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葵徳川三代 第7回 弾劾状

2012-02-05 17:12:34 | 葵徳川三代(2000)
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■冒頭解説

歴史は勝者によって書かれるもの。敗者の歴史は詳らかにならないもの。石田三成にいたってはその出自さえ定かでない。秀吉に見出され経営の才を発揮して佐和山城19万石を得るまでに出世したが、律儀さ、生真面目さが災いしたものか人望必ずしも高からず、と光圀が三成の家系図を紹介。

三成(江守徹)の屋敷では、島左近(夏八木勲)、三成の兄正澄(津嘉山正種)、安国寺恵瓊(財津一郎)、そして大谷吉継(細川俊之)が挙兵の段取りを考えている。吉継があからさまに言うとおり三成には人望がないから三成の命令に従う大名はないだろう、しかし、三成を憎むものも多いだろうが、家康を憎む大名もまた多い、一旦堰を切ったならこぞって諸大名は味方につくのではないか…。毛利輝元を総大将として招請することを決した。

さらに、三成は、長束、増田、前田の三奉行に事を打ち明ける。

一方、関東では、とっくに会津に出たものと考えれていた家康はまだ江戸城に滞在している。会津には榊原康政が3000を率いて先発したのみ。家康は、諸大名にしきりに手紙を書きつつ、人質として預かっている前田利長の母と細川忠興の息子忠利をねぎらう。

秀忠は、お江と二人の娘と仲むつまじく過ごしてはいるものの、お江に男子が誕生せず、側室を持つよう家康や家臣大久保忠隣に勧められているが、その動きに感づいているお江に気勢を制される。

増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行に招かれた毛利輝元は、7月17日広島から大坂城西の丸に入り総大将となる。宇喜多秀家も同道。三奉行の連署による13か条からなる弾劾状、いわゆる「内府ちがいの条々」をしたためさせる。

西軍は動き出し、まず、大坂にいる東軍側とみられる大名の妻子を人質に取り始める。この時、細川忠興邸では、夫人のガラシャ(鈴木京香)が人質となることを拒み自害。こんなことをしても憤激を買うだけと人質政策をやめるよう島左近にいさめられ三成は従う。

7月18日、西軍は作戦会議を行う。
宇喜多、小早川、島津ら4万で伏見城を、丹波、但馬の諸大名で田辺城を攻略。
同時に、以降の役割分担は、

大坂城   総大将毛利輝元+増田

尾張方面  宇喜多、石田、長束他

北陸方面  大谷吉継

今後の方針は、家康の出方をみつつ、もし家康が西に上ってくれば、毛利輝元も大坂城を出て宇喜多と共に美濃、尾張方面に出て全軍で決戦におよぶ。

7月19日、宇喜多秀家を総大将に伏見城総攻撃開始。

江戸では、畿内のクーデターはまだ知らされておらず秀忠を筆頭に会津に兵を送りだす。皮肉にも、奉行増田長盛より、三成が大谷吉嗣と共に不穏な動きをしているとの書状が同日江戸にもたらされる(増田がこのように密告すれば、奉行たちの足並みが乱れていると家康は考えるに違いない、こうして時を買うべき、と三成らは示し合わせていた)。

「三成が挙兵に及べばもっけの幸い。誰と誰がこれに加担するのか。時を与えてじっくり見極めようぞ」



■史実周り

7月18日の作戦会議で、宇喜多、石田、長束らは尾張方面に出る、と江守徹が語っている。大雑把にはあってるが、細かくは、宇喜多は伊勢方面、石田は美濃方面。つまり、不破の関(関ヶ原)を出て美濃を押さえて北から尾張に入る軍と、近江を南下して伊勢を押さえて西から尾張にはいる軍に分けたということでしょう。その上で、北陸、但馬方面も抑えているので、とりあえず伝統的な都への道はみんな塞いでいる。三成は、尾張と三河の境あたりで決戦と想定していたらしい。


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