かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 103

2023-08-26 11:51:16 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)44頁~
      参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
       レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       
103 無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む

      (意見)
 黒き樹は病んでいるのだろうか。「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老は、人々に慕われる修道院の長老だが、病気がちで余命幾許もない。聖者の遺体からは「芳香」がするという奇跡を人々は信じていたが、期待に反して、長老の遺体からは「腐臭」が立ちのぼる。そのようなゾシマ長老を、病んでいる黒き樹に見立てているのである。聖なるものの存在について、無(欠如)といわず、無無(欠如ではない)ともいわずは、樹内のゾシマ長老であり、聖なる黒き樹である。(鈴木)


      (当日意見)
★無や無無が何なのか、分からなかったです。(慧子)
★鈴木さんはこの主語を聖なるものの存在と書いていますけど、まあ神と言い換えても
 いいのかなあ。神が「無い」とも、「無いのでも無い」とも病んでいるゾシマ長老は
 言わない。無とか無無は老人のふっともらす「ム」とか「ムム」という声にならない
 声、感動詞のようなものに重ねています。言わずと否定していますが、見せ消ちのよう
 な感じで、大きな黒い樹が「ム」とか「ムム」とか低い声を漏らしているようにも読め
 てしまいます。そしてその木が病むゾシマ長老をそっと抱きかかえている。(鹿取)


       (後日意見)
 『カラマーゾフの兄弟』を読みふけって五教科で赤点をもらった、という意味のことが公開されている年譜の高校時代の項に書かれているので、渡辺さんにとってゾシマ長老や、以前の歌に出てきたアリョーシャはとても思い入れのある人物です。だからおろそかには読めません。あまり小説に立ち入っても何ですけど、ゾシマ長老の死を契機に、アリョーシャは生前の彼の教えを思い出して悟りのような境地に至り、感激の涙を流しながら大地に接吻するという場面があります。渡辺さんはこの歌で小説やキリスト教から少し離れて自分に引きつけているのではないでしょうか。「無」と「無無」を並列させる捉え方は禅問答みたいで、仏教の「色即是空、空即是色」にも通うところがあるように思います。渡辺さんは哲学を学んだ人ですけど、東洋(ゴータマに代表されるインド哲学、老子、荘子、禅など)と西洋(キリスト教やニーチェ等)の融合が自然に歌の上で行われているように思います。宗教の「無」という深遠で難しい言葉を使ってますけど、深みを持たせながら音で読ませてユーモアを滲ませている。全体に余裕のある歌いぶりで、もしかしたら人間を窮屈な聖性から解き放している痛快な歌かなあとも思います。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 102

2023-08-25 12:55:41 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
    『寒気氾濫』(1997年)44頁~
     参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

102  神学に痩せゆきしひと羨しけれわれらしきりに葱抜きている

      (意見)
 理性的思惟によって真理を把握する形而上的な神学に携わり、さまざまに煩悶して痩せてゆく人がいる。しかし、自然一般・感性的現象として形をなす現実の生活の中で、しきりに葱を抜いて悪戦苦闘している生活者からみれば、それは羨ましいことである。形而上的に生きたいと思っていればこそ、余計その思いが強くなるのだ。(鈴木)


       (当日意見)
★「神学に痩せゆきしひと」を鈴木さんは一般的に捉えていますね。作者は具体的に誰
 かを指していないのですが、たとえばニーチェは神学からはずいぶんはみ出して自分
 の思想を打ち立てた人ですから、ちょっとそぐわないかなと思います。次の歌に「無
 といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む」が出てくる関連から言え
 ば、私は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャなんかを思い 浮かべます。「ひと」
 というにはアリョーシャは幼い気もしますが、ゾシマ長老に心酔して純粋に神 学を求
 め、学んでいる少年です。修道院に入って現実の社会は知らない少年なので、無神論
 者の兄さんが連れ出して論争をしかけたり、現実の社会はこんなに醜くくて複雑怪奇
 なんだと見せようとしたりするんですけど。「痩せゆきし」と過去形を使っているの
 で、小説中の人物という私の解釈はちょっと苦しいところもあるんだけど、誰か例に
 あげるとすればアリョーシャあたりかなという意味です。まあそういう人物が羨まし
 い、という部分は私は言葉どおりと捉えました。だから上の句の具体か抽象かという
 違いを除けば、解釈は鈴木さんと同じです。(鹿取)
★では、労働は尊くないの?(慧子)
★歌は倫理や道徳ではないので、ここは尊いとか尊とくないとかいう問題ではないです
 ね。もし労働が尊いということを言いたいのなら、「羨しけれ」あたりが揺らいでく
 る。もちろん、労働を蔑している訳でもない。ただ葱を抜くような農民の日常という
 ものがある生活者としては(公務員としての生活者でも同じ事ですが)、「神学に痩
 せゆきしひと」を羨ましいと思う、ということではないですか。 (鹿取)
★でも、自分たちを決して否定はしていないと思うなあ。実は神学に否定的で、ほんと
 うに羨ましいとは思ってないんじゃないかな。この歌ではわれらの側に価値を置いて
 いると思います。(慧子)
★いや、労働を否定しているんじゃないけど、形而上的な何かを求める心が強い作者だ
 から、葱を抜きながら、やはり純粋に形而上的なものを求める立場に立てる人を羨ま
 しく思うんだろうと私は思います。肯定とか否定とかゼロか100かではないと思い
 ます。ただ、「われら」というところは複数になっているので、労働者の側に心寄せ
 があるのは確かです。作者は農民の祖父のことをよくうたっていますから、葱を収穫
 して出荷する作業にも何度も携わったことがるのでしょうね。この歌でも葱をひたす
 ら抜いている情景が見えて、それは案外豊かな印象を受けます。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 101

2023-08-24 14:08:55 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)44頁~
     参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

101 引き抜けば天に草根ひかりたり登校拒否児笑みしならずや

   (レポート)
 しっかりと根を張っている草を抜いた。力を入れていたであろうから、抜けるはずみに尻餅をついたと想像する。その様子を「登校拒否児」は笑ったではないかとの歌意。「草根ひかりたり」と「登校拒否児笑みしならずや」が「天」のもとのこととして包み込まれている。平素見えていないもの「草根」と精神的に躓いて弱者に見えるかも知れない「登校拒否児」そういう2つがひびきあう。(慧子)

      (意見)
 雑草は地中に根を下ろして収まるべきところに収まり、成長していくのである。ところが、たまたま抜いた草の根が空をバックに光り輝いて、それは、まるで登校拒否児が学校の教室のしがらみから解放された一瞬の笑みのように、作者には思えて、下句が生まれたのだ。義務教育として初めて経験する集団生活、その枠組みになじめない感覚は、登校拒否児に限らず、多かれ少なかれ感じるものである。それは作者の実感でもあるだろう。(鈴木)

     (当日意見)
★私の意見は草を抜いている所へ登校拒否児が来合わせた者として考えているが鈴木さ
 んは違う。鈴木さんの解釈だと登校拒否児は、この場面にはいないのね。(慧子)
★そうですね。鈴木さんの意見は、光る草の根から登校拒否児を連想している訳ですよ
 ね。でも気分的には慧子さんと同じところに落ち着いていますよね。私もその点には
 同感です。ただ場面としては〈われ〉と登校拒否児は一緒にいて草を抜いていた、た
 またま引きにくい草を引いたときひっくり返るか何かして根っこが天を向いた、それ
 を見て日頃学校を嫌がって鬱々としている登校拒否児が面白がってきゃっきゃと笑っ
 た。慧子さんはたまたま登校拒否児が来合わせたとおっしゃったけど、私は登校拒否
 児しばしば出てくるので〈われ〉の子供と考えてよいと思います。もちろん、歌の上
 での設定ということで、事実関係は問題ではないです。日頃その子のことを心配して
 いて、だからこの場面で笑ったことにほっとしたんだろうと。草の根が天に向かって
 光っているという情景に明るい気分が投影されていると思います。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 46 アフリカ④

2023-08-23 10:20:16 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠 5(2008年2月実施)
  【阿弗利加2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P165~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、Y・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放


46 働きもののアフリカ男みてあればやさ男ほど多く働く

    (まとめ)
 アフリカでは男が働きものらしい。しかもやさ男がよく働くという。作者らしい視点である。しかし、「やさ男」を広辞苑で引くと①風流を解する男。みやび男。やさお。②柔弱な男。③風姿の優美な男。やさがたの男。と出ている。この歌では「風姿の優美な男」が当てはまるだろうか。筋骨たくましいイメージのアフリカ男性にも「風姿の優美な男」はいて、しかもそういう男の方が多く働くという。ふっと力の抜けた歌である。人種のこと、宗教のこと、貧富の差など重い問題を詠んできた後で、一連を軽やかに収める歌をもってきてバランスをとっている。
 ところで、既にブログでは鑑賞した中国詠にはこんな歌があって面白かった。
 181 老爺笑み媼は多くきげん悪しき自由市場の干し果肉はも
  228 西域は老仙の国太太(たいたい)の傍らにしてをとこ痩せゐつ
 181番歌は、上海の自由市場で物を売っている夫婦の描写、愛想の良い夫の方が働き者のようだ。228番歌の方は西域で、おそらく肥った妻の蔭にひっそりと痩せた夫がいる構図、こちらは妻の方が働き者のような印象だ。 (鹿取)

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馬場あき子の外国詠 45 アフリカ④

2023-08-22 09:14:22 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠 5(2008年2月実施)
  【阿弗利加2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P165~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、Y・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放


45 われ昔鍛冶屋の友ありその祖父の打つ鎌の火を見てうやまひき

        (まとめ)
 日本でも鍛冶屋は昔ありふれた職業でどこの町にもあったらしい。(私がものごころついた昭和30年代の田舎に鍛冶屋はなかったが)。そうして子供たちは鍛冶屋の前で飽きもせずにその仕事ぶりを眺め、尊敬の思いで見ていたのだろう。子供時代の馬場が友人のおじいさんの仕事ぶりを目を丸くして眺めている様子が浮かぶようだ。「村の鍛冶屋」という文部省唱歌があったが、「あるじは名高き いっこく老爺(おやじ)」「かせぐに追いつく 貧乏なくて」などの歌詞があり、一連の歌のアフリカのバッタを作る老爺とイメージが重なる部分がある。(鹿取)
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