狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

何故プライバシーを隠したいのに明かされるの?どなたが為さっている事?/Why is privacy revealed though want to hide it? Who is doing it?

2021-10-23 23:30:00 | エッセイ・コラム
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/10/24 00:53>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 ※ 本記事において幾つかの文献と画像を引用する事によって構成しておりますが、本記事により当方は収入を一切受け取っておりません。
 ※ I have made composition by borrowing some references and pictures in this article, but I don't receive the income at all by this article.




 何故プライバシーを隠したいのに明かされてしまうのか?そして、どなたが為さっている事なのか?
  ただの小さな人間でしかない僕が、何故、不思議なものを持っているのか?
 Why is my privacy revealed though I want to hide it? And who is doing its thing?
  Why do I who am no more than a small human being have some wonders?




 出典:2019/08/07付・大紀元Epoch Times Japan『公共トイレでこの「フック」を見かけたら、触れずに警察を呼ぼう』

 上の画像の様なネジやフックが、実は小型カメラである可能性が有るという。インターネットで簡単に手に入れる事が出来るといい、公共トイレのドアノブの内部等に組み込まれているという。

 そんな小型カメラが自宅や勤める会社に仕掛けられているが為に、日々、監視されているのならば解る。

 しかし、もし、そんなカメラが仕掛けられていないにも関わらずそういう事が起きているのならば、どの様に説明すべきであろうか?

 そして、そんなプライバシーが暴かれる事により、それを基にストーカーされる事に繋がる。ストーカーを遠避ける為には、プライバシーの保護が大事だ。

 本ブログ
  2019/11/23付『見知らぬ輩共「ずっと見ていたよ」・・・追い詰める恐怖のストーカー/"We were peeping you all the while", terror stalkers who corner』


 今年の5月~7月、僕は本ブログ記事の投稿を滞らしてしまっていた。しかし、何もその間、仕事等に流されるままに、何も考えずにボーッと過ごしていた訳では無かった。

 社会、世間に出ると、とかく純粋な気持ち、信仰心が揺らがされる様な挑発や誘惑、唆し等が襲って来る。

 しかし、そうした事は、今一度、考えたり、振り返り点検する事のきっかけにもなる。それぞれの試練は、その都度、神様の思し召し、許しの中で提供されているのかもしれない。

 随想であるエッセーでもあり、且つ、事実を述べてもいるこの記事は、その7月中旬に僕の思想の中に浮かんでいた事だ。

 僕も勿論、正直に言うと、一般の人達と同様に、プライバシーを暴かれたくないし、ストーカーを受けたくもない。

 また、日々、僕は、見られたくないから、昼間でもカーテンを閉めている。

 更に、僕は目立ちたくないから、明かりを小さくしている。

 それなのに、僕が部屋の中でパフォーマンスをしていると、勘違いしている人々が居る。

 もし、僕自らがパフォーマンスをしたいと思っているのであれば、それを見せびらかしたいと思っているのならば、カーテンを閉める事も無いし、明かりも明々と照らすであろうし、窓も解放する程にしている事であろう。

 要するに、僕の意に反して、そんなプライバシーが曝け出される事が起きているのだ。

 そしてつまり、僕が自分でそんなプライバシーを曝け出している訳では無いという事も理解出来よう。

 しかし、世間の多くは鈍感なので、やはり理解出来ず、勘違いばかりしているのだろうか。

   何故、そんな摩訶不思議な事が今現在、現実に起こっているのか?

   僕は幽霊であろうか? 

   あなた方の目に映ったり耳にしている事は空想・ファンタジーであろうか?

 
 



 新約聖書・マタイの福音書14章25~26節
  すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
  弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 14:25~26
  In the fourth watch of the night, Jesus came to them, walking on the sea.
  When the disciples saw him walking on the sea, they were troubled, saying, “It’s a ghost!” and they cried out for fear.


 「幽霊」とは、「死の天使」であるという。イエス様は、勿論それでは無く、神様であり、聖霊様であり、そして創造主である。

 ここで、聖書からこういう御言葉を引くと、読者の中には、僕が恰も神様であるとか救世主、預言者である事を匂わしていると勘違いする人が居るのではないかと思う。

 しかし、僕はただの人間であり、それも失敗ばかりで鈍臭い人間であり、地位も名誉も品も無い、罪も犯して来た人間だ。

 そうすると、僕が幽霊に見えるという事は、僕は「死の天使」に相当するのであろうか?

 しかし、僕はクリスチャンである。しかも、発達途上ではあるものの、多くの試練が課される事によって成長を続けているクリスチャンだ。

 
 



 新約聖書・コロサイ人への手紙3章9~12節
  互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
  新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
  そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
   それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Colossians 3:9~12
  Don’t lie to one another, seeing that you have put off the old man with his doings,
  and have put on the new man, who is being renewed in knowledge after the image of his Creator,
  where there can’t be Greek and Jew, circumcision and uncircumcision, barbarian, Scythian, bondservant, or free person; but Christ is all, and in all.
   Put on therefore, as God’s chosen ones, holy and beloved, a heart of compassion, kindness, lowliness, humility, and perseverance;


 僕に限らずクリスチャンは皆、信仰が深まれば深まる程、この御言葉に相当する。クリスチャンは成長するに従い、創造主であるイエス・キリストに似ていくと共に、イエス様を手本としながら生きていく。

 無神論者達が見えないものを信じないと言うが、世間の多くの方々は目にしているものさえも現実として認めない。

 それは正に、臭いものに蓋をする様な事だ。

 それは、頭の中が空想、ファンタジーで一杯だから、現実に起こっている事を見ても受け入れる事が出来ないからだ。

 また、自分の希望で物事を見て捉えているせいで、嫌な事、都合の悪い事を無視したり、敬遠し、蓋をしてしまうからだ。

 世間の多くは、不思議なものを目にしても笑うだけで、「何故、あの人からあんな摩訶不思議な現象が起こっているのか?」と、それについて疑問も抱かず、考えず、そして質問もしない。

   僕はいつも、カメラを持ち歩いてはいない。 
    ・・・企業秘密、目、鬱陶しい、恥ずかしい、見られてイライラする、お腹痛い、怖い……

   僕はいつも、メガホンを持ち歩いてはいない。 
    ・・・テレパシー、腹話術、超音波、近所に留まらず日本全国・アメリカ・世界にも……

   僕はいつも、部屋のカーテンを閉め明かりも小さくして出来るだけプライバシーを守る様に努めて来た。
    ・・・銀行のATMでのパスワード入力、ネット・ショッピングでのログイン、トイレでの大便、入浴……

 要するに、僕自身の能力によってそれらを行っていないという事が理解出来ないのだろうか?

 僕はただの人間であるので、超能力を持っていないし、大した能力も持っていない。

 もし僕が超能力を持っているのならば、またその力を僕が使う事が出来るのであれば、今までの多くの失敗をするはずが無かったし、またそれらを帳消しに出来るであろうし、秘密にしたい事、プライバシーも隠す事が出来るはずだ。

 さて、どなたが、僕の身を通して、そんな不思議な事を行っているのであろうか?

 この答えを悟る事によって、世の無神論者達、科学至上主義者達、人間至上主義者達の論拠は崩壊へ向かうであろう。

 新約聖書に書かれている事の一例として、人間マリアが処女にしてイエス様を産んだ事が挙げられる。

 その事は歴史的事実であるが、マリアは決して超能力を持っていなかった。

 その答えはこうだ。唯一の絶対神である創造主がマリアの身体を用いられて、主の全知全能の力によって、成し遂げられた出来事である。

 
 



 新約聖書・ルカの福音書1章26~38節(The New Testament・The Gospel of Luke 1:26~38)より
    御使いガブリエル
     「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
      (“Rejoice, you highly favored one! The Lord is with you. Blessed are you among women!”)
     「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。……」
      (”Don’t be afraid, Mary, for you have found favor with God. ……”)
     「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。…… 神にとって不可能なことは一つもありません。」
      (”The Holy Spirit will come on you, and the power of the Most High will overshadow you. …… For nothing spoken by God is impossible.”)

    マリヤ
     「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 
      (”Behold, the servant of the Lord; let it be done to me according to your word.”)


 マリアは、神様の御心、御計画である運命、宿命、使命を素直に受け入れた。

 それは、「神の子」を自分の胎内に宿し、そして産み育てるという、大きなプレッシャーが掛かったにも関わらずにである。

 マリアは、決してその様な境遇から逃げる事無く、不平や不満を言わず、自分の希望や欲望を捨てて、全き心を持って神様に従ったのであった。

 僕はその点、マリアさんとは違い、こうしてプライバシーが侵害される事が嫌だとか不平不満を述べている。それは、旧約聖書の「ヨブ記」に登場するヨブと同様だ。

 この世で生きている間は、どうしても信仰に純粋であればある程、そこに突け込んで来る悪に邪魔をされたり煩わされたりしがちだ。

 そうした中、この世を渡る処世術的なものとして一般的には、世間に忖度してしまったり、自分の力で解決しようとして怒りを発する事もあろう。

 僕もクリスチャンとして成長途上に在る中で、そんな世間一般と然程変わらない低レベルに合わせてしまう「失敗」に陥ってしまう事が時々有る。そしてその都度、僕は自己嫌悪を感じ、内省して来たのである。

  
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一15章10節
  ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 15:10
  But by the grace of God I am what I am. His grace which was given to me was not futile, but I worked more than all of them; yet not I, but the grace of God which was with me.

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙8章28節
  神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 The Epistle to the Romans 8:28
  We know that all things work together for good for those who love God, for those who are called according to his purpose.


 本ブログ過去の関連記事
  2018/03/19付「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God」
  2019/01/31付『My Testimony/僕の証<5-1/2>:僕はボロボロ……イザヤの預言、人間マリアの処女懐胎を通したキリストの御降誕と侮辱を負われた「イエス様の御姿」& 迫害の中の信仰で「キリストの似姿」を得る』
  2019/01/31付『My Testimony/僕の証<5-2/2>:僕はボロボロ……Isaiah 52:13~53:12、侮辱を負われた「イエス様の御姿」と迫害の中での信仰により「キリストの似姿」に変えられる事を想う』
  2019/02/01付『My Testimony/僕の証<6>:キリストと直接繋がる安定、なぜ僕は不思議なのか?/Connection with Christ make stability, Why am I wonder?』

  2019/01/30付「My Testimony & Witness/僕の証 2018・・・まとめ<1> ~ <10> + Postscript」 ・・・または本ページ右サイドの「ブックマーク」
  2021/09/11付「僕52歳の求職活動からの連想 2021-まとめ/Age of 52 my associations from job hunting」 ・・・または本ページ右サイドの「ブックマーク」

 引用聖書
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)


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