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1945年の気の毒な若者たちが消えたことを思い起こしてみる

2018-06-26 00:29:23 | 参考資料-昭和(後期)

昨日ブログを書いた時、4カ月+前の記事を引用したので読み返したけど、基本的な私の見取りは変わらないと思った。

よく英語圏で、the train has left the station(電車は駅を出てしまった)とかいって、もうその話は終わった、フェーズは変わったというようなことをいうんだが、今の日本の立場を国際的に見るとそこが理解されていない気がする。

いきなり日本が、自己都合で中国さんと仲良くなることになりましたので、あんたもそのつもりでいてくださいと言ったとしても、この10年ぐらいの間に国際情勢は大きく変化してしまったので、10年前の日中関係には戻らない。

ロシアに関しては、前にも書いたけど日本はロシア外交を国内向けの消費財にしまっているので、ここから信用関係を作ることはかなりの長期プランでしょう。そもそも世界有数の不仲な間柄なんだし。だから、適宜個人間がそれなりに交流できるようになってからでないと政治的な話で進展はないと考えるべきなんじゃないですかね。

日本周辺の様子を眺めつつ我が方を考えてみるに・・・

という感じ。

何をするにしても、大きな政策変更をするにはそれなりの準備期間が要るし、それを支持する人々を集めとかないとならないけど、日本の現状はコアには20年ぐらい、極端な対韓国、対中国敵対視を貫いちゃってるから、よしんば仮に何らかの案を出して、日本外交も新しい時代へとか言ったって国内の人間も付いてこないし、外の人たちから見たら、具体的な動きを見てから考えますといった態度にしかならない。

 

で、もう一つ思ったのは、日本の宿痾のようではあるわけだけど、国内に異論を持つ集団を持ってその中で左右でも上下でも南北でもいいけど、多少揺れながら方向感をみんなで共有するということが出来ないこと。その前に、敵対する集団を潰してしまう。

 

最近見たこの動画が、まさしくそれがリアルだった人たちによる言明だと思う。

1997年の教育テレビの特集の動画。初めてみました。この頃にはまだ戦前を大人の目で見た人たちが元気に存在してたんだなぁとこの20年という月日を思う。

ETV特集 日高六郎 対論“戦後民主主義”ー第一回 戦中から戦後へー鶴見俊輔1997.7.14

 

日高六郎、鶴見俊輔とか聞くと、左翼、左翼、左翼とうなったり、吠えたりする人が多いんだろうなと思うけど、私はこういう人たちを左翼グループとして一緒くたにしたことが既にして戦後日本の第一の誤りと思う。

このへんの人たちには、マルクス主義に影響をされた人もいたし、自由主義的アイデアに触発された人もいれば、民主、主権在民という、当時の人々からすれば未知の領域を眺めつつ、苦闘していた人々もいる。

大ざっぱにいえば、たいていの人は、別に左翼的じゃないとさえ思う。ここに丸山真男 などを入れれば、要するに、この人たちは、1945年に終わった戦争の末期のカルト日本の在り方をなんとかせなと思った、私の見方では、正気で優秀で心が強かったために苦しんだ若者といったところだと思う。

じいさまたちはもっとずっと狡猾だったのに、若者たちは気が付かなかったとも言える。

今じゃすっかり年とった私から見ると、終戦時にせいぜい20代後半で今後の日本を憂いて、考え、行動していた知性なんて、もう可愛そう過ぎて、気の毒すぎてどうしましょうといったところですよ。

それを、70年後には、あいつらは左翼だとかいうレッテルで打ち捨て、何も学んでもないおバカな人々がカルトを持ち上げる。

これも一つの歴史になるわけだが、これはつまり、今後、日本のために考えるような人は、このリスク、この損、この失意を背負うということを意味する。つまり、誰もそんなことはしなくなる確率が上がるということなんだろうな、と静かにそう思う。

 

で、お二人が思い出しがたりにいろいろ興味深いことを語っているのだが、その中で日高さんが何気なく言ってることが非常に核心をついていると思った。

氏は戦争末期、海軍の軍属という立場で、相当に過激な国策変更のための論文を書いたんだそうだ。持ってる植民地をみんな手放して立て直すべき、労働運動に力を与えろ云々という手合いなので当時からすればあり得ないような過激なことだらけ。だがしかし、よく考えればマッカーサーの前期時代に持ってきたアイデアがおおむね入っとるなといったところで、その意味においてはカルト国家の解体を前にしてそう考える人がいても不思議でもない範囲のものとも言えると思う。

しかし、いずれにしても、当時としては死を覚悟しないと言えないような代物。しかし、書いた。

で、そういう人はいた、と。水面下でいろいろと危惧した人も大勢いた。

しかし、それを具体的に実行する主体がなかった、と日高さんは言う。

政党は大政翼賛会になっちゃってるし、軍部は検閲するわ、治安維持法を悪用しまくって異論を持つと検挙されるし、結社、集会ができない状況では党派なんか組めない。

仕方がないそれが戦争中だと言う論が支配的かもしれないけど、終わるならどうするのかを考えないで戦争する人たちが悪いとも言えますね。また、ドイツはヒトラー暗殺の試みが複数あるんだから、自分で脱皮しようという気はあったと言える。

そう、まさにそこなわけですよ。

国策の変更をする時に、生き延びて異論を唱え、そこを中心に変革していくしかないな、と考えるられる体制を1945年の日本は持っていないかった。

そして、今もほぼない。

いやぁ、またですか、と思って、視聴しながら半笑いした。

とはいえ、現在は、当時よりはまだ全然まし。野党がまだ存在し、その人たちが声をあげることが可能で、それを支える人たちも弱いながらも存在しているから。これはどうしてそうなったかというと、支配層の爺様たちが供与してくださったからではなく、上で見たような1945年の気の毒な若者たちが、次第次第に、そうだ、声をあげる一般人が必要なんだと大ざっぱにいえば市民運動と括られるようなことを継続して、ある種の啓蒙運動をしてきた成果ではなかろうか? 少なくともそれに負う部分はとても大きいと私は思う。

その中身については個別具体的に私は批判的な部分も多くあるが、それはそれとして、1945年からの事を考えれば、それでもあったことがどれほどか、この社会のカルト化防止のために役に立ったかと思わずにはいられない。

 

■ そして誰もいなくなった、みたいな

それらこれらの1945年という大きな展開点を大人の知性で記憶している人たちは、2018年においてはほとんど存命でない。そして、後継者もあまりいない。

や~い、左翼がいなくなったとほっとしている「右翼」もいるかもしれないが、しかし、実は日本には日本の右翼もいなくなったんじゃないかな、などとも思う。少なくとも、民族派的エートスのある右翼は日本にはもはやいない。

鈴木邦夫さんが地味になんとかこの民族派の歴史の一端を伝えているようにも見えるが、それでもおっしゃってないことは多大にあるでしょう。鈴木さんには見えるからこそ言えないことも多いものも拝察する。

さらにいえば、葦津珍彦あたりが生きていないというのも、右翼の破産的崩壊(と私は思ってる)に繋がっているのではあるまいかと、最近ちょっと思ってる。

山崎雅弘さんが、丁寧に日本会議が何を言っているのかを追ってらっしゃるけど、それを見ていてふと思ったのは、これってつまり、葦津氏あたりが戦後書いたものを、たいして変更もなく時系列も無視して使ってるだけじゃなんじゃないないのか、という疑問。

第39回メディアを考える市民のつどい「安倍政権と日本会議はなぜ『日本国憲法』を敵視するのか」山崎雅弘氏講演 2016.12.18

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/352893

 

つまり、日本会議なるところは、現状を整理し、将来に耐え得る考えを生産できるところではなくて、過去の生産物をやみくもにパンフ化してる、活動のためのユニットなんだろうな、みたいな感じ。

 

というわけで、総じていうのなら、1945年から2000年ぐらいまでにバランスしていた左右(南北でも上下でもなんでもいい)が、両方とも消えたのが、2000年代の特徴かもしれないと思う。つまり、根無し草になって、上の方によくわからない集団がぷかぷか恣意的に存在しているという状況。

 

■ そしてまがい物が入り込んだ、みたいな

ふとそこで、葦津珍彦の wikiを見るに、1992年に亡くなっていた。

この一連の運きは、思えば1945年を知る右の重鎮が死んでからの出来事だったのだなと改めて記憶しておきたい。

1995年3月22日 オウム真理教に対する警察の強制捜査

1995年9月 新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

1996年 新しい歴史教科書をつくる会

1997年 5月30日 日本を守る国民会議、日本を守る会が統合、「日本会議」発足。

ネオコンの世界制覇戦争を信じちゃった

 

そして、葦津氏の項目の最後はこれ。

朝鮮文化にも造詣が深く、日本統治時代の朝鮮における独立運動家だった呂運亨とも交流があった。また、『思想の科学』編集者でもあった市井三郎鶴見俊輔、論客竹内好などとも思想的立場を超え交友があり、『思想の科学』にもしばしば執筆していた。

 

思想の科学の件は私は知ってたけど、驚く人は驚いてください(笑)。さらに朝鮮民族派とのつながりもある程度は知ってた。司馬遼太郎もそういうところがあった。

が、ちょっと面白く思ったのはここ。呂運亨の記事の来歴のところ、死没地が「米軍占領下朝鮮 ソウル」になっていること。いつか書き換えられるかもな、とか思い、クリップしておこう。

 

誰が書いたのか知らないけど、やっぱりこれは意思あってのものだと思う。

今のいわゆる右翼っつーか、まがい物右翼は、こういう認識の仕方もこういう交流もできないだろうとも思う。

 

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1 コメント

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米軍占領下朝鮮 ソウル (私は黙らない)
2018-06-27 04:37:19
>死没地が「米軍占領下朝鮮 ソウル」になっていること。
>誰が書いたのか知らないけど、やっぱりこれは意思あってのものだと思う。
どういう意思ですか?もう少し詳しく説明していただけるとありがたいです。
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