DEEPLY JAPAN

古い話も今の話も、それでもやっぱり、ずっと日本!
Truly, honestly, DEEPLY JAPAN!

123便:民営化&バブル期には静かだった

2020-08-15 01:53:33 | 参考資料-昭和(後期)

8月12日になると毎年日航機123便の話を思い出す。

といっても、そうまで言えるのはご遺族の方、関係者の方にとってであって、一般人にとって1985年からずっとそうだったわけではないと思う。冷静に考えてみれば、私の場合は1995年に例のアントヌッチ証言が出てから俄然注目し出したというのが本当のところ。この話を電車の中で食い入るように週刊誌を読んだ覚えがある。

とはいえ、そこまでの10年間に一度も通説に逆らうような話を聞いたことがなかったかというとそうではなくて、思い出すに、1993、4年あたりに、あの事故機は川上村のキャベツだったかレタスだったかの畑に降りようとしたんだよ、と言った噂のようなものに出くわした覚えがある。当時はネットはまだ一般的とはいえず、どこからそんな話が出てきたのだろうか。思えば不思議だ。

事故現場は、山奥というより、入ってしまえば山奥だが位置的には東京圏から大した距離でもない場所。長野側は結構な人が住んでるし、辺鄙とは言えないと思う。また、長野には別荘が散在するので東京圏との行き来は常に頻繁。あえていうなら、高崎の側から行くから山奥感がある、といった感じのところではなかろうか。

そんな場所に飛行機が落ちて翌朝まで現場がわかりませんでしたというのが土台無理な話で、そこから、あれは変な話だったよね、となるのは必定だったとも言えるんじゃなかろうか。

また、事故当日、早々に戦闘機が出てきたことによって、事件性を勘ぐっていた人もいたと思う。

他人事のように書いてますが、私にとってのこの事件の記憶には、百里基地から戦闘機が出ましたというニュースが分かちがたく結びついている。百里基地という名前がカッコいいと思って地図で場所を調べたことがあったので、ああ、あそこから、みたいに思ってニュースの推移を聞いていた。だけどこれを聞いた時間帯では不明機は相模湾あたりだった気がする。それから、夜がふけるにつれてテレビが伝える焦点は長野県に移り、南相木村、北相木村、ぶどう峠、御座山などといった地名を何度も聞くことになり、戦闘機はどこかに行ってしまった。でもやっぱり、ふと、戦闘機はどうしたの?みたいに思った記憶はしっかりある。戦時中の子どもみたいだけど。

 

そこから10年で上述の通りのアントヌッチ証言が来て、同じ頃、山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」が週刊新潮で連載開始。1995年から1999年まで。

 

この中で、記者が取材する場面で、自衛隊の無人標的機の話が出てくる。

思うに、自衛隊無人標的機説のメジャーデビューはこの作品なのではなかろうか?

その後、様々な説が出て、日航は2010年に倒産して会社再建を果たし、すっかり過去を忘れた人たちになっている風も多少ある。

 

■ 浮かれてた80年代

では、85年からしばらく、世の中は何をしていたのだろうか?

浮かれていたんだと思う。

もちろん、事故原因究明を巡って真面目にお仕事をしていた人たちはいます。しかし、世の中の多くの人にそれはどこまで届いていたかというと、かなり疑問。

80年代真ん中から後半にかけてというのは、まさにバブルの時代。バブル景気と言われるのは、1986年から1991年までの期間を指すとされていると思うけど、日航機の悲劇のすぐ後から、日本はバブルの狂乱へと向かうわけです。

もちろん、今となってみれば、その同じ時、プラザ合意を起因とする円高から、製造業や輸出関連にとっては不況が襲っていた。が、円高不況であるにもかかわらず、資産バブルによって収益を得た人たちが増加し、また、所得税が引き下げらえたため、大金持ちの可分所得が劇的に増えた。そこで、人々は全体としてなんだかすごい時代になったような雰囲気にのまれていたと言っていいんだろうと思う。

山手線内の地価の総額でアメリカが買えるとか言ってたわけですよ。それって売ればの話だろう、って話なわけで、どうしてそんなことで喜んでいたのか今となっては謎だけど、雰囲気ってそんなもの。

 

最近になって、123便とプラザ合意を結び付け、これを飲ませるために中曽根を脅したのだ、などといった説を唱える人がいるわけですが、これはだって、じゃあ、脅されなければ竹下登蔵相はプラザ合意を飲まないのか?と考えると、ねーよ、となるのじゃないのだろうか。

そして、円高は製造業にとって打撃だし、今となってみればこの産業構造の変化が致命的にヤバかったわけだけど、当時、円の価値があがって嬉しいって人も大勢いた。

そして、海外旅行に行っては、安いわぁ、なんて安いんでしょう、こんなホテルがこんな値段よ、みたいなことを言っていたものだった。そして日航もここで盛大に事業拡大する。

 

■ 民営化してた日航さん

今日読んだ、1985年、まさに日航機の事故が起きていた時の中曽根さんたちが何を話していたのかのメモが、はしなくもその一端を教えてくれるかもしれない。

「日航ジャンボ機事故」直後の「人事」暗闘 消えた「社長候補」...中曽根文書から読み解く

https://news.yahoo.co.jp/articles/5f258c953f6a7ac3243f8f25839e8c95e2551853?page=2

 

19年に死去した中曽根康弘元首相が生前に国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の資料の中には、新聞記者が政府・与党幹部を取材したメモも大量に含まれている。

当時の日本航空(JAL)が半官半民だったこともあって、ジャンボ機事故に触れたものも少なくない。ただ、そこには事故原因に関する内容はほとんどなく、大半が事故後のJAL社長の後任人事をめぐるものだ。

 

事故の当日のメモだけでは全体は見まわせないものの、残されているものからはあんまり危機感が伝わるものではないようだ。

で、そこを超えて、すぐに飛びついて熱を帯びるのが次の社長は誰にするか問題。この問題を巡って、要するに、中曽根は半官半民だった日航を完全民営化するにあたって、役人あがりでもなく日航生え抜きでもなく、民間人を据えたい。しかし、事故が事故なので下手な人物じゃ困る、う~ん、ってんで関係閣僚や力の強い後藤田さんなんかと連絡してました、みたいな話がメモから見えるんだそうだ。

いや、そうだと思うな。だって日航と国にとっては完全民営化に向かう重要な時期だったから。

そもそも、日航に限らずアメリカ以外では、普通に航空会社は国営で始まってる。そりゃそうでしょう。まだみんなのインフラって感じではない高価な代物だから、ペイできていないからこそ国が資本出して面倒を見て始まる。

日本でも「45/47体制」(1970年/1972年という意味)という産業保護育成政策が取られていたが、次第に航空機産業ももりあがってきて、複数の会社が成り立つようになっていって、外に出かける人も増えて、乗り入れ先も増えてとなっていく中、アメリカが民営化だ、民営化だ路線を推奨し出す。

そこで中曽根登板とあいなって、奇遇にも1985年、この「45/47体制」の見直しを政府が決定する。

wikiの日航の歴史の項を見ると、

なお、1951年の設立から長らく半官半民という経営体系であったが、「45/47体制」廃止後の1985年9月には、当時の中曽根康弘首相が進める国営企業や特殊法人の民営化推進政策を受けて完全民営化の方針を打ち出し、その後準備期間をへて1987年11月に完全民営化された。 

だそうです。

あの大騒ぎの最中に、完全民営化の方針を打ち出していたとは私は当時全然気づいてなかったです。

今これをやったら、多分、事故原因もわからぬうちに何故そんなことを、といった声は結構強いものと思う。当時は、「民営化」は良いことといった考えが支配的であった(または、主要紙がそう貫く)ため、なんでもなくスルーできたのであろうと思われる。

いやしかし、当時だって747のショートレンジは特殊なんです、みたいな議論があれば多少は異なっていたのではなかろうかなどと思わないでもないけど、そんな議論はなかったのでは? 多分、皮肉なことだが、悲しみで押し流した。

 

■ 妙な派生形を生んでる123便

で、35年をざっと振り返ってみて思うに、123便についての話題は、2通りの交わらないストリートがあるように思う。

つまり、事故原因は追究されなければならない派と、後に出てきた「正義」追及派とでもいった感じの派。

前者は、普通に、いろいろいうけど、ぶっちゃけていえばボーイング問題なわけでしょ。でも運輸省→国交省は、なんというか、うまく話しをかわしつつ、法整備も無視して、皆さんで記憶していきましょう、みたいなモードを前面にしてただそれで終わりにしている風。

後者は、悲しい話題として、もうこんなことは繰り返してはならないわ、といった感想で終わる派と、こんな非道を許してはいけない、といった感じで終わる派がいるものの、総じて何かに立ち向かう動機を与えられるよう仕組まれている気がしてしょうがない。

で、この妙に跳ね上がった説が出回る背景というのは、苦境感から来る被害者意識の反映ではなかろうかなど思ってみたりもする。

ルーズベルトに騙されたとか、ある日突然だしぬけに原爆くらったみたいな話と同根で、何かそこに非道なことがあって、それを解決しなければ我々に未来はない、とかいう態度が推奨されるムードがある。

それに一理あるとして、でも、その問題の枠組み設定正しいの?ってのがまず問題なんだけど、設定の方はやたらに断定的になっていく。

ネット上で、相当いかれた説が動画付きで出回ってるのがとても心配な今日この頃。

 


 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ロシア、新コロナ対応ワクチ... | トップ | 第二次世界大戦の成り行きを... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありふれた事象になった民間機撃墜! (ローレライ)
2020-08-15 07:34:57
最近はありふれた事象になった民間機撃墜事件だが日航機墜落事故は自衛隊ドローンとの衝突ネタなのがミソ当時自衛隊は海でも衝突事故を頻繁に起こしていた。
返信する
オレンジエア音声は誰に向けられたものか (И.Симомура)
2020-08-19 12:33:04
youtubeに出回っていた,例の「オレンジエア」記録ですが,それに付けられた解説にはわざわざ「音響分析の専門家もオレンジエア部分が本物と認めた…」という趣旨のクレディットがつけられていた.当時のヴォイスプリント(声紋)鑑定には最長で2.4秒で帯域は45Hz-8kHz音声しか取り込めないアナログ型の分析装置が使用されたが,この能力の低い装置によってでさえ,[オレンジエア]区間自身の背景雑音と,同区間の直前と直後の背景雑音の声紋とは一致しないであろう.現在主流のディジタルソノグラフによる自分の解析結果は,それほど截然と背景雑音の違いを見せるのだ.つまり「音響分析の専門家も云々」のクレディットは,音響分析の専門家に分析を試みさせないために考案されたのだと思う.”オレンジエア”は天井の無いスタジオ内で録音されたものだ.謎は,この編集音声記録をどのような人物に向けて作成したのか,というところにある.
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

参考資料-昭和(後期)」カテゴリの最新記事