年末から安倍ちゃんと慰安婦問題について書こうと思いつついるけど、なんだか気が重い。
2015年の年頭に、
司馬遼太郎が会津を通して見ていたもの
太郎の国の物語/司馬遼太郎
といった記事を書いて、その中で司馬遼太郎という人は最初は日本には日本の良さがあって、みたいなところから出発したんだろうけど、その後だんだんと詰めていくに従って氏がお考えになったこと、あるいはその当時に知っていたこと、調べられる限りのこととは大分違う像が見えて来た、しかし、それを整理していくことは、一つの物語の崩壊をもたらしてしまう、というところで最晩年は迷って迷ってお終いになっていたのではないかといったことを書いた。
こんな感じ。
つまり、日本人がそこに寄って立ってある程度自信を持てる近代の自画像を書きたかったのだろうと思う。坂の上の雲、坂本龍馬はその良い例で、これらは史実として考えた場合、誤りというのではなく作為的な解釈の上に存在している。
こ の人がこの再生日本の近代から徹底して省いたものは、外国勢との関係、経済思想的なものの重要性といったところだと思う。実のところ日本というのは明治維 新という名で起った大変革においてかなりのところイギリス勢をはじめとする外国勢に、コントロールという言葉が強すぎるなら、指導されていたという政治 ファクターを曖昧にし、あくまで日本人の側が主体となって必要なものを篩い分けて接種してきたかのような錯覚を呼び起こすことに積極的に加担していた、と いうところ。
今でもそう思っている。そして、去年考えた以上に、私たちのかなり多くはかなり迂闊に「太郎の国の物語」に寄りかかって生きているのね、とかも思った。つまり、明治維新で近代化して、日本は強くエライ国になりました、という立ち上がりが右でも左でもリベラルでも保守でも共通に共有されていて、その意味をあんまりしっかり考えてこなかったっぽい。全体がボルシェビキ的だとさえいいたいものがある。
統一ドイツ(19世紀版)、近代トルコ、近代日本、ソ連、そして南北戦争後のアメリカは並んでるんだろうな、とも思う。その中でロシア・ソ連は常に半分しかフィットしていなかった外套を脱いじゃって、ロシアでいいだろう主義に戻ったって感じ。
私たちはこれから、どうあれ私たちは「太郎の国」であるにせよここまでの物語ではなくバージョンアップさせることが求められるんだろうな、とか思うわけです。
著しく抽象的なこと書いてますが、ロン・ポール氏の主張を背景に考えれば実に具体的な話じゃないかと思ったりもする。すると、ああまでしてアメリカ他のいわゆる西側主流メディアがロン・ポールを隠しまくった、あたかも存在していないかのような扱いをしたのもわかるなと改めて思う。
■ 補足
なぜ私がこの「太郎の国の物語」に拘るのかといえば、それはまず第一に私がこの物語が好きで好きでならないから、いとおしくていとおしくてならないからだということを確認しておきたい。
しかし、好いても添えないことはあるんです(笑)。
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松本清張というより、しかし、実際には60年代ぐらいまでの日本の大多数の人、すなわち庶民は戦前に何があったのか知りたくて知りたくて仕方ないし、全体としてみれば「エライ人」は嘘を言っている的な感触が非常に強かったんだろうなと思います。生きてないから実体験じゃないですが振り返るにそういうことなんじゃないかなと。
それは健全なことなんですが、支配層にしてみればそれは不都合なわけで、やっぱりそこらへんでメディアを使って司馬遼太郎的なものをかぶせた、ってことかも?
自分で書いてて思いますが、これはつまり右か左かじゃなくて上か下かの問題だったのかも。結局やっぱり「永続敗戦論」的な問題に収斂しそう。