先に、お友達がお付き合いしていた人とお別れをした、
というお話から「愛情表現」などについて書かせていただいた。
「誰かを好きになる」というのは、なんとも不思議だなあと思う。
(男性は)35億もいるというのに「なぜ、その人なのか」。
動物的本能だとか、ケミカル的な検証をするとなると
切りがないないのだけれど、
それでも、私は「不思議だなあ」と思う。
「なぜ、その人なのか」。
「そうなんだから、しょうがない」。
後付けで「こうだから、ああだから」と言えるけれど、
「こうだから、ああだから」という同じ要素を持っている人はいくらでもいる。
恋愛で起きる「スパーク」とか「喜び」というのは、
どう頑張っても他に「代替」が見つからない。
だからこそ、いつも恋は「大事件」である。
恋愛はさっさと成就すれば「喜びの絶頂」を体験できるが、
成就が難儀な(に見える」ものは「苦しみの絶頂」となる。
楽しみにしていた焼肉屋さんが「まさかのお休み」でも、
そこまでの苦しみの絶頂にはなるまい。
成就したカップルは、
さっさと二人で宇宙の果てまで飛んでけって感じだが、
そうでない恋愛は、まさに
「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」という、
修行・苦行のオンパレードが待ち受けている。
「どうすんの?やめるの?やめないの?」というのを常に突きつけられ、
イメージとしては、
砂漠を彷徨いながら、
あるかもわからないオアシスを、
「あるんだ!」と自分に言い聞かせながら、
でも「現在」においては明らかに砂しか見えず、
夜になったら星々を見つめながら涙を流し、
翌朝になれば、
変わらず自分は砂漠の中にいるという現実を突きつけられ、
でも、なんとかオアシスを見つけるがために歩き続け、
時折ささやかな植物なんか見つけちゃうもんだから
「こ、これは、オアシスが近くにあるというサインだ!」
とかって急に希望に満ちちゃったりする・・・
これが「恋の苦行」である。
しかし、その砂漠には面白い仕掛けがあって、
なんと、いつでもやめてもいいように
「どこでもドア」があるのである!
がしかし、逆にその「とこでもドア」があるために、
「悩む」のである。
つまり、「やめるも、やめないもあなた次第」という、
神様からの冷徹極まる「自由意志」というギフト、
その行使権100%を授かっているということだ。
「う〜〜〜、どこでもドアを開けるか、開けないか・・・
でも、植物があった、あったけど、あったからあ〜〜〜」と、
女性の場合は、「神さまが何にも教えてくれないなら、占いだ!」となるわけである。
それは、どこでもドアを
「まだ開けなくてもいい理由」探しである。
とまあ、恋の苦行もこうやって書けば、
なんとも滑稽で面白いものだが、
当の本人にとっては
「To be or not to be」にもなりかねないのが恋愛である。
「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」と書いたのは、
難儀な恋愛というのは、得てして自信をなくすものだからだ。
そうすると相手に愛してもらうために、
「私らしい私」「本来の私」を手放して、
「彼に愛される私」を創り、演じるようになるからだ。
「本来の私」を手放すわけだから「本来の私の道」からも外れてくる。
気づけば「マイワールド」が「○○くんの植民地」と化している。
ここが最も苦しいところだ。
それは、「マイワールドを受け渡してしまった故の苦しみ」と
「○○くんから独立して、自立国に戻ることへの恐怖」だ。
でも考えてほしい。
○○くんはそもそも、あなたを植民地にしていない。
自ら植民地になったのだ。
更に、「私らしい私ではダメだ」と判断したのは誰だ?
自国の統治権を別の誰かに譲った、
その動機は果たして「愛」か?
昨日の話から言えば、
その動機は「自分への愛の欠如」となる。
厳しく言えば、その人にどんなに「恋」をしていても、
自分への愛の欠如を
「彼でもって、なんとか埋めよう。いや、彼しかいない!」という状態なのだ。
その恋が長期戦になればなるほど、
そのようなことが起きてくる。
そして、いつしか
「しかし、一体、アタシは何のために、誰のために、こんなに頑張ってんだ」と
「そもそも恋から始まった」ことすらも忘れてしまうような事態となり、
もはや「好き」なのか「執着」なのかもわからないというカオスである。
ここで「魂」の話にすれば、
「魂」は相当不満である。
不満マックス。
最初のスパークまでは良かったものの、
その後、何にも楽しくないし、何にも嬉しくない。
おまけに統治権まで譲りやがって、愚か者!!!
そこで、もはや無視ができないくらいの
「魂の救出作戦」が決行されるのである
(これは多分、神様が行使権をもっていると思われる)。
その彼が「悪役」を担ってくれるかもしれないし、
別の「救出役」男子、女子が出てくるかもしれないし、
ありとあらゆる手段でもって「気づけ、ボケ!」体験を浴びせられるのだ。
あなたはついに降参し、「統治権奪回」を決意する。
そこからの「マイ・ワールド(自分の人生)」の展開や変化というのは、
それこそ「砂漠に雨が降ってきた」ような
「生命の息吹」が感じられる。
自分が「砂漠」と思っていた場所は実はたくさんの生命があった。
「気づかなかったのは、オイラだけ」。
そして、自分がカラカラになって探した「オアシス」は
「本当はいつもあったのではないか」
・・・つづく(みなさんで創作してください)
これは「長期戦の恋は成就しない」とかいう話ではない。
上の「つづく」の先の展開は未知なのである。
「自分を大切にする。愛し続ける。」という部分が、
多分最も顕著に試されるのが恋愛であろうと思い、ピックアップしてみた。
恋というのは「ただの、でも相当インパクトの強い」きっかけに過ぎなくて、
「そこからの道」を、自分の中で、そして相手と共に
どうやって見つけ、創っていくかという
「人間としての愛」のレッスンがいっぱいあって、
喜びの絶頂もあれば、悲しみの絶頂もある。
けれど「それだけの価値はある」・・・ものが恋だと思う。
つづく(マジか!)・・・
歌手AYUKOのページはこちら♪
というお話から「愛情表現」などについて書かせていただいた。
「誰かを好きになる」というのは、なんとも不思議だなあと思う。
(男性は)35億もいるというのに「なぜ、その人なのか」。
動物的本能だとか、ケミカル的な検証をするとなると
切りがないないのだけれど、
それでも、私は「不思議だなあ」と思う。
「なぜ、その人なのか」。
「そうなんだから、しょうがない」。
後付けで「こうだから、ああだから」と言えるけれど、
「こうだから、ああだから」という同じ要素を持っている人はいくらでもいる。
恋愛で起きる「スパーク」とか「喜び」というのは、
どう頑張っても他に「代替」が見つからない。
だからこそ、いつも恋は「大事件」である。
恋愛はさっさと成就すれば「喜びの絶頂」を体験できるが、
成就が難儀な(に見える」ものは「苦しみの絶頂」となる。
楽しみにしていた焼肉屋さんが「まさかのお休み」でも、
そこまでの苦しみの絶頂にはなるまい。
成就したカップルは、
さっさと二人で宇宙の果てまで飛んでけって感じだが、
そうでない恋愛は、まさに
「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」という、
修行・苦行のオンパレードが待ち受けている。
「どうすんの?やめるの?やめないの?」というのを常に突きつけられ、
イメージとしては、
砂漠を彷徨いながら、
あるかもわからないオアシスを、
「あるんだ!」と自分に言い聞かせながら、
でも「現在」においては明らかに砂しか見えず、
夜になったら星々を見つめながら涙を流し、
翌朝になれば、
変わらず自分は砂漠の中にいるという現実を突きつけられ、
でも、なんとかオアシスを見つけるがために歩き続け、
時折ささやかな植物なんか見つけちゃうもんだから
「こ、これは、オアシスが近くにあるというサインだ!」
とかって急に希望に満ちちゃったりする・・・
これが「恋の苦行」である。
しかし、その砂漠には面白い仕掛けがあって、
なんと、いつでもやめてもいいように
「どこでもドア」があるのである!
がしかし、逆にその「とこでもドア」があるために、
「悩む」のである。
つまり、「やめるも、やめないもあなた次第」という、
神様からの冷徹極まる「自由意志」というギフト、
その行使権100%を授かっているということだ。
「う〜〜〜、どこでもドアを開けるか、開けないか・・・
でも、植物があった、あったけど、あったからあ〜〜〜」と、
女性の場合は、「神さまが何にも教えてくれないなら、占いだ!」となるわけである。
それは、どこでもドアを
「まだ開けなくてもいい理由」探しである。
とまあ、恋の苦行もこうやって書けば、
なんとも滑稽で面白いものだが、
当の本人にとっては
「To be or not to be」にもなりかねないのが恋愛である。
「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」と書いたのは、
難儀な恋愛というのは、得てして自信をなくすものだからだ。
そうすると相手に愛してもらうために、
「私らしい私」「本来の私」を手放して、
「彼に愛される私」を創り、演じるようになるからだ。
「本来の私」を手放すわけだから「本来の私の道」からも外れてくる。
気づけば「マイワールド」が「○○くんの植民地」と化している。
ここが最も苦しいところだ。
それは、「マイワールドを受け渡してしまった故の苦しみ」と
「○○くんから独立して、自立国に戻ることへの恐怖」だ。
でも考えてほしい。
○○くんはそもそも、あなたを植民地にしていない。
自ら植民地になったのだ。
更に、「私らしい私ではダメだ」と判断したのは誰だ?
自国の統治権を別の誰かに譲った、
その動機は果たして「愛」か?
昨日の話から言えば、
その動機は「自分への愛の欠如」となる。
厳しく言えば、その人にどんなに「恋」をしていても、
自分への愛の欠如を
「彼でもって、なんとか埋めよう。いや、彼しかいない!」という状態なのだ。
その恋が長期戦になればなるほど、
そのようなことが起きてくる。
そして、いつしか
「しかし、一体、アタシは何のために、誰のために、こんなに頑張ってんだ」と
「そもそも恋から始まった」ことすらも忘れてしまうような事態となり、
もはや「好き」なのか「執着」なのかもわからないというカオスである。
ここで「魂」の話にすれば、
「魂」は相当不満である。
不満マックス。
最初のスパークまでは良かったものの、
その後、何にも楽しくないし、何にも嬉しくない。
おまけに統治権まで譲りやがって、愚か者!!!
そこで、もはや無視ができないくらいの
「魂の救出作戦」が決行されるのである
(これは多分、神様が行使権をもっていると思われる)。
その彼が「悪役」を担ってくれるかもしれないし、
別の「救出役」男子、女子が出てくるかもしれないし、
ありとあらゆる手段でもって「気づけ、ボケ!」体験を浴びせられるのだ。
あなたはついに降参し、「統治権奪回」を決意する。
そこからの「マイ・ワールド(自分の人生)」の展開や変化というのは、
それこそ「砂漠に雨が降ってきた」ような
「生命の息吹」が感じられる。
自分が「砂漠」と思っていた場所は実はたくさんの生命があった。
「気づかなかったのは、オイラだけ」。
そして、自分がカラカラになって探した「オアシス」は
「本当はいつもあったのではないか」
・・・つづく(みなさんで創作してください)
これは「長期戦の恋は成就しない」とかいう話ではない。
上の「つづく」の先の展開は未知なのである。
「自分を大切にする。愛し続ける。」という部分が、
多分最も顕著に試されるのが恋愛であろうと思い、ピックアップしてみた。
恋というのは「ただの、でも相当インパクトの強い」きっかけに過ぎなくて、
「そこからの道」を、自分の中で、そして相手と共に
どうやって見つけ、創っていくかという
「人間としての愛」のレッスンがいっぱいあって、
喜びの絶頂もあれば、悲しみの絶頂もある。
けれど「それだけの価値はある」・・・ものが恋だと思う。
つづく(マジか!)・・・
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