AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

「〜せずにはいられない!」に従ってみると

2018年11月02日 | 自分を変える、どう変える
(facebookから)


今日は物凄い勢いで投稿しまくって、
「浮気」の話から「真の動機を探る」だとか
「動機は愛なのか」とかって随分と偉そうなことを書き、
編集者がいたなら「全て修正される」ような稚拙な文章を垂れ流し、
それでも読んでくださる方、
フィードバックしてくださる方がいらして、
そこでまた嬉しくなっちゃって、
いい気になって、また投稿する、という、

「今日の私ったら、一体、どうしちゃったのかしら?
(プリンセスが鏡を見ながら、頬に手を当てて首をかしげている様子)」
というくらい「止まらない」のである。

そして、(あんだけ書いたので、ここは一応)自分に問う。

「この自分の思考をfacebookに垂れ流している動機は、愛か」。

「愛・・・」
「ではないのか・・・?」



本末転倒の危機。
私のfacebook生命存続の危機。

がしかし、そんなことだったら、
この新たな投稿というリスクは背負わない。
リスキーでありながら、そこに果敢に立ち向かう・・・「愛」。


告白しよう、
今日の超長編投稿を連発している理由はズバリ、

「衝動」である。


「衝動」というと、
立ち止まって思案することなく買ってしまう「衝動買い」というのがある。
あれは、どうもあまり良い意味で使われていないようだ。
人間「立ち止まって思案する」ということが賢い、とされているようだ。

それは、その先のリスク、はたまた地球滅亡の回避につながるかもしれないし、
「衝動買い」で言うならば、そこで立ち止まってよく思案することによって、
お金の無駄遣い、家計危機の回避につながるかもしれないということであろう。


しかし、ここで思うのは、
「衝動」と「衝動的」というのは別物ではないかということだ。
多分、思うに「衝動買い」というのは「衝動的にモノを買う」行為であって、

行為そのものは「己れの内から湧き出る衝動」

とは違うのではないかと。

アーティストを例えに出してみよう。

何かを描かずにはいられない。
曲を書かずにはいられない。
小説を書かずにはいられない。

その「〜せずにはいられない」というのが「衝動」なのではないかと思う。
何やらアイデアが「降りてきて」、
形にせずには「いられない」という衝動。


「降りてくる」に関して言えば、
ミュージシャン「あるある」で私もやったことがあるが、
お風呂に入っている時に、
急にメロディーとか歌詞とかが浮かんできて、
びちゃびちゃのままお風呂を飛び出し、
大急ぎで書き留めるという、アレだ。


今日の「一体どうしちゃったのかしら?」という私の投稿の連発は、
まさしくその「衝動」である。
「みんなと私の愛を分かち合いたい」だとか
「この私の崇高な考えを誰かに届けて、役に立たせて欲しい」とかいう
「美しくも図々しい動機」など全くなく、
なんだか知らないが内から湧き上がることを書かずにはいられず、
個人的な日記帳に書くのでではなくfacebookに投稿したのは、
「どうしてか分からないけど、誰かに読んでほしい」という強い思いがあったからだ。


「衝動」というのは、一体どこからやってくるかは分からないのだが、
「直観に突き動かされる」感じだと思う。
直観というのは「思考」が入る隙間がない。
ズドーンと直接入ってくる。
そこにグダグダ思考でもって
「考えたり」「疑ったり」を入れると、
元々の直観やアイデアが色あせ、消えてなくなる。


さて、自分の「衝動(直観)」に従うか。
「賢い思考」に従うか。大きな分かれ道である。


私は「衝動」というのは「直観の強い形」だと考えていて、
ある時何気なく来る「あ!」という直観に比べて、
「今すぐ従え」というような「〜せずにはいられない」感覚を与えるものだ。


「自分が何をしたいのか」分からない時、
「夢中になれるものが見つからない時」、
何かの衝動が起きる時に、そこに大きなヒントがある。

ヒントと言ったのは、
必ずしも「〜せずにはいられない」の「〜」の部分とは限らないからだ。

例えば、急にものすごく旅に出たくなった。
「衝動」だ。
だからと言って、「自分は一生旅をして生きたいのだ」とは限らない。
行きたい「国」にヒントがあるのかもしれない。
もしくはそこで出会う何か、誰か、がヒントを持っているかもしれない。

でも、それらは、確実に自分の中の「秘められた情熱」と繋がっている。


「衝動」は頼んだわけもないし、
探したわけでもないし、
考えていたわけでもないのに、
急にやってくる。

それって、とても不思議なことではないだろうか。

自分はノンタッチにもかかわらず、
どこからかの物凄い力でもって
「突き進め」と言わんばかりに自分を押し出そうとする。


さて、あなたは「衝動」を無視するか。
「思考」でもってそれを抑え切るか。


それが「衝動的」なのか「衝動」なのかは
、激しい感情の動きが「あるか」「ないか」だ。

「衝動的」というのはある意味「感情の勢い」のようなものである。
だから、その結果によっては大きな後悔をすることもある。

一方、直観が源である「衝動」は、
そもそも激しい感情があるときには、
降りて「こられないのだ」。
ボーッとしている時にこそ、突然「閃く」というのはそういうことだ。

そこには「ブレない何か」がある。


今日の私は、自分の「衝動」に従って、
とにかく「溢れ出るものを書く」ことを選択をしたわけだが、
その源にある情熱が何かというのは、実は今の時点でははっきり分からない。
もしかしたら、「今日だけ」必要だった情熱かもしれないし、
あとあと何かにつながるものがヒントとしてあるかもしれない。


ここで、最初の
「今日の投稿の連発の動機は愛か」ということに戻る(忘れてないよ)。


結論としては「愛」だ!


自分が「〜せずにはいられない」という
情熱と直結した思いに、
答えてあげたということで、
自分への愛ということにする。

衝動に従った結果が、例え大きなものでなくても、
私は自分を大切にしてあげられたのである。
そのおかげで、
「長くても、稚拙な文章でも、読んでくださった人たち」がいて、
おまけにフィードバックまで授かり、
こんな幸せなことはない。


みなさん、
何か「〜せずにはいられない衝動」を感じた時、
一度、その感覚を大切にしてみたください。
可能ならば従ってみて、
それがなんのか突き止めてみてください。

きっと、そこには必ず宝物のありかが書かれた地図があるように思うのです。

今日は存分に書かせていただきました。
私、みなさん、ありがとう。
さて、明日から勉強に戻ります。
燃えよ、亜由子!



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