2023年度版 馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P109~
参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:藤本満須子 司会と記録:鹿取 未放
392 ホフマンスタール、リヒャルトシュトラウスに出会ひたる三十五歳のウィーンを思ふ
(レポート)
ホフマンスタールが三十五歳でリヒャルトシュトラウスに出会った年のウィーンを思うという歌だが散文のような歌で、ホフマンスタールの三十五歳といえば1909年である。1909年1月にウィーンではなくドレスデンで「エレクトラ」は初演されている。ホフマンスタールは1909年2月には次の「ばらの騎士」をまとめあげている。またふたりが出逢ったのは1900年だ、パリで。リヒャルトシュトラウスは43歳でウィーン・フィルの常任客員指揮者となっている。1907年のことだ。1907年、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が完成、1914年第一次世界大戦勃発。この頃のウィーンは日常生活にいたるまで反ユダヤの雰囲気が色濃く漂っていた時代と言われている。後にリヒャルトシュトラウスにもその生涯において音楽活動において負の影響を及ぼすことになる。かのヒトラーはこの頃ウィーンにおいて反ユダヤの思想を確実に養っていたといわれる。ヒトラー、1907年にウィーンに入り1913年まで過ごした。芸術大学を二回失敗、行方不明、浮浪者収容所でも収容されていたという。ヒトラーは十二歳の時「ローエングリーン」に魅せられたという。ウィーンに放浪、滞在していた二十歳前後の感性豊かな時期、水だけを飲み、リンツの歌劇場でワーグナーの歌劇を観ている。1回につき7,8時間観ていたとも。ヒトラーのワーグナー崇拝は生涯変わらなかった。(藤本)
(当日意見)
★三十五歳という年齢に思いがあるのではないか。先生はこれを詠われた時何歳だった
のだろう。芸術家としてウィーンにある時の年齢、成熟度のことを問題にしているの
ではないか。(慧子)
★作者七十歳くらいですね。(鹿取)
★しかし、ホフマンスタールはウィーン生まれだからこの年に来たわけではない。また
「エレクトラ」の初演は1909年ではあるが、ウィーンではなくドレスデンで行
われている。だから分からない。(藤本)
★ルエガーというウィーン市長(在1897~1910)が反ユダヤ主義者として有名
だった。1910年に病死したが、葬儀行進には若きヒトラーが参加していたとい
う。世紀末の気分が尾を曳いた退廃的で不穏な空気の中のウィーンということだろ
うか。(鹿取)
(まとめ)
レポートにも書かれているように、ホフマンスタールは1874年生まれで、三五歳になるのは1909年。ちなみにリヒャルトシュトラウスは10歳年上。ホフマンスタールが1929年に亡くなるまで二人の関係は続き、共同でオペラを作っている。ホフマンスタールはユダヤ系で仕事等に負の影響があったともいうが、ホフマンスタールは1949年まで生き、一説にはナチスに協力したとも言われている。「エレクトラ」は当時前衛的な作曲法でなされたそうだが、リヒャルトシュトラウスとホフマンスタールが出逢ったことで生み出されたオペラの数々をこの歌では賛美する気持ちから作られているのだろうか。三十五歳に関しては、どこかに作者の勘違いがあるのかもしれない。なお、2021年9月発行の『馬場あき子全歌集』にはこのままの形で収められている。(鹿取)
【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P109~
参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:藤本満須子 司会と記録:鹿取 未放
392 ホフマンスタール、リヒャルトシュトラウスに出会ひたる三十五歳のウィーンを思ふ
(レポート)
ホフマンスタールが三十五歳でリヒャルトシュトラウスに出会った年のウィーンを思うという歌だが散文のような歌で、ホフマンスタールの三十五歳といえば1909年である。1909年1月にウィーンではなくドレスデンで「エレクトラ」は初演されている。ホフマンスタールは1909年2月には次の「ばらの騎士」をまとめあげている。またふたりが出逢ったのは1900年だ、パリで。リヒャルトシュトラウスは43歳でウィーン・フィルの常任客員指揮者となっている。1907年のことだ。1907年、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が完成、1914年第一次世界大戦勃発。この頃のウィーンは日常生活にいたるまで反ユダヤの雰囲気が色濃く漂っていた時代と言われている。後にリヒャルトシュトラウスにもその生涯において音楽活動において負の影響を及ぼすことになる。かのヒトラーはこの頃ウィーンにおいて反ユダヤの思想を確実に養っていたといわれる。ヒトラー、1907年にウィーンに入り1913年まで過ごした。芸術大学を二回失敗、行方不明、浮浪者収容所でも収容されていたという。ヒトラーは十二歳の時「ローエングリーン」に魅せられたという。ウィーンに放浪、滞在していた二十歳前後の感性豊かな時期、水だけを飲み、リンツの歌劇場でワーグナーの歌劇を観ている。1回につき7,8時間観ていたとも。ヒトラーのワーグナー崇拝は生涯変わらなかった。(藤本)
(当日意見)
★三十五歳という年齢に思いがあるのではないか。先生はこれを詠われた時何歳だった
のだろう。芸術家としてウィーンにある時の年齢、成熟度のことを問題にしているの
ではないか。(慧子)
★作者七十歳くらいですね。(鹿取)
★しかし、ホフマンスタールはウィーン生まれだからこの年に来たわけではない。また
「エレクトラ」の初演は1909年ではあるが、ウィーンではなくドレスデンで行
われている。だから分からない。(藤本)
★ルエガーというウィーン市長(在1897~1910)が反ユダヤ主義者として有名
だった。1910年に病死したが、葬儀行進には若きヒトラーが参加していたとい
う。世紀末の気分が尾を曳いた退廃的で不穏な空気の中のウィーンということだろ
うか。(鹿取)
(まとめ)
レポートにも書かれているように、ホフマンスタールは1874年生まれで、三五歳になるのは1909年。ちなみにリヒャルトシュトラウスは10歳年上。ホフマンスタールが1929年に亡くなるまで二人の関係は続き、共同でオペラを作っている。ホフマンスタールはユダヤ系で仕事等に負の影響があったともいうが、ホフマンスタールは1949年まで生き、一説にはナチスに協力したとも言われている。「エレクトラ」は当時前衛的な作曲法でなされたそうだが、リヒャルトシュトラウスとホフマンスタールが出逢ったことで生み出されたオペラの数々をこの歌では賛美する気持ちから作られているのだろうか。三十五歳に関しては、どこかに作者の勘違いがあるのかもしれない。なお、2021年9月発行の『馬場あき子全歌集』にはこのままの形で収められている。(鹿取)