狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

僕52歳の求職活動からの連想(10/12)/My associations from job hunting・・・「自己実現」と捉える自惚れと「神実現」に対する感謝、試練による練磨、顔で判断する大衆

2021-04-08 01:00:00 | エッセイ・コラム
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/04/18 04:36>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 ※ 本記事において幾つかの文献と画像を引用する事によって構成しておりますが、本記事により当方は収入を一切受け取っておりません。
 ※ I have made composition by borrowing some references and pictures in this article, but I don't receive the income at all by this article.

 <→9/12からの続き>

 僕52歳の求職活動からの連想(10/12)
  Age of 52 my associations from job hunting
   ・・・「自己実現」と捉える自惚れと「神実現」に対する感謝、試練による練磨、顔で判断する大衆


 ……よって、それらについて、掛かった時間の他、それぞれの特徴や重要に感じた事、例えば溶接後の歪みが思ったよりも大きく出てしまったとか、それを防ぐ為の補強が足りなかった事、手順を間違えたとか、このやり方の方が早く出来たのではないかとか、失敗した事、作ってから後悔、反省すると同時に気が付いた事等を、メモを添える様にして記録して来た。

 職人として手仕事をしながら、ノートをつけたり、メモを取ったり、そして、ものを書く。小関氏が旋盤工と作家を兼務して行われて来られた事と同様にして、僕も一応、今日に至るまでに、そして今後とも、製缶工ともの書きをなんとか両立させて行なっていきたいと思っている。
 そうして、手を使いながら考えてこそ良い知恵が生まれると、小関氏はおっしゃっておられる。知恵を生み、そしてそれを働かせて、ものづくりやもの書きの創作を行なっていきたい。

 2005年3月号・COMZINE・かしこい生き方のススメ『第22回 「『手で考える』ことを忘れては、良い知恵は生まれません。」 作家、旋盤工 小関智弘さん』






『粋な旋盤工』
(風媒社 1975 
のち岩波現代文庫)


『春は鉄までが匂った』
(晩声社 ルポルタージュ叢書 1979
のち社会思想社・現代教養文庫、ちくま文庫)






『おんなたちの町工場』
現代書館 1994
のちちくま文庫)


『鉄の花 町工場短編小説集』
(小学館 2003)

出典:amazon等

 下請けの鉄工所の町工場で製缶工として働きながらノートをつけて来た事と同じく、新聞の記事をスクラップしてノートに貼る事もして来た。
スクラップを始めたきっかけは、臨工関係(医療関係)の専門学校の入学試験で必須になっている、小論文と面接の対策の為であった。よって、怪我をした2003年から始めた事になる。
 特に、4、5年前まではよくやった。最初の頃は、紙媒体の新聞記事を切り取ってノートに貼っていたのだが、購読していた神戸新聞が2013年から電子版を登場させたので、PDFでパソコンの中に保存する事とした。

 僕が目覚めだした2012年、その年の11月には本ブログも始め、そして次第に、テレビから遠ざかっていくだけでは無く、新聞からも少しづつシフトしていこうとしながら、新聞以外のインターネット上の記事も取っておく様になっていった。
 そうして主流のマスゴミから離れようとすると同時に、ブログを始めた当初は少なくとも現在よりはやや左寄りであった事から、勉強するにつれて右寄りへとシフトして、保守派となっていった。そして現在は、スクラップする事が殆ど失くなっている。

 神戸新聞は、ただ単に地元の新聞だという事で取って来た。しかし、目覚め、勉強して来た後の今日に於いては、その左翼リベラルぶりには腹立たしさを感じる事が多々有る。東京で言えば東京新聞に相当するであろうが、地方紙故に、地元の事に紙面を割く割合が大きいので、特に国際情報は本当に少ない。そんな地方紙だけ読んでいても、しかもグローバリズムに偏向した新聞に目を通していても、国際音痴になってしまうのは間違いない。
 それ故、そんな新聞に対して今では、ツッコミを入れる事に、反論する事のネタに利用するという事に、意味を見出しているぐらいだ。

 そんな過去にスクラップしたものの中に、小関氏の記事が含まれている。
 スクラップ・ノートに記事の日付を入れるのを忘れており、スキャンしてPDF化した時に、ノートに貼っていた時の記事の並べ順の前後関係から、恐らく2007年9月ぐらいではないかと推察した様だ。



(クリックで拡大 ↑)
出典:(2007/09?付)・神戸新聞夕刊

 「安全をつくる」というタイトルの付いたそのエッセーは、丁度、僕がその、医療機器の保守点検を仕事の内に持つ臨工関係の勉強をしていた頃に、神戸新聞の夕刊に載せられた記事だ。旋盤工として、下請けの町工場の職人としての目の高さから、恰も僕が元々、小関氏と同様に町工場の製缶工として勤めて来た事を知ってかの様に、そして、僕と同じ目の高さまで下りて来られて、決して低い身分の者、小さな者を否定する事無く、同情し、共感して、包まれる様に書かれたエッセーからは、小関氏の温かい人柄が感じられる。

 そうして小関氏のスクラップ記事を見つけた近くに、次の記事も見つけたので、ついでに掲げる。



(クリックで拡大 ↑)
出典:2004/01/01付・神戸新聞朝刊

 まるで先の事を予想したかの如くに、現在の僕の価値観にピッタリだ。その記事をスクラップしておいた今から17年前の当時も、既に価値観が一変していたと言える。あの大怪我をきっかけに、僕は変えられていった。
 また当時、住んでいた兵庫県H町に在る家の近くのプロテスタント教会にも、怪我をきっかけに通っていた。そしてその教会で、改めて新改訳聖書を購入し、僕はクリスチャンとして引き戻された。

 現在でも、ものを書くという事に目覚めた僕は、以前と違い、お金よりも時間を優先して考える程になっている。お金も、生活する為や将来の生活に向けた貯金をする為と大事なものである事は確かだが、余り行き過ぎるとバランスが取れなくなる。
 また、将来の年金見込額が「日本年金機構」のインターネットのサイトで試算出来る様になっており、僕の年金試算額は、大方、月当たりにして10万円有るかないかぐらいにしかならない。今まで30年程の内、厚生年金を20年、残りは国民年金のみ掛けて来て、結局、それだけだ。

 歳を取っても、怪我や病気さえなければ、それぐらいの生活費でやっていける自信は有る。今に至っては、食べ物や消耗品、あと、本や情報といった知識や教養も必要だが、他に特に、概ね、何も欲しいとは思わない。それ故、ショッピングをはじめ、レジャーやグルメ、博打等と、物欲というものは殆ど失くなっている。

 だから、丁度、そのスクラップ記事と似た様なものだ。納豆を今まで定番の如くに食して来た事からも、同意し共感出来るものだ。
 それ故、単なる寿命だけを考えずに健康寿命を考えて、適度な運動をする事も大事だろう。因みに、鉄工所には70歳を超えた現役の職人が結構居た事を、今まで渡り歩きながら見て来たものだ。やはり、鉄工所では夏にいっぱい汗をかく事が出来る事が、健康の良さに繋がっているものと思える。

 ところで、そのスクラップ記事に載っている「全日本貧乏協議会」の会長は、現在、どうなっているのであろうか?。当協議会のサイト「耐乏PressJapan.」も、文字化けしてしまっており、数年前から更新されていない。近況を調べてみようとしても、何年か前までのものしかヒットしない。御無事であろうか・・・?







出典:amazon等

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙4章6節
  しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
  
 The New Testament・The Epistle of James 4:6
  But he gives more grace. Therefore it says, “God resists the proud, but gives grace to the humble.”


 『……私たちが苦難や逆境の中にあっても「神は善いお方です。賛美されるべきお方です」とへりくだって告白することを神は求めておられるのです。そして そのような信仰は「神のなさることに間違いはない、神は私たちを愛し最善以外のことは決してなさらない」という神に対する揺るがない信頼から生まれるものです。』
  (2021/03/31付・日本Christian Today「神の恵みをもたらす人のへりくだり 安食弘幸」より) 

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙5章3~4節
  そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
  忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 The New Testament・The Epistle to the Romans 5:3~4
  Not only this, but we also rejoice in our sufferings, knowing that suffering produces perseverance;
  and perseverance, proven character; and proven character, hope;


 『……主イエスご自身、この希望のゆえに苦難の人生を歩み通された。その方が、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)と言われる。勝利を信じて、世の苦難を受けとめられた主イエスを仰ぎ、私たちも神の栄光にあずかる日まで、苦難の多い人生を勇気を出して歩んで行こう。』
  (2021/03/30付・Christian Press『3月30日「苦難をも誇りとします」』より) 

 そのChristian Pressの記事に引用されていた「ローマ人への手紙5章3~4節」を、僕が所有する「新改訳聖書」から引けば、上に掲げた翻訳となっている。
一方、その記事の中で引用されていた「新共同訳聖書」によれば、その同じ聖書ヶ所の御言葉が次の様に翻訳されている。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

 新改訳では原文から「喜んでいます」と翻訳されている部分が、新共同訳では「誇りとします」と訳されている。また、同じ箇所の英語訳では「rejoice」となっている。よって、新改訳とこの記事で用いた「World English Bible」の英語訳とが、同じ訳になっている。

 世間的な人が喜びを感じるものとしては、目標の達成、成功、自己実現の成就も挙げられる。その場合、大抵の人は自分に値打ちを感じ、自分に能力が有る事を感じ、自分に惚れて、自分を褒め称え、自分を誇る事となりがちだ。しかしその場合、確かに「喜び=誇り」となるが、自分で自分を賛美しているに過ぎず、正に自惚れでしかない。

 新共同訳で敢えて「誇り」としているのは、勿論、神様を誇りにする訳だが、それは、唯一の神様である創造主にのみ力が有り、創造主にのみ栄光が有って、神様のみが誇り得る立場、身分であって、人間には誇る資格を持たないという意味をも含む。
 その唯一、誇る事が出来る創造主、人間の創り主が、人に対して試練を与える。その試練を与えられた人間は、それによる苦難の中、忍耐を持って練られ、磨かれて、そして成長し、成熟する事が出来るので、自分を高めて下さった創造主に対して感謝し、誉め讃え、そして神様を誇る事に繋がろう。

 また、新改訳で「練られた品性」と訳されている部分が、新共同訳では「練達」となっている。その「練達」とは、「熟練して深く通じていること。また、そのさま。熟達」と辞書に在る。
 また、英語ではその部分は、「proven character」と訳されている。同じく辞書によれば、「proven」が「証明された、検認された、試された」、そして「(練り粉が)膨らませられた」という意味で、「character」が「性格・性質・気質、優れた(立派な)人格・資質・品格、特性・性質・特色・雰囲気、優れた(目立った)特徴・個性・魅力・風情、評判」等となっている。

 神様が、人を練磨する為に試す、試験するという「試練」により、人が元々持っている長所としての特質、特徴、個性、アイデンティティを膨らませて大きく花を開かせると同時に、短所としての性格、気質、低い品性や人格を改善して、「練られた品性」に、真実・真理・道理に深く精通して悟り、成熟するという事になろう。

 尚、「新改訳聖書」はいのちのことば社(新改訳聖書刊行会が翻訳、日本聖書刊行会が発行、いのちのことば社が発売)から、「新共同訳聖書」は日本聖書協会から出版されている。「新共同訳聖書」の方は、カトリック教会や日本キリスト教団、ルーテル教会諸派、日本聖公会が主要な聖書として用いている

 『戦後、日本聖書協会より発行された口語訳聖書の翻訳方針が、やや自由主義神学的であったことから、福音派を中心に、神やキリストの権威を弱めているという不満が起こった。しばしば見られる「であろう」という表現は曖昧であるという批判や、またこのリベラルな傾向は当時発行された英語聖書の改訂標準訳聖書 (RSV) に追随するものだという批判もあった。そのため福音派の団体である日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) は代表を送り、説明と訂正を求めたが、当時の日本聖書協会総主事都田恒太郎は応じなかった。この経緯から聖書信仰に立つ聖書学者の翻訳になる新改訳聖書が発行された。……』
  (ウィキペディア「新改訳聖書」より)


 僕の言葉、捉え方や説明、解き明かし、感想等は、聖書に書かれている神様から預かった言葉である「預言」とは異なる「異言」でしかないので、そのウィキペディアから引いた中に書かれている「であろう」という表現を採らしてもらっている。何せ、創造主とは異なり、僕は絶対者では無い事は勿論の事であり、所詮、人間として曖昧であるからだ。

 昔の若い頃は、実績、成功といった自己実現を誇りにしていた。否、つい最近までも、そんな感じであった。
 釣りが趣味だから、以前はチヌ(黒鯛)とか大きな魚を釣った時に魚拓を取って、それを壁に貼って、自己陶酔し、自己満足し、自分を誇っていた。
 あの医療関係の学校に在学中には、取得した資格も壁に貼って、自慢し、自惚れていた。

 僕は、先に述べた、製缶工として作った製品を記録して来たノートを、就活の面接時に持参して、担当者に理解してもらおうと見せた事が多々有った。それは営業に於いて、相手の生産設備や能力に応じて仕事を出す事と同様だ。また、口で「出来ます、出来ます」というだけでは当てにならないので、そうして記帳したものは証拠として示す事が出来るからだ。

 しかし、そのノートを自分で見て、一人悦に入るだけならまだましだが、そのノートを人に見せびらかすのは、自慢話をする事と同じだ。
 巷では、How to本というものが流行っている。大概のところは、自分の成功物語、自己実現、実績を基にしており、結局のところは自慢話している様なものであろう。

 現在では、そんな「自己実現」を誇る事が間違いであると解っている。自分の能力で実現、成功したと自惚れる事が、実は全く理解する事が出来ていないのだ。
 自分の力で成し遂げたと思い込む事で、自分を誇る事に繋がっている「自己実現」。そうでは無く、神様によって成し遂げられた「神実現」であると理解する事が正しい。

 「神実現」によって成し遂げられたと理解する事で、自分を誇るのでは無く、神様に感謝する事となる。「神実現」であるが故に、神様を賛美し、神様を褒め称える事となる。
 クリスチャンはいつでも、「御国と力と栄光とは、いつまでもあなた(創造主=イエス・キリスト=聖霊)のものです、アーメン」と祈る。力、能力、そして栄光、誉れは、神様にのみ存在する。

 本当のクリスチャンであれば、聖書という規範を持つので、どんな考え方や捉え方、生き方、価値観を持つべきかという事を理解し得る。一方、無神論者には、それらのものが得難いであろう。
 しかし、クリスチャンであろうがなかろうが、人間として本来在るべき姿や考え方、価値観等を持つべきだ。
 そういう事に於いて、答えなんて無い等とマスゴミなんかが言っているが、それぞれに於いて真実、真理という一つの答えが、必ず存在するものだ。その真実、真理が、聖書の中に書かれている。聖書にはちゃんと、答えが書いてあるのだ。

 【追伸】

 以下、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」(2004/10/20・岩波書店刊)より
  『最後の職場に入ったのは四十四歳のときであった。入って間もなくの帰りしなに洗い場で手を洗っていたら、
  「お前、ずいぶん態度がでかいな」
と、若い機械工にからまれた。上半身を裸にして洗っているその機械工の背中に、太く長い刀傷があったので、これにはちょっとびびった、
  「そんなつもりはないよ」
  「いや、でかいさ」
  そのときはそれで済んだ。そういう奴には腕で勝負するしかなかった。喧嘩ではない。わたしはその職場に、職安の紹介で入った。町工場には、職安から来るような男にロクな腕の奴はいないという偏見がある。その機械工はなかなかいい腕をしていたが、あるときその男が、現場でマンガと呼ぶ略図を書いて、こんな道具をつくってくれと言ってきた。試されていると思ったから、飛びっ切りうまく削った。
  「なかなかやるじゃん」
  それで仲良くなった。あとで聞いたら、背中の傷は手術のあとだと教えられて、大笑いした。かつてその機械工は、その職場で労働組合をつくって、書記長をしていたという。社長がわたしには話さなかった職場の過去を、彼からたっぷり仕入れることができた。
  そんなふうにして新しい職場に根を下ろした。……』
 (以上、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より)

 小関氏は、その最後の職場でその後、その会社の閉鎖となった69歳と半ばまで働かれ、約25年の間、その同じ職場で働かれた。しかし、その前の職場までは、転々と渡り歩かれていた。

 以下、2021/03/31付・BEST TiMES『なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】 「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回』より 
  『「なぜいま小林秀雄を読むべきなのか?」 新刊『小林秀雄の政治学』(文春新書)を上梓した評論家・中野剛志氏は次のように語っている。「未知の事態にどのように対応すればいいのか」を考えるとき、小林はまるで切籠細工のようにあらゆる方面から対象を照らそうとした。それは新型コロナにどう向き合うかについての「考えるヒント」にもなるだろう。『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走するのか』(講談社+α新書)の著書もあり、「イデオロギーの暴力」「言葉の怖さ」について問題意識を共有する作家・適菜収氏と語りあう。対談第2回。』

  『■小林秀雄の言葉の裏表に政治学と文学があった
  中野:現実を見たとき、切籠細工のように言葉を尽くす手間を省いて、ラベルを貼ると分かった気になる。これこそが小林秀雄が言ってる「意匠」ってやつですね。「様々なる意匠」って、あれ「様々なるイデオロギー」っていうことなんですよ。どうしてイデオロギーっていうものに人間は左右されやすいのか、また左右されるとどうして人間性を失うのか。それは全部言葉の難しさに起因しているんですね。このことを小林は繰り返し語っている。イデオロギーは、平板な言葉で人間を集団的に支配する。集団を支配するイデオロギーを論じるいうことは、それは政治学です。
  …(中略)…
  適菜:ラベルの問題は私が「B層シリーズ」で一貫して述べてきたことです。たとえばスーパーマーケットの刺身に「産地直送」「新鮮」というラベルが貼ってあれば、新鮮だと思ってしまう。魚をよく見ないわけです。ベルグソンは『笑い』で「ほとんどの場合、事物の上に貼り付けられたラベルを見ているだけである。そうした傾向は必要から生ずるのだが、しかし言語の影響がそれに拍車をかける」と述べています。語は事物のきわめて一般的な機能とごくありふれた側面しか記さず、事物とわたしたちとのあいだに割って入り、その語自体を生み出した必要の後ろにまだ隠されていない事物の形をさえ、わたしたちの眼から覆い隠してしまうと。
  小林が言っていることも同じです。イデオロギーで判断するのではなくて、現象の具体性を見ろということです。この対談の第一回で「リバティー」と「フリーダム」の話が出ましたが、現実に即していない抽象的概念、イデオロギーは暴走します。ハンナ・アーレントは、……』
 (以上、2021/03/31付・BEST TiMES『なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】 「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回』より)

 次の本ブログ記事に於いて、『ほんで、5月9日には、日刊ゲンダイDIGITALは、またこんな記事を出しよった。タイトルは「自民党草案は便所の落書きレベル ドロボーに改憲させるな」。その記事を書いとんのが適菜収とかゆう作家で、大学時代にニーチェを専攻しとったゆうから、無神論者のニヒリスト、唯物論者やで。まぁ、マルクス共産主義、グローバリズム、カルトのグローバリスト、イルミナティゆうのんが見えるわなぁ。』と書いたけど、どうも適菜氏は保守の様だ。

 まぁ確かに、安倍前総理はグローバリズムとの調和を取ろうとして、真正保守からちょっと逸脱ぎみであった事は、保守系の論客から不満が出ていた事からも言える。
あの西部邁氏にしても、大衆批判を行なっていたけども、一方で人との付き合いも多く、人嫌いではなかった。ただ、西部氏も特定の信仰の対象を持っていなかった様で、国の規範や道理を伝統に求めておられた。

 本ブログ
  ・2020/05/06付「アホの芸能人セレブ、大衆愚民、迫撃砲持つ左翼、労組ユニオン生コン1/2/Fool TV celeb, Ignorant masses, & Mortar left wing, Labor union」
  ・2020/05/06付「アホの芸能人セレブ、大衆愚民、迫撃砲持つ左翼、労組ユニオン生コン2/2/Fool TV celeb, Ignorant masses, & Mortar left wing, Labor union」
 ・2020/05/21付「種苗法改正:巧みな外交で世界を調和する反グローバリズムの安倍首相/Anti-globalism PM Abe advances world harmony by skillful diplomacy」


 以下、2021/03/31付・BEST TiMES『なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】 「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回』より
  『■政治家はなぜ「顔」で判断すべきなのか?
  適菜:……先日まで安倍晋三というホラ吹きが総理大臣をやっていましたが、一応自分で書いたということになっている『新しい国へ』という本の中で、……
  …(中略)…
  適菜:『小林秀雄の警告』でも書いたのですが、小林は人を「顔」で判断しました。近代的思考では、……
  …(中略)…
  中野:ちょび髭とか生やして、まなじり吊り上げて怒鳴っているような顔には気をつけましょうとかですか(笑)。
  適菜:一言で言うと品の問題だと思います。下品な人間はだめだということですね。新渡戸稲造は、人の性格は、その人間がなにも考えていないときに表れると言っています。偉そうにしてる奴は大勢いるが、そいつが礼服を着てきちんとしているときではなくて、浴衣姿だったり、ステッキを持って散歩をしているとき、ひょっと物を食っているときに、「あれはあんな人間である」とわかると。スローガンや高尚なことなんて誰でも言えるわけです。しかし、品位は隠すことができない。安倍が握り箸と迎え舌で飯を食っている姿を見れば、「あれはあんな人間である」とわかるはずなんですね。アメリカの犬だから犬食いなのだと。 小林の政治観もそうです。小林は「面(つら)」という言葉をよく使ったのですが、人を批判するときには「あいつは面がよくない」と。逆に褒めるときも、顔から褒めるんです。福田恆存という人は痩せた、鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだと。
  中野:もうそれを読んで以来、福田恆存の顔がほんと鳥にしか見えなくなっちゃった(笑)。……
 (以上、2021/03/31付・BEST TiMES『なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】 「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回』より)

 「犬食い」、「良心をもった鳥」とかはともかくとして、なかなか、ちょっと難しい言葉も出ているものの、世間的なものでは無く、哲学的な対談で、ちょっと多めに引用させてもらった。
 適菜氏と対談した中野氏が、「小林秀雄の思想はプラグマティズム(実用主義)」と述べている。「プラグマティズム(pragmatism)」とは「実用主義」の事という。実際に用いて日常生活に役立つ事を第一に考え、また、功名や利得を得たり、功績や利益を追求する事を第一とする功利主義であるとされる。
 しかし、その役に立つという捉え方、感じ方が、どういうレベルで、どんな判断基準であるかが疑問だ。大企業が役に立たないと下請けを切ってしまったり、企業の合併・買収に際しても不要とされる従業員をリストラして合理化を図り、儲からないと手作業を辞めてロボット化を進めて効率化するといった事も実用化ではなかろうか。そんな事が、果たして本当に良いのだろうか?
 
 優生学に於いては、弱肉強食、小さいもの、力が弱いもの、権力の無いもの、身分の低いもの、劣ったもの、障害を持っているものが淘汰されるとしている。権力者、大企業の一方的な都合で、不要、不適当と判断される下請けの町工場、合理化、効率化の波に適応出来ない人々がカットされる状況は、果たして良い事であろうか?
 その優生学は、進化論という出鱈目で非科学的な理論を作ったチャールズ・ダーウィンによるものだが、そんなイルミナティ・カルトのダーウィンは無神論者だ。その無神論者のダーウィンの作った進化論は、聖書を否定している。
 そんな実用的では無いからといって弱者を簡単に切り捨てる事は、間違いである。合理化、効率化によって人情澆薄、感情を失った、人間性を失った。ただお金を追求するだけの獣と言える

 実用主義の下では、目に見えるものしか重用されないのだろう。目に見えないものは、実際に使用する事が出来ず、自らの意志でコントロールする事も出来ない。神様は、目に見えない。そして、人間の意志に反して、神様自身の御心で運命を定める。
 この世での現実に偏重してしまったならば、目に見えない理想を捨ててしまったならば、良心からの共感や同情といった感情が無い、頭の理性しか持たない、冷血な、冷淡な獣となるであろう。
 聖書的価値観から言えば、唯物論と唯心論の両方を持つべきであろう。この世で生きる限り、ある程度の物やお金と付き合わざるを得ない。しかし、そんな現実の部分と共に、目に見えない唯一の神様である創造主への信仰を持ち、人格や品性、心の完全という理想を追求する事が必要だ。
 バランスが大事であろう。しかし、そのバランスも、やはり、唯心論の方が大きい割合であった方が良かろう。昔からの修行者達も、俗世間から離れて、その物質主義を遠ざけて、欲の浅い、質素な生活を送る中で、精神性を高めた。

 ところで、この引いた記事のタイトルが「顔で判断」となっている。

 
 



 旧約聖書・イザヤ書52章13~15節、53章1~12節
  見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
  多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――
  そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
  …(中略)…
  ……彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
  まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
  私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
  彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
  しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。……(後略)

 The Old Testament・The Book of Isaiah 52:13~15、53:1~12
  Behold, my servant will deal wisely. He will be exalted and lifted up, and will be very high.
  Just as many were astonished at you— his appearance was marred more than any man, and his form more than the sons of men—
  so he will cleanse many nations. Kings will shut their mouths at him; for they will see that which had not been told them, and they will understand that which they had not heard.
  …(中略)…
  …… He has no good looks or majesty. When we see him, there is no beauty that we should desire him.
  He was despised and rejected by men, a man of suffering and acquainted with disease. He was despised as one from whom men hide their face; and we didn’t respect him.
  Surely he has borne our sickness and carried our suffering; yet we considered him plagued, struck by God, and afflicted.
  But he was pierced for our transgressions. He was crushed for our iniquities. The punishment that brought our peace was on him; and by his wounds we are healed.
  All we like sheep have gone astray. Everyone has turned to his own way; and Yahweh has laid on him the iniquity of us all.
  He was oppressed, yet when he was afflicted he didn’t open his mouth. As a lamb that is led to the slaughter, and as a sheep that before its shearers is silent, so he didn’t open his mouth.
  He was taken away by oppression and judgment. ……(後略)


 実は、この聖書の御言葉の省略していないものも、書斎のパソコンの上に掲げている。「彼」はイエス様の事であり、この預言の中で描かれているのは、イエス様が十字架上で侮辱を受けておられる姿だ。
 飽くまでも、この御言葉はイエス様の事を預言されたものであるが、僕の過去から現在に至るまでの状況と重複して見えて来る。

 僕は、今でこそ持ってはいないのであるが、過去の多感な頃、特に中学生や高校生の頃には、肌の、特に顔の色の白さにコンプレックスというべきか、欠点に感じていた事が有った。
 あの医療系のO専門学校に在学中でさえ、白髪を染めたり、ちょっと日に焼けようとしていた。またあの頃は、ファッションにも気を使う傾向が有った程だ。それ故、つい十数年前でさえ、そんな風に外見を気にしていた訳だ。
 尤も、外見を気にする程度の違いが問題になるという事になるのだろうが、そんなレベルをどの様に線引きして可否を決めるのであろうか?

 それはともかく、僕は中学時代から既に、若白髪が生えていた。それを黒く染める事については、余り問題とはされないだろう。
 それでは、顔を黒く染めるのは如何であろうか?

 一時期、ギャルや女子高生の間で、「ガングロ」が流行った。そこまではいかない、否、それと同様と言えるかもしれぬ、実は僕も、その顔の白さをカバーする為に、日焼け色の「ドーラン」を塗っていた事が有る。僕がそれを使用していたのが高校2年生の時、つまり1986年~1987年にかけての時だが、ガングロが1990年代後半~2000年代初頭にかけて流行がピークになっていたというから、僕は先駆けであったのだろうか?

 中学2年の終わり頃から女子の陰口が聞こえ始め、それは中学3年の終わりまで在った。その内容というのが、顔が白い事もあって女の子みたいで気持ち悪いとか、オカマの様だとかいったものだ。しかし当時、男子からはそんな陰口が全く無かったのだ。
 小学生時代は勿論、中学2年の2学期頃までも、そんな事は全く無かった。それが突然、呪いが掛けられたかの様にして、そんな陰口を言われる程に、女子の一部から嫌われだしたのだ。確かに、教室内では余りものを言わなかった事も影響していたであろう。ただ、部活動ではそんな事は無かったのであるが。
 兵庫県K市の市立U中学生の時は、目立つ方で有ったのではないだろうか。身長も高い方であったし、陸上競技で数回、全校生徒の前で表彰されたりもしたからだ(と言っても、区内や市内のロードレースでの入賞とか最後は駅伝の県大会出場とそんなレベルでしかなかったのであるが)。また、校内のマラソンや一学年みんなが見ている前での長距離記録会等も含めて、そんな部活動でのそこそこの活躍で目立っていたせいもあってか、男子生徒からは一切、陰口すら無かったのだ。
 同市の県立K高校に進学直後は、やはりその顔のせいもあって、また、クラスの雰囲気がもう一つ馴染みにくい事もあって、孤立気味であった。それでも、自分から進んで陸上部の朝の練習に出たりしていたのだが、毎年恒例の気温の高さによる血圧低下でトラック・シーズンの調子の悪さが重なり、且つ、そんなタイミングでテレビで野球をモチーフにしたマンガ「タッチ」が放映される様になり、結局、そのマンガに影響されてしまって、陸上部を辞めた。
 その直後の夏休み中には、高校野球が行われている甲子園でかち割り等の売り子のアルバイトを行った。そして夏休み明けだったか、何と野球部に入ったのであった。稼いだお金で、グローブや練習用ユニホーム、スパイク、かばんを自分で買った。
 しかし、中学時代から遅刻をする事が多かったのだが、野球部の早朝練習にもちょくちょく遅れる事が有り、それで同級生の部員から責められる事は有った。大分、後から入っておいて、しかも下手くそ、更にあんまりものも言わへんし、そしてしょっちゅう遅刻するとなれば、「何しに入って来たんや?」てなもんで、確かにただ迷惑を掛けるだけだと捉えられてもおかしくなかったであろう。
 それでも、2学期の期末テスト前は1週間部活が休みという事もあって、ナンボか点数が良かったり、その、シーズンオフの時の練習での長距離走ではいつもダントツで、1,2年生合同のマラソン大会では、上位を陸上部員が占める中で、僕は他の部員の中ではトップとなる入賞を果たした。それも、全校生徒の前で表彰を受けた。そんな成績に繋がる頑張った姿から、見直される様になっていき、普通に上手く過ごせる感じであった。
 そして、2年生に上がる前か後だったか、コーチによって、そんな風に長距離走に秀でて持久力があるとか、下半身が出来ているとか、スタイルが向いているとかの理由で、何とピッチャーをやらされだしたのだ。そして、その年の高野連かの登録名簿にも、僕は投手で登録されたと言っていた。
 しかし、僕は野球は下手くそであった。だから、そんな事が却ってプレッシャーになっていたかもしれないが、それは振り返って定かでは無い。それはともかく、前の年の秋頃以来、遅刻をしていなかったのだが、2年の1学期の時に、久しぶりに朝練に遅刻をしてしまった。それで、もうしんどい気持ちになり、「もう辞めよう」となった。
 辞める事を野球部の監督である先生に伝えた。すると、昼休みが終わって教室に戻ったところ、何と、黒板にいっぱい落書きというべきか、ナンジャらカンジャらと一杯書いてあったのだ!。
 「***辞めるな!」とかナンジャらカンジャラと、黒板いっぱいに書いてくれていた。実は、その野球部の監督を務めていた先生は、女子のソフトボールの監督も兼任していた。それ故、マラソン大会が終わった後なんかに野球部とソフトボール部の合同でカラオケ大会をした事も有った。よって、その先生の指示も有ってだろうが、女子のソフトボール部員達が書いてくれた様だった。
 O専門学校の在学中や少しの病院勤務でも有った事だが、もっと前の、高校生の時から、そんな風に、僕は母性本能をくすぐるタイプであったのかもしれない。
 高校2年生時、僕は前期が体育委員、後期は図書委員であって、どちらも投票で選ばれて、自分から立候補した訳では無い。また、僕が野球部を辞めた後、僕を追う様に同級生の野球部員が2人辞め、その内の一人が同じクラスのもんやった。その彼も、僕と同様に、中学生時は陸上部で長距離をやっていたという。またそれどころか、同じく、同じクラスの男子の剣道部員が一人辞め、その他、女子の2人も同様に僕の真似をして辞めたのだ。一人はテニス部、もう一人は剣道部であった。
 野球部の時は日にも焼けて、それだけ女子の目にも良く映っていたのだろう。しかし、夏休み明けに登校した時、女子の目には化けの皮が剥がれたと目に映ったのかもしれない。
 その高校2年の2学期、ふとした事で、薬局で見つけたのだ。そう、先述した「ドーラン」だ。本当に偶々というべきか、神様の思し召しというべきか……。
 それで、その後はドーランを塗って何とか誤魔化す様な感じで、陰口等とか気になる事が全く無く、普通に登校し、普通に一応の友達なんかと昼休みなんかには野球をするなどをして過ごしたものであった。
 そして、運命の時が近付く。年が明けて2年の3学期、スキーをする為の修学旅行で長野県の志賀高原まで行ったのだが、ここでドーランを塗っていた事がバレたのであった。そして、その修学旅行中から帰省後と、周囲の反応が変わって来た。
 それから、3年生になってからは、その風評が広まったり、手の平を返す様な裏切りとか、「あいつは嫌われとるから付き合うな」といった感じで、面白くないからちょくちょく休む様になって、それで偶像に逸れたりもし、また休む事が周囲への悪い印象を与える悪循環となって、印象や与える感情は悪化していた事であろう。
 それでもそんな中、その3年の確か1学期に行われた、学校の概ね近くに在るU大会記念陸上競技場を借りて行われた陸上競技大会であったかリレー競技大会であったか、僕は4x400mリレーの第二走者として出場したのだけれども、そんな噂が広まっているのを知ってか、励ます様に、野球部の元同僚らが声援を送ってくれた事も憶えている。
 また、2年生時の時と同様に、昼休みに野球したりはしていたし、そのメンバーから夏休みのレジャーにも誘ってくれた事も有った。そのメンバーには、僕と同様に元野球部のもんもおった。しかし、僕はそんな誘いを断り、1年生の時と同様に、再び甲子園でのかち割りや缶ビールの売り子とお好み焼きややきそばの出前もするアルバイトをした。そして、遅刻をしながらも売上3位になったので、賞品として時計をもらった。
 その頃の僕は、世間知らずは勿論の事やけど、ホンマにおぼこいものやった。今でこそ、へんこ、頑固な性格やけど、その頃はまだまだ、自分の素質が開花していなかった。そやから、喧嘩する事も殆ど無かったし、そういう事に対し一歩踏み出す事も無かった。それでも、その3年の2学期、喧嘩した事は有る。それまで、そいつが「あいつは嫌われとるから付き合うな」という様な、中心的、根本的な、支持する様な奴やった。当時、既に「根本原因を叩く」という事が開花しつつあったのか?
 ほんなら、進学を考えとるもんらが、めちゃめちゃにされるとかを感じてビビっとった感じが有ったり、その喧嘩した相手とつるんどるメンバーが挑発に来たりとゆうことは有ったはなぁ。
 教員室に何回か呼ばれた事が有る。ちゃんと卒業さえしたらうちの学校からやったらエエとこに就職100%やとか、同じ中学出身のもんを同時に呼んで「**大学に推薦で合格した」というのをわざと聞かせたり、また、僕と同様の状況なのか或る女子を同時に呼んでやる気を起こそうとしたのだろうか、そんな事が有った。翌年の卒業する予定である、3年生の終わりの1988年2月は、1989年の東京株式市場の大納会での平均株価が史上最高値をつけるに向けた、正にバブル真っ盛りの時である。
 しかし結局、その3年生の終わりまで在籍したものの、出席日数が少しだけ足りず、卒業する事が出来なかった。在籍したK高校は、単位制だ。職員会議でも卒業可否の挙手で半々に分かれたそうだが、否の結果であった。
 その3年生の時は、学校をちょくちょく休んだり、ちょくちょく遅刻したりであったものの、春頃には朝に新聞配達のアルバイト、また3学期が終わった頃で卒業式まで余裕が有った時だったか、朝刊だけでは無く夕刊も配達するバイトをした。そうすると、朝は就寝中なので目立たないものの、夕方のバイトでは学校の外にも広まっていた噂やレッテルが影響して、エイズとか、そんな雑音が聞こえる事も有った。
 そうして、その職員会議で僕を卒業させないという結果が出る前に、家での或る言葉をきっかけに、僕がそんな外で溜めて来たストレスが一気に爆発する様にして切れてしまい、荒れた事が1回だけ有った。その時は、仕事から帰って来た親父が警察を呼んだが、親父が結局止めて連れて行かれなかった。
 その後、僕は学校を放ったままにして、社会に出る事となった。最初に見習いで就いた電気工事士の仕事は、数ヶ月で辞めた。その期間中に暫く休む事が有り、親父がそれを咎めて叱る行為を僕に働いた事が有って、その時にちょっとバトルは有ったが、前述分と併せて全部でそれだけである。その他に、兄弟喧嘩は少し遭ったが。 
 その後、母の弟が独立してやっている歯科技工士の仕事のアルバイトをしたり、福井県の美浜原発で非破壊検査の仕事とか、19歳の秋には兵庫県のK市にアパートを借りて一人住み、年が明けて京都府に引っ越して、当地の町工場の鉄工所に就いたものの、20歳になる前後であったか、実家に戻り、暫く引きこもる事となった。
 その20歳の秋に、行く先も伝えずボストンバックを両手に抱え、こっそり家出した。最初の愛知県を皮切りに、その後、同県内の中村区、群馬県、長野県、神奈川県と渡り歩き、20歳の正月はその神奈川県で過ごした。丁度、弟が高校を卒業する直前であり、妹も小学校を卒業する直前の時であった為に、現金書留で祝い金を贈った。
 渡り歩く途中、次の行く先も決めず、行き当たりばったり的に、ビジネスホテルや駅で寝泊まりする事も有り、途中、東京の住み込みの所にも一旦入った事も有る。
 そして、次の同じ神奈川県内に在る大手のN自動車の期間工の予定が決まった後、派遣先の会社内で同僚とのトラブルが有った事で辞めて、その就業予定までのつなぎとして、東京都蒲田区で住み込みが出来る引っ越しのアルバイトをやった。そこは、1回、その日に別の会社のもんと一緒にするチーム内でのトラブルが有った後に、その住み込みしていた家で会社の同僚と共にバーバキューというか夕食を開いてくれたり、夕飯を食べに行っていた食堂の様な店もエエとこやったし、短期間ではあったけども、良かった。
 そして、そのN自動車の期間工は3ヶ月の期間満了で辞めた。期間延長の話を持ちかけて来てくれたが、単純作業は苦手なので断った。それでも、たった3ヶ月やっただけでも期間満了手当なるものも有って、会社が寮として借りていたアパートに4人部屋として住みながら、そこそこお金を貯める事が出来た。
 その後、もう暫く家出していようと思っていたので、宮城県の仙台市に行った。しかし、アルバイト情報を見ても愛知県や関東地方と違い、住み込み付きや寮付きの仕事が載っておらず、それで北海道まで行った。その北海道でアパートを借りようと思ったが、保証人が必要だと言われ、それで仕方なく、それまでに構想していた、親父に鉄工所の溶接なんかを教えてもらう事を頼むべく、いっそ、もう帰ろうかと素直に思う事になって、実家に「帰ってもエエか?」と電話を掛けた後に、戻ったのであった。電話に出たのは、母であった。
 帰省後、親父に「将来、鉄工所の商売をしたいから仕事(溶接)を教えて欲しい」と頼んだ。それは、21歳になる直前の時であった。そして、当時、親父が請負として勤めていた兵庫県K市に在る、周囲に田んぼが広がる町工場に、3日程、付いていった。
 当時、親父は正社員としてのタクシー運転手と並行して、請負でガス溶接等をする鉄工職人として、そのNCやマシニングセンターをメインとする鉄工所に入っていた。タクシーの方は、1日置きに朝から翌日の未明まで車を走らせるので、その1日置きに空いている日に鉄工の方をやる訳だから、鉄工は確か、昼から夕方までの仕事であった様に思う。
 結局、取り敢えず先にお金を貯めろという事で、再び神奈川県に在る別の大手のI自動車の期間工に行く事となった。同じ様に4人部屋の会社の寮に住みながら、丸1年間の期間満了で退職した。期間満了手当の他、退職慰労金も有り、そんなボーナスも有って、たった1年間で数百万円が貯まった。それは、株とかのマネーゲームで稼いだものでは無く、その間、殆ど遊んだりする事も無く、同時に家に仕送り等もする事が無かったのだが、純粋に働いて得た給料を貯めただけの結果だ。
 そして晴れて帰省し、職安で再就職手当の支給を受ける為の手続きをすると同時に、鉄工所の就職先を探した。親父がそういう感じで働いていた事もあって、「他所(よそ)で飯を食え」という事になったからだ。
 そして、1991年(平成3年)6月24日、その後に続く鉄工所での製缶工としての見習いがスタートした。その時、僕は22歳となっていた。
 見習いに入った頃から鉄工、製缶工の仕事に関するノートをつけて来たが、その1番目の表紙には「独立自尊」と書かれている。その言葉が、僕の座右の銘というか、心構え、覚悟にする言葉というか、とにかく僕の芯、軸となった言葉であり続けた。ただ、当時やその後、クリスチャンとしての信仰は、殆ど薄く遠ざかっていた。

 ざっと振り返って、以上の様になる。中学1年生の時から鉄工所に見習いに入る時まで、13歳~22歳までの9年間の大方を書いた。これには全く嘘は無く、正直に暴露して書いた。僕は、その頃とは違い、今では見栄や体裁を繕う事はしない。例えば、今までも自分から「高校中退」だとわざと言って来たし、今回の医療関係への応募にも「出来ません」、「能力が有りません」と正直に伝えた。

 また、僕はいつも鉄工所に就職する為の面接の時には、「溶接は下手です」と言う。それで採用されて実際、溶接が出来なかっても全く問題ないが、「出来ます、出来ます」と言って何とか採用されたとしても、入ってからがしんどい事になるし、話が違うという事でクビになるのが落ちである。……

 <11/12に続く→>

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