DEEPLY JAPAN

古い話も今の話も、それでもやっぱり、ずっと日本!
Truly, honestly, DEEPLY JAPAN!

鳥居元忠と南奥州の磐石化

2012-02-05 16:12:01 | つらつら思んみるに

家康が畿内を離れ会津征伐に向かうにあたって、伏見城を預かる鳥居元忠をねぎらうシーンは、家康がらみのドラマでは必ず出てくるある種の泣かせどころ(私は必ずもらい泣きします)。伏見城は、三成らが挙兵に及べばほぼ間違いなく危険となるとわかっているからこそ、家康は、鳥居元忠、内藤家長ら譜代の家臣に伏見城を守らせ、それを理解する忠義の家臣らは名誉とばかりに引き受ける。

家康ものには欠かせないこのシーンは、江戸時代でも忠義の一例として語られていたとは思うが、少なからぬ戦後の日本人にとってはまた別のニュアンスで視聴されていたのではないかと愚考する。封建的忠義といったものよりもなによりももっとダイレクトに玉砕覚悟の心情みたいなものとして受け止められていたのであるまいかなど想像するのだ(日本人でなくても総力戦をやった国々の人なら誰でも胸を打たれる展開だと思いますが)。

鳥居元忠も内藤家長も伏見城の戦いで戦死し、鳥居元忠の子鳥居忠政は、陸奥磐城平藩に10万石で入り、その後最上氏の旧領に加増移封。そして、それを受けて同地に入った(1622年)のは内藤家長の子内藤政長。

このチョイス自体は偶然なのだろうとは思うが興味深い。

磐城平藩とは、岩城氏を佐竹氏とともに秋田に転封した後の名称。つまり、佐竹領(現在の南部、西部を除く茨城県)本体を徳川氏で抑えて、そのすぐ北隣りの岩城領(現在の福島県いわき市)に忠義の家臣系統を入れたということ。

これはつまり、徳川体制磐石化≒伊達動向の静穏化までの、佐竹氏の影響地(なにしろ歴史が長いのでそこら中散発的に南奥州全体が親戚)対策の一貫だろうと思う。

伊達が南下して江戸に向かうとすれば、現在の国道4号線(福島県中通地方)か、国道6号線(福島県浜通地方)のいずれかを通らなければならない(上方方面なら山形から越後に出る道もあるが江戸では意味がない)。

そのうちの4号線方面で伊達領に最も近かった地点は関ヶ原当時は上杉領と伊達領が近接。1679年に忠勝系本多家が入るまでは徳川方としては安心できない感じだろうが、無理やりここを取りにいく理由もなかった。

仙道筋の南端白河は、トリッキーな丹羽長重だが、関ヶ原で西軍についたもののそれ以降は(いや、基本的に?)親徳川的。

6号線側は、現在の福島、茨城県で、ここは鎌倉時代から相馬→岩城→佐竹だったものを、相馬→磐城平藩(1622年の鳥居元忠以降譜代家臣の藩)→水戸徳川(1602年)と並べ直した。

あらためて見るに6号線側の方が早く投了という感じで、これは単純に佐竹氏さえ追い出せば話が早かったというのがその理由だろうとは思うしそれ以上の理由も多分なかっただろうとは思う。が、このへんの地理を考えてみれば、江戸を守備する徳川氏としてはとりあえず押さえておくにしくはなかったでしょう。なぜなら、江戸から仙台まで基本的に平地が続き、そのうちの水戸以北はずっと海岸線に面している(今の常磐線)ので船の輸送もやる気になれば簡単そう(確か、戊辰戦争では茨城県北部のどこかで物資をあげて奥州内に入っていったと記憶)。ここまで天然の障害物の少ない長い道は北海道を除く日本では珍しいと思う。

いずれにしても、どちらの道も漸次徳川氏の譜代家臣を並べていって磐石化していくのだが、どこにでもここにでもとにかく譜代の家臣がたくさんいるというのは、徳川氏の本当の強さというべきだろうなぁとあらためて思う。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 葵徳川三代 第6回 多国籍軍 | トップ | 葵徳川三代 第7回 弾劾状 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

つらつら思んみるに」カテゴリの最新記事