち入れないと
 いう思いもある。(鹿取)


     (まとめ)
 上記発言でも言ったように、どんなに調べても勉強しても旅人には見えない歴史というものがある。それを作者は肯定した上で、カレル橋が見せてくれる雨のヴルタヴァ(ドイツ語はモルダウ)に、見えない歴史を感じようとしているのだ。以下は抜粋で分かりにくいが、Wikipediaによるプラハの歴史。(鹿取)
 1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、カレル橋の建設なども始まった。
1648年、王宮はウィーンへ移転され、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。
1938年に、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。
 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 53 中欧 383

2022-06-17 13:01:40 | 短歌の鑑賞
  22年度 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
     【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
     司会と記録:鹿取 未放


383 切実にされどゆるやかにせんせんとゆきゆきて濃し秋のヴルタヴァ 

     (レポート)
 わたくしには直接に痛切にこのヴルタヴァ川は迫ってくるのだが、しかし、ゆるやかに悠々と秋の陽にきらきらと輝き流れ続けている。秋深きヴルタヴァであることよ。赤いレンガの中世の城や教会等々その歴史を思うのだが、ヴルタヴァ川はあらゆるものを飲み込みながら変わらず流れていることだ。(藤本)


     (当日発言)
★漢詩などには「せんせんと」がよく出てくるが、辞書的には浅い流れとある。聞き慣れた
 「せんせんと」の語が懐かしいよい気分にさせてくれる。「せんせんと」「ゆきゆきて」
 の二つの畳み かけの語が秋の抒情を濃くしている。(鹿取)

              
     (まとめ)(2013年11月)
 ふつう歌にはあまり使われない概念語「切実に」が初句に来ている。歴史への思い入れが、こういう語を作者に選ばせているのだろう。考えてみると「切実に」「ゆるやかに」「せんせんと」「 ゆきゆきて」の4つの修飾語は全て直接には「濃し」に掛かるが、実際にはヴルタヴァ川の流れについての形容である。これほどニュアンスの違う形容を4つも重ねるのは珍しい詠法だろう。ともあれ、最後の「 ゆきゆきて」は以前にも出てきたが「伊勢物語」〈東下り〉の段の「ゆきゆきて駿河の国に至りぬ」など落魄の貴公子のはろばろとしたあてどない気分などを思い出させて旅の途上のわびしさを表している。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 53 中欧 382

2022-06-16 17:31:50 | 短歌の鑑賞
  22年度版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
     【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
      参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


382 ヴルタヴァの朝雨に立つ虹見ればかなしきかなやスメタナの祖国

         (レポート)
 ヴルタヴァ川の朝の雨に虹を見ていると、かなしく胸に迫ってくるものがある。ここはスメタナの祖国だ。(藤本)
 ヴルタヴァ(モルダウ)川:プラハの市内を悠々と南から北へ流れる
 スメタナ:(1824~1884)ボヘミア生まれの作曲家。チェコ国民音楽を確立。
      歌劇〈売られた花嫁〉、交響詩〈わが祖国〉等を作曲。ハプスブルク帝国下の
      チェコにあって早くから民族意識に目覚めた人。1848年フランスの二月革
      命の波を受けプラハで急進派が蜂起した際は国民義勇軍の一員として参加し
      た。1849年Fリストとクララ・シューマンの援助を得て、プラハに私立の
      音楽学校を創設する。1856年から5年間はスウェーデンで指揮者を務める
      がチェコ独立運動の機運に呼応して1861年帰国、民族運動の芸術界におけ
      るリーダー格として活動を開始した。チェコ人の為の国民劇場建設に向け、そ
      の仮劇場で代表作のオペラ〈売られた花嫁〉(1866)を初演した。187
      4年には聴覚を失うが、創作力は衰えを見せず交響詩組曲〈わが祖国〉(1
      879)など作曲する。プラハの精神病院で死去。チェコ国民音楽の父と呼
      ばれる。
 スメタナの祖国:1528年オスマン帝国の脅威を前に、ハプスブルク家の支配下に入
         った。1918年オーストリア・ハンガリー二重帝国の解体までハプ
         スブルク帝国は600年続く。(1918年最後の皇帝カール一世の
         退位)チェコスロバキア共和国として独立。しかし第二次大戦中ドイ
         ツに合併されたが、戦後独立を回復。1948年2月のクーデター、
         チェコスロバキア共和国共産党の政権が成立、社会主義国となる。1
         969年民主化(プラハの春)が始まる。ソ連武力介入。民主派が後
         退、対ソ協調の強化、国内の民主化運動弾圧。1989年共産党の独
         裁体制の崩壊、市民フォーラムを結成して活動してきたバベルが大統
         領に。1969年よりチェコスロバキアの連邦体制をとったが、19
         89年以降スロバキア側の分離・独立の主張が急速に高まり、199
         3年チェコとスロバキアはそれぞれ独立の共和国となった。


        (当日発言)
★レポーターによるとスメタナは六十歳で亡くなっている。しかも精神病院で。朝虹は儚い
 感じがする。朝虹に誘われた「かなしきかなや」だろう。(慧子)
★「かなしきかなや」は悲哀の哀だけではなく、愛情の愛も兼ねている気分だと思う。朝の
 虹が立つモルダウを見ていると曲も浮かび、ああここがスメタナの生きて生活していた祖
 国なのだと、感動が湧いたのだろう。(鹿取)
★ここでは虹がはかないと捉えた慧子さんの意見に賛成。381番歌(一夜寝てプラハの街
 は雨ながら太虹立てり見つつ離(か)れなむ)は「太虹」といっているので、はかなさと
 は遠いようだが、382番歌以降の虹には、絵画に多く見られるこの世のはかなさの象徴
 とするイメージが濃 い。(鹿取)
★歴史の変遷のかなしさ。川のほとりにスメタナの記念館がある。(曽我)


     (まとめ)
 「かりん」の連載エッセー「さくやこの花」⑤(2011年5月号)で、馬場は婚約時代のことを書いている。それによると岩田正は無類の音楽好きで、遊びに行くといろいろレコードを聴かされ、「なぜかストラビンスキーやドボルザーク、スメタナを私も好きになり、よく聴いた。」とある。ここからも作者はスメタナに相当の思い入れを持っていたことが分かる。(鹿取)


    (追記)(2013年11月)
 レポーターが「スメタナの祖国」として現代までの国の変遷をまとめてくれているが、1884年没のスメタナはオーストリア・ハンガリーの二重支配までしか知らない。交響詩組曲〈わが祖国〉もそれ以前の過去を向いて作曲されている。もちろんわれわれはその後の激動の歴史も知る必要があるし、「かなしきかなや」と馬場が詠嘆している「スメタナの祖国」は、当然激動の20世紀までを踏まえての感慨である。(鹿取)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬場あき子の外国詠 53 中欧 381

2022-06-15 14:13:18 | 短歌の鑑賞
  22年度版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
       【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
     参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
      司会と記録:鹿取 未放


381 一夜寝てプラハの街は雨ながら太虹立てり見つつ離(か)れなむ

    (レポート)
 「雨ながら」「太虹立てり」に作者の思いがうたわれている。この国やプラハの歴史への諸々の感慨を持ちつつ明るい希望を見いだしている歌。(藤本)
  プラハ:チェコ共和国の首都。中世以来のあらゆる建築様式を残す。ヨーロッパでもっ
      とも中世の面影を色濃く残す。ボヘミア盆地の中心に位置し、交通文化の中心
      地。自動車、織物、化学工業、ガラス工芸品(ボヘミアグラス)

    (まとめ)
 この一連はプラハの街を離れるところから書き起こしている。雨が降っているのに既に虹が出ているというのは面白い情景だ。歌集巻末にある初出一覧を見ると、中欧の旅行詠は四種類の雑誌に発表されているのをまとめたものと分かる。それぞれの雑誌に独立してまとめられているものを歌集にそのまま再録したため、歌集で読むと時系列が前後している部分がかなりある。(鹿取)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする