AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

私のバイト歴(後編)

2021年09月14日 | やんややんやの日常
私のバイト歴、
前編・後編にまでするほどのものなのか!

自叙伝。

「後編」行きます。


さて、
前回はボストンでのセレクト小物ショップでのバイトで締めました。

ボストンでの5年間の学生生活を終えて
日本に帰ってきた私ですが、
NYに行って活躍するわけでもなく、
そんな勇気もなく、自信もなく、
ボストンでの最後の一年は辛かったなあ。
逃げるようにして帰ってきた。

そんな私でしたので、
帰国してから、
逆カルチャーショックも含め、
(今思えば)うつ状態となってしまった。

これまでのことは何だったんだろう。
これからどうするんだろう。
私が生きる意味なんてあるのだろうか。

・・・くらいになってしまったのね。


「もぬけの殻」


一年くらいでしょうかね。


「死ぬにしても
せっかくだからLIVEを一度やっておこう。」

ということで、もぬけの殻になって一年後、
人生初めての「LIVE」を原宿クロコダイルでやりました。
そこから私は死ぬことを考えるのをやめたのでした。
(で、今も生きている)


で。

バイトの話!

もう年号とかよく覚えてなくてですね、
どうも「もぬけの殻」時代にもバイトを
していたようなのです。
(多分、重なっている)


④少女漫画の編集
まさかのフィールド!どうやって辿り着いたのか!?
これはですね、私のボストン時代の時の友人の
ご両親の会社だったのです。

彼女(友人)はそのままNYで
レコーディングエンジニアとして活躍。

確か彼女からメールか何かで連絡があって、
ご両親の会社でのバイトについて、
「どうでしょう?」という流れだったような。

とにかく、
私はありがたくそのオファーを受け取りました。

場所は九段下。
漫画の編集は奥様のお仕事。
ご主人はそのビルの一階で、
自然食カフェを経営していらっしました。


で、私は奥様の元で働くくことになったわけです。


何が何だか分からない世界。
もうすっかり忘れてしましましたが、
とにかく「いろいろ修正する」のです。

一つだけよく覚えているのは、
漫画のセリフあるでしょ?
あれは漫画家先生は手書きで書いてくるのです。
それを活字にして、印刷して、切って、
「あの枠(吹き出し)の中」に貼ってゆく・・・


これまで飲食店とか、
接客があるバイトをしていた私にとっては、
かなり地味〜〜な事務仕事ではありましたが、
最もエキサイティングだったことは・・・


漫画家先生の原稿を生で見られる!
話の続きを世の中よりも先に読める!



これはね、このバイトに与えられた栄誉よ、栄誉!


しかも。
私がお手伝いしていた漫画は
当時、大ヒットしていて、のちにTVアニメ化された

雑誌LaLaで連載されていた


津田雅美先生の『彼氏彼女の事情』
通称『カレカノ』よ!





これね、ご存知の方からしたら
「マジっすか!?」ってアレですからね。

その『カレカノ』、私もハマりまして、
毎回新しい原稿がやってくる度に、
感激しながら、誰よりも早く読んでいたのさ!


で、編集が済むと、
九段下の会社からチャリで
神田の白泉社さんまで原稿を届けたりしていたのでした。


友人からのお話がなければ
決してご縁がなかった世界だと思うのです。
本当に貴重な体験をさせていただきました。

奥様、ご主人、あやちゃん(友人)は
今もお元気でいらっしゃるだろうか。


⑤代官山オープンカフェ
(やっぱり飲食店が好きなのね)

漫画編集のバイトをやめて、
ライブやって死ぬのもやめて、
多分、ぼちぼち何からしらのレコーディングの仕事とか
入ってきた頃だったのでしょうか。

それでも、まだ数少ないし、
バイトしなきゃということで選んだのが、
カフェでのバイト。

当時、ちょうどオープンカフェブームの時で、
今はもうないのですが、
代官山、旧山手通り、西郷山公園の向かい側にあった
「カフェ・ド・フェシエ」というカフェ。


家からも遠くなく、
アメリカ帰り女、あるある、
私はローラーブレードで通っていました。

とにかくブームだったので、
週末はすごかったなあ!
場所もいいしねえ。


飲食店での経験はありましたので、
そこら辺は問題なく。
(そうそう、あの頃はまだ「手書き」でオーダーを受けていたのですよ)


このバイトはね、
何よりも

バイト仲間たちとの時間が本当に楽しかった!


みんな仲良くてね、
しょっちゅう週末には
代官山駅近くのビルの地下に入ってる、
今は、かのライブハウス「晴れたら空に豆まいて」になっている、
当時はすごく美味しいイタリアンのお店だったのdすが、
そこで朝4時くらいまでワイワイ飲んで、
そこから西郷山公園に移動して、
日が昇るのを待つ・・・


若さ炸裂。
とにかく楽しかった。


唯一やばかったエピソードがありまして。
ある日、女性二人組のお客さんが二階のレストランの方にやって来て、
私が担当していました。
ものすごく意地悪な人たちだったのです。ものすごく。
そして私は、それに歯向かうような態度をしたのです。
そこから修羅場でして、店長呼ばれ、謝りまくり、
「地獄」のようでした。
その後一階の厨房のところで泣いていた私に、
女たちが階段をおりてきて私を見つけ、
一人の女が

アンタ、私がヤクザの女だったらね、
どうなると思う?


という捨てゼリフを吐き、
二人は店を出ていったのでした・・・

怖かった。本当に怖かった。
あんな人が世の中にいるんだ、って思った。

その後、レストランの裏手で
友達に慰められならがら号泣しましたよ。

(ま、その後すぐに、
あの人たちは最初から無銭飲食を目的に
ああやってトラブルを起こす、
常習犯であろう、と思いましたけど)


怖いでしょ?!


でも、そんなのは今や「話のネタ」くらいで、
それよりも、仲間たちとの時間が何よりも尊かった。


みんな、どうしてるだろう。
その後、どんな道を歩んだのだろう。
今幸せでありますように。


⑥番外編
以上で私のバイト歴は終わり。
その後、レコーディングが増えて、
レッスンもやるようになり、
「歌の道」がはっきりと見えてくるようになったのでした。

さて、番外編とは。

仲間で朝まで飲んでいた代官山イタリアンレストラン。
そこに小さなステージスペースとグランドピアノがあったのです。

そこで私はなんと
「歌手なのですが、ここで歌わせていただけませんか?」と直談判。
そこから月に2回ほど、
今や私の大事な音楽パートナーである、
ピアニストの二本柳一明君と、デュオライブ武者修行を
やるようになったのです。
私にとって、ものすごく大事な経験となった、
すんごい大事な時期となったのです。

更に。
なんとそのレストランのオーナーの方は、
もともと音楽をやっていらして、
プロダクションを営んでいらした。

そこのプロデューサーさんとも知り合いになり、
当時その方が担当していらしたファンクバンドに
コーラスとして参加することに。
(これまた愉快で素敵なメンバーだった)


その作詞作曲担当であったリードボーカルの三島くんは、
その後、作詞家デビューして関ジャニに歌詞提供するようになり、
今はプロデューサーになって、
地下アイドルを彼の世界炸裂でプロデュースしていて、

もう何年も会ってなかったのですが、
2年くらい前に連絡があって

今、そのアイドルちゃんたちに、私、レッスンしてます。

それから、彼の楽曲に英詞を付けたりね。

不思議なものです。




「私のバイト歴」、
前編・後編、いかがだったでしょうか?

きっとほとんどの方は一回くらいは
バイト経験があるのではないかと。

楽しかったものもあれば、最悪だったものもあったかもしれません。


それでも、
「お金を稼ぐ」以外のものがバイトにはある気がしています。
バイトだからこそ、自分のフィールドでは
決して出会わないような人たちとの出会いや
経験があって。


「その時」だけかもしれないけれど、
今回こうやって思い出してみると、
確かに豊かな時間を過ごしていた、と思います。
(当時は本人はいっぱいいっぱいだったかもしれませんが)



皆様も、
ちょっと思い出してみてはいかがでしょうか?


「あの時の宝物」が今も生きていたりします。




『彼氏彼女の事情』大好きだったなあ!




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