<前編>
2017年の大晦日に、私はあるレコーディングに呼ばれた。
女性歌手6人が呼ばれ、それは今を時めくアーティストの新曲のコーラスだったのだが、
結局、コーラス自体がお蔵入りとなってしまった。
その楽曲は2018年放送のドラマの主題歌のために書き下ろされたもので、
一年を通して、空前の大ヒット曲となった。
今でも、「ああ、あのコーラスが使われていたら、
どんだけパフォーマンス印税が入ってきていたのだろう(号泣)」と
今でも悔やまれる。(下世話でスンマセン)
その後、私は楽曲をきちんと聞くこともなく
「ああ、あの曲、売れてんなあ。悔しい〜〜。」と思いながら、一年が過ぎ、
このお正月にそのドラマの一挙放送を観て(非常に面白かった)、
やっとその曲の意味が分かった。
あの時の「教会の聖歌隊のような感じのコーラスを入れたい」の意味が良くわかった。
とは言え、その割には女性コーラスにしてはキーが低すぎるし、
「なんでこんな録音の仕方をするのだろう?」など、
「どうしたいのか、何をしたいのか」が結局よくわからなかった、というのも事実だ。
それでも。もし。あの時、(情報解禁ではなかったかもしれないけど)
どんなストーリーのドラマで、
だからこういう曲を書いたのだということを知らせてくれてたなら(本人もいた)、
私たちの歌う時の思いも違ったかもしれない、と思った。
ぶっちゃけ。コーラスのレコーディングというのは、
アーティストのツアーで歌うというのと比べれば、正直「味気ない」ものである。
呼ばれて、現場に行って、譜面を見せられて、言われた通りに歌う。
(簡単に言ってるけどね、コーラスというのは技術がないと決してできないものなので、
誰でもできるわけではないのは確か。)
曲作りからレコーディング、仕上げという長いプロセスの「ほんの一部」に呼ばれて、
背景も知らずに、ただ歌って帰る、そういうものだ。
そこには需要と供給という関係性とビジネスという関係性があるだけだ。
そのような仕事を続けていると、「こなす」ことに慣れる。
もちろん、メンバーによっては「楽しいひととき」になることもある。
でも、「歌手として」と言ったら、私たちは「機械的」であり、
ディレクターやプロデューサーからしたら「顔のない歌手」だ。
だから、コーラスってつまんねーんだよ。
ディレクター側がすでにそういう姿勢でいるが故に、
コーラス側が「心」を持つ個々の人間であるということを忘れている。
機械的に歌われたものは、どんなに「きちんと」歌われていても、
そこに歌う人間の思いや心がなければ、
じゃあ「ヴォーカロイド」でやっても同じでしょ?としか言いようがない。
私は「職人」などにはなりたくない。
いや、職人だって心がある。
だからこそ、素晴らしい作品を創れるのだ。
ディレクター側もコーラス側もいつからか、味気ない現場に慣れ、
「流れ作業」にも慣れ、「こなす」ことにも慣れ、
「感じ良くやって、お金をもらって、また次に呼ばれれば良し」という流れになってしまった。
お互いに会えば「この前、〇〇と仕事した。」とか「〇〇さんがさあ」っていう、
くだらない「内輪の自慢話」で己れを慰め、自己満足に浸っているようだけれど、
私からしたら「え?そこ!?」だ。
なぜ音楽業界の方々、お世話になっている方々に反感を買うような、
今後仕事もらえないかも、なんてことをここに書かずにはいられなかったかというと、
新年のその例のドラマを観て、
やっと「あの時の曲」の内容、アーティストが伝えたかった思い、世界観というのを
今、やっと分かったというのが、とても悲しかったのだ。
あの時、もし私たちに話をしてくれていたとしても、
結局お蔵入りになっていたかもしれない。
コーラスが入ろうが、入らなかろうが、あの曲は間違いなく大ヒットしていただろう。
でも、少なくとも、「あの場にいた私たちは」
人間として「こんな素敵な作品に参加させてもらった」という思いが、
私たちの心を暖かくしてくれただろう。
私はプロの歌手なので、それが仕事である以上、求められたものを必ず達成する。
ただ、ただ、私は仲間に入れてもらいたかったのだ。
心だって、参加したかったのだ。これまで、ずっと。
ドラマを観て、その主題歌を聞いて、そんな思いが溢れてきて、
新年の「長編書き初め」とすることにした。
今年も誰になんと言われようとも(すいません)私ワールド全開で、長編シリーズ続けまーす!
よろしくお願いいたします。
斉藤亜由子
上の投稿は私の「上っ面」です。
本音は・・・別にありました。(ということがわかりました)
「後編」を是非読んでください。
<後編>
「私が本当にやりたいこと」
昨日、ある楽曲のお蔵入りになったコーラスについてのことを書いた。
そして、私が感じていたコーラス現場について語り、批判みたいな形になって、
挙げ句の果てに「だから、コーラスってつまんねーんだよ」とまで書いた。
本日、もう何年も音楽業界でお世話になっている、
私にとっては大切な友人でもある、ある方から、
昨日の投稿について個人的にメッセージをいただいた。
その内容はここには書かない。
けれど、ここで私の本音を語ろうと思う。
コーラスとは、「職人の仕事」なのだ。
コーラスやCMなどで「喰っていく」ということは、
たいっへんなことである、と言っておく。(私はそれでは喰えない)
それで「喰っていく」ということは、毎日、スタジオをハシゴし、
ありとあらゆる現場で歌うということだ。
そして、それだけ「呼ばれる」能力や人間性を持っているということだ。
それで喰っている人たちというのは、ものすごい職人魂と、誇りと、
一つ一つの仕事への責任感というメンタリティーを持っている・・・からこそ、喰っていける。
私には「職人魂」がない。私は、職人ではないのだ。なれないのだ。
アーティストのコーラスの場合は、コーラスの声は「楽器」だ。
他の楽器と同様、リードが歌う楽曲をいかにバックアップし、
いかに素敵なものにするか、というのがミッションだ。
リードボーカルに対して言うならば、裏方である。
でも、「ものすごく大事な」裏方である。
それによって、楽曲の色がガラッと変わってしまうほどの大事な裏方である。
しかし、プリンセスAYUKO(←あ、ここはユーモアね)が、
どんなに大事でも「裏方」で満足するだろうか。
結局、そこなのである。
そのある方から「あゆちゃんの本音をあゆちゃんの言葉で聞きたい」と言われ、
私が辿り着いた、と言うか、ずっとあやふやにしていた本音はこれだった。
「私は職人ではなく、アーティストでいたい」
アーティストっていうと、随分カッコよく聞こえるけれど、
要は私は「歌を通しての表現者」なのだ。
コーラスというのは「自我を表現する」場所ではない。
ミッションが違うのだ、そもそも。
私が心からやりたいことは、歌を、自分の声と魂とで、
メロディーに乗せて、言葉に乗せて、表現することだ。
ただひたすらに表現することだ。自分の心を表現することだ。
先の投稿「前編」で、
「一年を経て、ようやくアーティストの伝えたかったことが分かった、
一年を経て・・・それがとても悲しかった」というのは、
結局のところ、これは、私が何年も自分の中に秘めていた悲しみが、
たまたま「そこ」で反応したのだ。
その悲しみとは、自分が本当にやりたいことをやらずに、
一度は諦め、でも何が悲しいのかわからずに、放っておいたことだ。
先の投稿での、コーラス業界に対しての批判は、私自身への批判だ。
「本当にやりたいことに本気で取り組んでこなかったのはお前だろ」と。
「だから、コーラスはつまんねーんだよ?」
「じゃあ、なんでお前はつまんねーコーラスやってんだよ?」
そこを自分に突きつけずに、上っ面の投稿して、
ちゃんと突きつけてくれたのが、私にメッセージをくれたその人だ。
私は自分が本当にやりたいことを、なんだかんだ理由をつけて、先延ばしにしてきた。
「満足している」と思い込んで。「仕事があるだけでもありがたい」と言い聞かせて。
そして、「私なんかには無理だ」という自己憐憫も含めて。
けれど。結婚・育児で5年間も休業し、
「もう歌わなくてもいいっか」とまで思いながら、
何かに突き動かされるように仕事復帰をして、
「年内にソリストとしてステージに戻らなければ、絶対に後悔する。もう先はない。」
という直観と衝動に襲われた2016年は決して「冗談」なんかではなかったのだ。
今からスーパースターになるとか、ならないとか、
大規模に活動するとか、しないとか、そんなのは今の問題ではなく、
まずは私は「歌手として、私の魂が喜ぶこと」を本気でしなければならないのだ。
それをちゃんとしてこなかったから、私は「外側」の出来事にいちゃもんを付けて
「かわいそうな私」を演出していたのだ。
ということがよく分かった。
私は幸い(これは本当に「幸い」だ)、
夫という存在が私を経済的に保護してくれ、
いつでも子供達を見てくれる元気な母がいる。
この環境が私をただの「甘ちゃん」にさせるか、
「しっかり甘えて、この今の環境を最大限に利用させてもらって、結果を出す」かは私次第だ。
私は歌を歌いたい。魂を爆発させたい。
そして願わくば、一人だけでも喜んでくれる人がいたらいい。
一人の人でもいい、誰かの人生に触れることができたなら、私はそのまま死んでもいい。
歌手として、誰かの心に触れて、歌手として、役に立てるのなら。それこそが本望だ。
私に「本当のところ」を突きつけてくださった、あなたに心から感謝します。
目が覚めました。
AYUKO LIVE 2018 "WHOLE LOTTA LOVE"の音源をアップしました!是非!
↓
歌手AYUKOのページはこちら♪
2017年の大晦日に、私はあるレコーディングに呼ばれた。
女性歌手6人が呼ばれ、それは今を時めくアーティストの新曲のコーラスだったのだが、
結局、コーラス自体がお蔵入りとなってしまった。
その楽曲は2018年放送のドラマの主題歌のために書き下ろされたもので、
一年を通して、空前の大ヒット曲となった。
今でも、「ああ、あのコーラスが使われていたら、
どんだけパフォーマンス印税が入ってきていたのだろう(号泣)」と
今でも悔やまれる。(下世話でスンマセン)
その後、私は楽曲をきちんと聞くこともなく
「ああ、あの曲、売れてんなあ。悔しい〜〜。」と思いながら、一年が過ぎ、
このお正月にそのドラマの一挙放送を観て(非常に面白かった)、
やっとその曲の意味が分かった。
あの時の「教会の聖歌隊のような感じのコーラスを入れたい」の意味が良くわかった。
とは言え、その割には女性コーラスにしてはキーが低すぎるし、
「なんでこんな録音の仕方をするのだろう?」など、
「どうしたいのか、何をしたいのか」が結局よくわからなかった、というのも事実だ。
それでも。もし。あの時、(情報解禁ではなかったかもしれないけど)
どんなストーリーのドラマで、
だからこういう曲を書いたのだということを知らせてくれてたなら(本人もいた)、
私たちの歌う時の思いも違ったかもしれない、と思った。
ぶっちゃけ。コーラスのレコーディングというのは、
アーティストのツアーで歌うというのと比べれば、正直「味気ない」ものである。
呼ばれて、現場に行って、譜面を見せられて、言われた通りに歌う。
(簡単に言ってるけどね、コーラスというのは技術がないと決してできないものなので、
誰でもできるわけではないのは確か。)
曲作りからレコーディング、仕上げという長いプロセスの「ほんの一部」に呼ばれて、
背景も知らずに、ただ歌って帰る、そういうものだ。
そこには需要と供給という関係性とビジネスという関係性があるだけだ。
そのような仕事を続けていると、「こなす」ことに慣れる。
もちろん、メンバーによっては「楽しいひととき」になることもある。
でも、「歌手として」と言ったら、私たちは「機械的」であり、
ディレクターやプロデューサーからしたら「顔のない歌手」だ。
だから、コーラスってつまんねーんだよ。
ディレクター側がすでにそういう姿勢でいるが故に、
コーラス側が「心」を持つ個々の人間であるということを忘れている。
機械的に歌われたものは、どんなに「きちんと」歌われていても、
そこに歌う人間の思いや心がなければ、
じゃあ「ヴォーカロイド」でやっても同じでしょ?としか言いようがない。
私は「職人」などにはなりたくない。
いや、職人だって心がある。
だからこそ、素晴らしい作品を創れるのだ。
ディレクター側もコーラス側もいつからか、味気ない現場に慣れ、
「流れ作業」にも慣れ、「こなす」ことにも慣れ、
「感じ良くやって、お金をもらって、また次に呼ばれれば良し」という流れになってしまった。
お互いに会えば「この前、〇〇と仕事した。」とか「〇〇さんがさあ」っていう、
くだらない「内輪の自慢話」で己れを慰め、自己満足に浸っているようだけれど、
私からしたら「え?そこ!?」だ。
なぜ音楽業界の方々、お世話になっている方々に反感を買うような、
今後仕事もらえないかも、なんてことをここに書かずにはいられなかったかというと、
新年のその例のドラマを観て、
やっと「あの時の曲」の内容、アーティストが伝えたかった思い、世界観というのを
今、やっと分かったというのが、とても悲しかったのだ。
あの時、もし私たちに話をしてくれていたとしても、
結局お蔵入りになっていたかもしれない。
コーラスが入ろうが、入らなかろうが、あの曲は間違いなく大ヒットしていただろう。
でも、少なくとも、「あの場にいた私たちは」
人間として「こんな素敵な作品に参加させてもらった」という思いが、
私たちの心を暖かくしてくれただろう。
私はプロの歌手なので、それが仕事である以上、求められたものを必ず達成する。
ただ、ただ、私は仲間に入れてもらいたかったのだ。
心だって、参加したかったのだ。これまで、ずっと。
ドラマを観て、その主題歌を聞いて、そんな思いが溢れてきて、
新年の「長編書き初め」とすることにした。
今年も誰になんと言われようとも(すいません)私ワールド全開で、長編シリーズ続けまーす!
よろしくお願いいたします。
斉藤亜由子
上の投稿は私の「上っ面」です。
本音は・・・別にありました。(ということがわかりました)
「後編」を是非読んでください。
<後編>
「私が本当にやりたいこと」
昨日、ある楽曲のお蔵入りになったコーラスについてのことを書いた。
そして、私が感じていたコーラス現場について語り、批判みたいな形になって、
挙げ句の果てに「だから、コーラスってつまんねーんだよ」とまで書いた。
本日、もう何年も音楽業界でお世話になっている、
私にとっては大切な友人でもある、ある方から、
昨日の投稿について個人的にメッセージをいただいた。
その内容はここには書かない。
けれど、ここで私の本音を語ろうと思う。
コーラスとは、「職人の仕事」なのだ。
コーラスやCMなどで「喰っていく」ということは、
たいっへんなことである、と言っておく。(私はそれでは喰えない)
それで「喰っていく」ということは、毎日、スタジオをハシゴし、
ありとあらゆる現場で歌うということだ。
そして、それだけ「呼ばれる」能力や人間性を持っているということだ。
それで喰っている人たちというのは、ものすごい職人魂と、誇りと、
一つ一つの仕事への責任感というメンタリティーを持っている・・・からこそ、喰っていける。
私には「職人魂」がない。私は、職人ではないのだ。なれないのだ。
アーティストのコーラスの場合は、コーラスの声は「楽器」だ。
他の楽器と同様、リードが歌う楽曲をいかにバックアップし、
いかに素敵なものにするか、というのがミッションだ。
リードボーカルに対して言うならば、裏方である。
でも、「ものすごく大事な」裏方である。
それによって、楽曲の色がガラッと変わってしまうほどの大事な裏方である。
しかし、プリンセスAYUKO(←あ、ここはユーモアね)が、
どんなに大事でも「裏方」で満足するだろうか。
結局、そこなのである。
そのある方から「あゆちゃんの本音をあゆちゃんの言葉で聞きたい」と言われ、
私が辿り着いた、と言うか、ずっとあやふやにしていた本音はこれだった。
「私は職人ではなく、アーティストでいたい」
アーティストっていうと、随分カッコよく聞こえるけれど、
要は私は「歌を通しての表現者」なのだ。
コーラスというのは「自我を表現する」場所ではない。
ミッションが違うのだ、そもそも。
私が心からやりたいことは、歌を、自分の声と魂とで、
メロディーに乗せて、言葉に乗せて、表現することだ。
ただひたすらに表現することだ。自分の心を表現することだ。
先の投稿「前編」で、
「一年を経て、ようやくアーティストの伝えたかったことが分かった、
一年を経て・・・それがとても悲しかった」というのは、
結局のところ、これは、私が何年も自分の中に秘めていた悲しみが、
たまたま「そこ」で反応したのだ。
その悲しみとは、自分が本当にやりたいことをやらずに、
一度は諦め、でも何が悲しいのかわからずに、放っておいたことだ。
先の投稿での、コーラス業界に対しての批判は、私自身への批判だ。
「本当にやりたいことに本気で取り組んでこなかったのはお前だろ」と。
「だから、コーラスはつまんねーんだよ?」
「じゃあ、なんでお前はつまんねーコーラスやってんだよ?」
そこを自分に突きつけずに、上っ面の投稿して、
ちゃんと突きつけてくれたのが、私にメッセージをくれたその人だ。
私は自分が本当にやりたいことを、なんだかんだ理由をつけて、先延ばしにしてきた。
「満足している」と思い込んで。「仕事があるだけでもありがたい」と言い聞かせて。
そして、「私なんかには無理だ」という自己憐憫も含めて。
けれど。結婚・育児で5年間も休業し、
「もう歌わなくてもいいっか」とまで思いながら、
何かに突き動かされるように仕事復帰をして、
「年内にソリストとしてステージに戻らなければ、絶対に後悔する。もう先はない。」
という直観と衝動に襲われた2016年は決して「冗談」なんかではなかったのだ。
今からスーパースターになるとか、ならないとか、
大規模に活動するとか、しないとか、そんなのは今の問題ではなく、
まずは私は「歌手として、私の魂が喜ぶこと」を本気でしなければならないのだ。
それをちゃんとしてこなかったから、私は「外側」の出来事にいちゃもんを付けて
「かわいそうな私」を演出していたのだ。
ということがよく分かった。
私は幸い(これは本当に「幸い」だ)、
夫という存在が私を経済的に保護してくれ、
いつでも子供達を見てくれる元気な母がいる。
この環境が私をただの「甘ちゃん」にさせるか、
「しっかり甘えて、この今の環境を最大限に利用させてもらって、結果を出す」かは私次第だ。
私は歌を歌いたい。魂を爆発させたい。
そして願わくば、一人だけでも喜んでくれる人がいたらいい。
一人の人でもいい、誰かの人生に触れることができたなら、私はそのまま死んでもいい。
歌手として、誰かの心に触れて、歌手として、役に立てるのなら。それこそが本望だ。
私に「本当のところ」を突きつけてくださった、あなたに心から感謝します。
目が覚めました。
AYUKO LIVE 2018 "WHOLE LOTTA LOVE"の音源をアップしました!是非!
↓
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