AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

蓮の花がフワ〜〜〜っと開くような

2018年11月06日 | 女性であること、のあれこれ
昨日、出会ってもう15年は経つ、
私のソウルメイト(彼女も歌手)と
久しぶりにゆっくりお酒を飲みながら語らうことができた。

とにかく色々なことを語らったのだが、
その中に「歌手としてのテーマ・スタイル」みたいな話があった。
我々も長く歌ってきているので、
若かりし頃の暗中模索も終了し、
「軸」が出来上がってきた昨今である。

私は、「ベタだけど、私のテーマは愛です!」と言ったら、
「わかってる(笑)」と彼女。
でも、そこから先がとても興味深かったのだ。
さすが、彼女は私をよくわかってるし、知っている。


「でもね、愛といっても色々な形があるけど、
あゆちゃんの場合は男女の愛というか、
女性生、セクシュアリティーを大切にしているというか」と言い、そして、
「なんか、あゆちゃんって王子様に向かって歌ってるみたいなのよね」と言うではないか。


47歳にして「愛をテーマに、王子様に向かって歌う」歌手、AYUKO・・・


予想されるあなた方の失笑、苦笑は許そう。


でも、ここでまたまた興味深い過去のこととリンクしたのだ。
30代の前半、私は不思議な導きでボイス・ヒーリングの先生(私の師匠)と出会った。
一年間のヒーリングを学ぶコースに参加することになったのだが、
集まった私を含む4人の生徒は、
ズバリ、テーマ(その時の人生の課題)が「女性性」だったのだ。
どんなワークだったかは今回は割愛するとして
(もし彼女に出会ってなかったら、きっと今でも全身真っ黒な服を着ていたことだろう)、
その頃、個人的にセッションをさせてもらった時に、
(実はその頃のノートがまだあるのだが)彼女に言われたのは、


私が歌ってきた「わけ」というのは、
「たった一人の人に愛してもらうため」で、
その人は小さい頃から願う「王子様」であり、
そして「とても『男』な人」だ・・・
ということだ。


昨日友達が言ったことと、完全にリンクしている。


「で、その王子様は結局どこにいるの!?誰なの!?架空なの!?」
と鼻息荒くなるのを抑えつつ、
「今も、昔も、これからも、私は王子様に向かって歌い続けるのか」と疑問に思う。


それはさておき、「女性性・セクシュアリティー」を謳歌するというのは
私にとってとても大切なことなのだ。
でも、セクシュアリティーというのは別に
「セクシーであること」とか「sexをエンジョイする」
とかいうことに直結することではなく、
それらはセクシュアリティーが表れる「アスペクト」のうちだと思っている。

ハルちゃん(お友達)が
「あゆちゃんのテーマが、愛の中でも男女の愛」と言ったのは、
女性としてのセクシュアリティーを最も感じやすい、
花開きやすいのが「男女の愛」と、私が思っているからだろう。

蓮の花がフワ〜〜〜と開くような、
そして甘美な香りが漂ってくるような・・・
私にとって女性のセクシュアリティーのイメージはそんな
甘く優しく、美しくて、官能的なものなのだ。
(とっても素敵でうっとりしない?)

もちろん男性の存在がなくても、
女性性やそのセクシュアリティーを謳歌することはできるけれど、
男性という「対極」の存在がいるからこそ「引き出される」ものもあるように思う。
まさに「陰陽」のマジック!

そういう意味で、ハルちゃんの「直観」は合っている。

私は決してマザーテレサのような歌手にはなれない、
ならないかもしれない。
でも、先日LIVEをやって感じたことは、
ようやく意識が「自分だけ」から「自分以外の存在へ」とシフトしてきたような感覚だ。
「私、少し成長してきたかもしれない」と少し思っている今日この頃。

とは言え、「女性であることを謳歌する」という意味での
「愛のテーマ」というのは
、きっとこれからも私にとって大切なものであり続けることだと思うし、
歌を通して、皆さん(女性も男性も!)の中の
「蓮の花」がフワ〜〜っと開いてくれたらなあという思いで歌を届けていきたいと思ってる。


「で、王子様はどこなわけ!?」で締めくくる・・・っと!







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「しなかった」後悔

2018年11月05日 | 生きていると
よく「後悔のない人生を」なんて言うけれど、
その場合の後悔は、何かをしてしまった後悔よりも、
「しなかった」後悔のことを言うのかなあと私は思う。

何かをして、例え大失敗しても、自分が生きている限り、
やり直すことができるように思う。
自分さえ、もう一度立ち上がれば。
もう一度トライする、違う方向に修正する、
誰かに頭を下げる、謝る・・・
色々あると思うけれど、生きている限り、
その先のシナリオを書いてゆくことができるのだ。

けれど、「しなかった後悔」というのは、
しなかった時点で、その先のシナリオはもうないのだ。
「やってみた後の可能性」は消滅する。
「あの時」はもうない。

しなかったことが、納得ではなくて
「後悔」という形で残る場合、
本当は心の奥では、
「したかった」「わかっていた」
からなのではないかと、ふと思う。

でも色々な理由でそれをを止めてしまった。

もちろん「しない」という選択の後も、
「しなかった」バージョンの人生のシナリオは自分で書いていくことになる。
「あの時やっていれば、どんな人生になっていただろう」と想像はできるが
、やっぱり「あの時」は戻ってこない。

それでも、人は「自分を許す」という選択ができる。
しなかった自分を許してあげること。
後悔というのは、「しなかった」「やってしまった」自分を
責め続けることなのだと思う。

「あの時の自分」を許してあげること。
戻ってこない過去の自分を許してあげられたら、
過去はキラキラとその源に戻り、
そこからまた新しいシナリオを書き始められるのだと思う。




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愛の種

2018年11月04日 | 人との関わり(愛とか)
一つ前の投稿では
恋愛における「自分をそれでも、大切にし、愛し続ける」
ということについて試される
「恋の修行・苦行」なんかについて勝手なことを書きましたが。


誰かを好きになる時は、
男性なり女性なり、
その何十億分の一と出会う訳だから、
私自身はそこに何かしらの運命のようなものを感じる。
「たまたまだけど、たまたまじゃない」何かがあるようが気がする。


でも、二人の「行く末」も運命として決まっているか、
となると、私はそうは思っていない。
「現時点」から見た「可能性」
というのはあるかもしれないけれど、
「現時点」というのはどんどん変わっていくものだ。
そういう意味では、恋愛に限らず、
どんな人との関わりも、その先は正直「わからないのだ」。

「現時点」の連なりが
未来へ繋がってゆくのだと思う。
だから、人との関わりというのは、
「相手と共に」道を創る・選択していくという、クリエイティブ活動である。

誰かと出会って、
そこで惹かれ合うというのは魔法のようなもので、
そこに「小さな愛の種が一つ」ポッと現れる、
そんな想像を私はする。
でも、この種が土から芽を出し、成長し、
花を咲かせるかどうか、
またどんな花を咲かせるかは、まだ未知の世界であり、
限りない可能性だけが待っている。

それこそが誰かと愛を育むことの妙味であり、
なかなか芽が出なくとも、
なかなか花を咲かせてくれなくても、
その小さな愛の種がまだ「在る」のであれば、
それがどんなプロセスであろうとも、
どんなに時が経とうとも、物語は続くのだ。

愛の種が姿を消す時、
それは種が腐って死んでしまったからではない。
愛の種が使命を全うした時だ。

関係がどんなものであったとしても、
お別れがどんな形であったとしても、
二人の間に小さくても確かにあった愛の種は、
いつの日か、
それぞれの心の中で感謝という愛の花を咲かせる
・・・そんな風に私は思っている。





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恋の苦行・修行

2018年11月03日 | 人との関わり(愛とか)
先に、お友達がお付き合いしていた人とお別れをした、
というお話から「愛情表現」などについて書かせていただいた。


「誰かを好きになる」というのは、なんとも不思議だなあと思う。
(男性は)35億もいるというのに「なぜ、その人なのか」。
動物的本能だとか、ケミカル的な検証をするとなると
切りがないないのだけれど、
それでも、私は「不思議だなあ」と思う。

「なぜ、その人なのか」。
「そうなんだから、しょうがない」。

後付けで「こうだから、ああだから」と言えるけれど、
「こうだから、ああだから」という同じ要素を持っている人はいくらでもいる。


恋愛で起きる「スパーク」とか「喜び」というのは、
どう頑張っても他に「代替」が見つからない。
だからこそ、いつも恋は「大事件」である。


恋愛はさっさと成就すれば「喜びの絶頂」を体験できるが、
成就が難儀な(に見える」ものは「苦しみの絶頂」となる。
楽しみにしていた焼肉屋さんが「まさかのお休み」でも、
そこまでの苦しみの絶頂にはなるまい。


成就したカップルは、
さっさと二人で宇宙の果てまで飛んでけって感じだが、
そうでない恋愛は、まさに
「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」という、
修行・苦行のオンパレードが待ち受けている。

「どうすんの?やめるの?やめないの?」というのを常に突きつけられ、
イメージとしては、

砂漠を彷徨いながら、
あるかもわからないオアシスを、
「あるんだ!」と自分に言い聞かせながら、
でも「現在」においては明らかに砂しか見えず、
夜になったら星々を見つめながら涙を流し、
翌朝になれば、
変わらず自分は砂漠の中にいるという現実を突きつけられ、
でも、なんとかオアシスを見つけるがために歩き続け、
時折ささやかな植物なんか見つけちゃうもんだから
「こ、これは、オアシスが近くにあるというサインだ!」
とかって急に希望に満ちちゃったりする・・・

これが「恋の苦行」である。


しかし、その砂漠には面白い仕掛けがあって、
なんと、いつでもやめてもいいように
「どこでもドア」があるのである!
がしかし、逆にその「とこでもドア」があるために、
「悩む」のである。
つまり、「やめるも、やめないもあなた次第」という、
神様からの冷徹極まる「自由意志」というギフト、
その行使権100%を授かっているということだ。


「う〜〜〜、どこでもドアを開けるか、開けないか・・・
でも、植物があった、あったけど、あったからあ〜〜〜」と、
女性の場合は、「神さまが何にも教えてくれないなら、占いだ!」となるわけである。
それは、どこでもドアを
「まだ開けなくてもいい理由」探しである。


とまあ、恋の苦行もこうやって書けば、
なんとも滑稽で面白いものだが、
当の本人にとっては
「To be or not to be」にもなりかねないのが恋愛である。


「それでも、どれだけ、『自分』を愛せるか。」と書いたのは、
難儀な恋愛というのは、得てして自信をなくすものだからだ。
そうすると相手に愛してもらうために、
「私らしい私」「本来の私」を手放して、
「彼に愛される私」を創り、演じるようになるからだ。
「本来の私」を手放すわけだから「本来の私の道」からも外れてくる。

気づけば「マイワールド」が「○○くんの植民地」と化している。
ここが最も苦しいところだ。
それは、「マイワールドを受け渡してしまった故の苦しみ」と
「○○くんから独立して、自立国に戻ることへの恐怖」だ。


でも考えてほしい。
○○くんはそもそも、あなたを植民地にしていない。
自ら植民地になったのだ。
更に、「私らしい私ではダメだ」と判断したのは誰だ?
自国の統治権を別の誰かに譲った、

その動機は果たして「愛」か?


昨日の話から言えば、
その動機は「自分への愛の欠如」となる。
厳しく言えば、その人にどんなに「恋」をしていても、
自分への愛の欠如を
「彼でもって、なんとか埋めよう。いや、彼しかいない!」という状態なのだ。


その恋が長期戦になればなるほど、
そのようなことが起きてくる。
そして、いつしか
「しかし、一体、アタシは何のために、誰のために、こんなに頑張ってんだ」と
「そもそも恋から始まった」ことすらも忘れてしまうような事態となり、
もはや「好き」なのか「執着」なのかもわからないというカオスである。


ここで「魂」の話にすれば、
「魂」は相当不満である。

不満マックス。

最初のスパークまでは良かったものの、
その後、何にも楽しくないし、何にも嬉しくない。
おまけに統治権まで譲りやがって、愚か者!!!


そこで、もはや無視ができないくらいの
「魂の救出作戦」が決行されるのである
(これは多分、神様が行使権をもっていると思われる)。

その彼が「悪役」を担ってくれるかもしれないし、
別の「救出役」男子、女子が出てくるかもしれないし、
ありとあらゆる手段でもって「気づけ、ボケ!」体験を浴びせられるのだ。

あなたはついに降参し、「統治権奪回」を決意する。
そこからの「マイ・ワールド(自分の人生)」の展開や変化というのは、
それこそ「砂漠に雨が降ってきた」ような
「生命の息吹」が感じられる。
自分が「砂漠」と思っていた場所は実はたくさんの生命があった。

「気づかなかったのは、オイラだけ」。

そして、自分がカラカラになって探した「オアシス」は
「本当はいつもあったのではないか」
・・・つづく(みなさんで創作してください)


これは「長期戦の恋は成就しない」とかいう話ではない。
上の「つづく」の先の展開は未知なのである。
「自分を大切にする。愛し続ける。」という部分が、
多分最も顕著に試されるのが恋愛であろうと思い、ピックアップしてみた。

恋というのは「ただの、でも相当インパクトの強い」きっかけに過ぎなくて、
「そこからの道」を、自分の中で、そして相手と共に
どうやって見つけ、創っていくかという
「人間としての愛」のレッスンがいっぱいあって、
喜びの絶頂もあれば、悲しみの絶頂もある。
けれど「それだけの価値はある」・・・ものが恋だと思う。

つづく(マジか!)・・・





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「〜せずにはいられない!」に従ってみると

2018年11月02日 | 自分を変える、どう変える
(facebookから)


今日は物凄い勢いで投稿しまくって、
「浮気」の話から「真の動機を探る」だとか
「動機は愛なのか」とかって随分と偉そうなことを書き、
編集者がいたなら「全て修正される」ような稚拙な文章を垂れ流し、
それでも読んでくださる方、
フィードバックしてくださる方がいらして、
そこでまた嬉しくなっちゃって、
いい気になって、また投稿する、という、

「今日の私ったら、一体、どうしちゃったのかしら?
(プリンセスが鏡を見ながら、頬に手を当てて首をかしげている様子)」
というくらい「止まらない」のである。

そして、(あんだけ書いたので、ここは一応)自分に問う。

「この自分の思考をfacebookに垂れ流している動機は、愛か」。

「愛・・・」
「ではないのか・・・?」



本末転倒の危機。
私のfacebook生命存続の危機。

がしかし、そんなことだったら、
この新たな投稿というリスクは背負わない。
リスキーでありながら、そこに果敢に立ち向かう・・・「愛」。


告白しよう、
今日の超長編投稿を連発している理由はズバリ、

「衝動」である。


「衝動」というと、
立ち止まって思案することなく買ってしまう「衝動買い」というのがある。
あれは、どうもあまり良い意味で使われていないようだ。
人間「立ち止まって思案する」ということが賢い、とされているようだ。

それは、その先のリスク、はたまた地球滅亡の回避につながるかもしれないし、
「衝動買い」で言うならば、そこで立ち止まってよく思案することによって、
お金の無駄遣い、家計危機の回避につながるかもしれないということであろう。


しかし、ここで思うのは、
「衝動」と「衝動的」というのは別物ではないかということだ。
多分、思うに「衝動買い」というのは「衝動的にモノを買う」行為であって、

行為そのものは「己れの内から湧き出る衝動」

とは違うのではないかと。

アーティストを例えに出してみよう。

何かを描かずにはいられない。
曲を書かずにはいられない。
小説を書かずにはいられない。

その「〜せずにはいられない」というのが「衝動」なのではないかと思う。
何やらアイデアが「降りてきて」、
形にせずには「いられない」という衝動。


「降りてくる」に関して言えば、
ミュージシャン「あるある」で私もやったことがあるが、
お風呂に入っている時に、
急にメロディーとか歌詞とかが浮かんできて、
びちゃびちゃのままお風呂を飛び出し、
大急ぎで書き留めるという、アレだ。


今日の「一体どうしちゃったのかしら?」という私の投稿の連発は、
まさしくその「衝動」である。
「みんなと私の愛を分かち合いたい」だとか
「この私の崇高な考えを誰かに届けて、役に立たせて欲しい」とかいう
「美しくも図々しい動機」など全くなく、
なんだか知らないが内から湧き上がることを書かずにはいられず、
個人的な日記帳に書くのでではなくfacebookに投稿したのは、
「どうしてか分からないけど、誰かに読んでほしい」という強い思いがあったからだ。


「衝動」というのは、一体どこからやってくるかは分からないのだが、
「直観に突き動かされる」感じだと思う。
直観というのは「思考」が入る隙間がない。
ズドーンと直接入ってくる。
そこにグダグダ思考でもって
「考えたり」「疑ったり」を入れると、
元々の直観やアイデアが色あせ、消えてなくなる。


さて、自分の「衝動(直観)」に従うか。
「賢い思考」に従うか。大きな分かれ道である。


私は「衝動」というのは「直観の強い形」だと考えていて、
ある時何気なく来る「あ!」という直観に比べて、
「今すぐ従え」というような「〜せずにはいられない」感覚を与えるものだ。


「自分が何をしたいのか」分からない時、
「夢中になれるものが見つからない時」、
何かの衝動が起きる時に、そこに大きなヒントがある。

ヒントと言ったのは、
必ずしも「〜せずにはいられない」の「〜」の部分とは限らないからだ。

例えば、急にものすごく旅に出たくなった。
「衝動」だ。
だからと言って、「自分は一生旅をして生きたいのだ」とは限らない。
行きたい「国」にヒントがあるのかもしれない。
もしくはそこで出会う何か、誰か、がヒントを持っているかもしれない。

でも、それらは、確実に自分の中の「秘められた情熱」と繋がっている。


「衝動」は頼んだわけもないし、
探したわけでもないし、
考えていたわけでもないのに、
急にやってくる。

それって、とても不思議なことではないだろうか。

自分はノンタッチにもかかわらず、
どこからかの物凄い力でもって
「突き進め」と言わんばかりに自分を押し出そうとする。


さて、あなたは「衝動」を無視するか。
「思考」でもってそれを抑え切るか。


それが「衝動的」なのか「衝動」なのかは
、激しい感情の動きが「あるか」「ないか」だ。

「衝動的」というのはある意味「感情の勢い」のようなものである。
だから、その結果によっては大きな後悔をすることもある。

一方、直観が源である「衝動」は、
そもそも激しい感情があるときには、
降りて「こられないのだ」。
ボーッとしている時にこそ、突然「閃く」というのはそういうことだ。

そこには「ブレない何か」がある。


今日の私は、自分の「衝動」に従って、
とにかく「溢れ出るものを書く」ことを選択をしたわけだが、
その源にある情熱が何かというのは、実は今の時点でははっきり分からない。
もしかしたら、「今日だけ」必要だった情熱かもしれないし、
あとあと何かにつながるものがヒントとしてあるかもしれない。


ここで、最初の
「今日の投稿の連発の動機は愛か」ということに戻る(忘れてないよ)。


結論としては「愛」だ!


自分が「〜せずにはいられない」という
情熱と直結した思いに、
答えてあげたということで、
自分への愛ということにする。

衝動に従った結果が、例え大きなものでなくても、
私は自分を大切にしてあげられたのである。
そのおかげで、
「長くても、稚拙な文章でも、読んでくださった人たち」がいて、
おまけにフィードバックまで授かり、
こんな幸せなことはない。


みなさん、
何か「〜せずにはいられない衝動」を感じた時、
一度、その感覚を大切にしてみたください。
可能ならば従ってみて、
それがなんのか突き止めてみてください。

きっと、そこには必ず宝物のありかが書かれた地図があるように思うのです。

今日は存分に書かせていただきました。
私、みなさん、ありがとう。
さて、明日から勉強に戻ります。
燃えよ、亜由子!



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