今年の夏のスプートニク(旧ロシアの声)は、結構な分量の日本ものを書いていた。しかも、70年前のタイムラインに合わせていたところがなかなか凝ってた。
と、そこでいよいよ関東軍の降伏という日がやってきた。8月20日に関東軍司令官がソ連との間で降伏文書に調印した。
なぜ日本は降伏したのか
2015年08月21日 00:11
http://jp.sputniknews.com/photo/20150821/778905.html
1945年8月20日、最後の関東軍司令官山田乙三(やまだおとぞう)がソビエト軍に投降し、降伏文書に調印した。
関東軍の歴史は1931年の満州事変に始まる。これで満州は日本の支配下に置かれた。
ソ連との戦争に備え、1941年までにその兵員は132万人に増大。しかしソ連軍がモスクワ近郊でヒトラー軍に勝利し、日本もソ連侵攻を諦めることになった。
1945年8月、ソ連は米・英・中に対する同盟上の義務を忠実に履行し、日本に宣戦布告、満州侵略を開始した。ソビエト軍は中国および満州のパルチザンを支援した。
短い文だけど、このタイトル「なぜ日本は降伏したのか」が示唆しているのは、それは日本が降伏したのは関東軍がソ連に降伏したからだ、ということでしょう。
で、それがソ連およびその前後たるロシアの理解であり、私はこの理解は妥当だと思う。
前から書いている通り、陸軍の本体ともいうべきところをまったく見ないで終戦動向を描いていた日本の終戦物語はまったくおかしいわけですよ。
でもって、この事実、関東軍および支那派遣軍等々の大陸における日本の兵力はソ連の侵攻によって敗れたという事実は、日本の支配層にとってもアメリカにとっても都合が悪かった。なぜなら、それではアメリカ単独の日本統治にならない可能性を残してしまうから。
日本にとってベストだったのは、どうせならアメリカ軍が出てきて大陸で決着がつくことだったんだろうなぁとも思う。
しかし、情勢がどう転んでも米軍が満州に侵攻するというシナリオはなかった。(あったのは1945年11月の日本本土上陸へのプラン)
まとめると、日本の支配層にとって1945年に説くべき課題はこんな感じだったんじゃないですかね。
- 国体護持
- アメリカに単独で降参する
- 関東軍を降参させる(少なくとも日本本体の支配に服させる)
この3つの連立方程式を解くにはどうしたらいいもんかを悩んでいた、ということじゃないでしょうか。
別の言い方をすれば、大日本主義になっちゃった自らを小日本主義に戻すために、外圧に頼りました、みたいな感じではなかろうか。国民こそいい面の皮というやつですが。
■ でも悲しい
と、さらさら書いてはいるものの、上のスプートニクの記事についていた関東軍の兵士たちが武装解除に応じている写真を見た時私は冷静ではいられなかった。
別にはじめてみたわけではないのだが、大きくて鮮明な写真はやっぱり堪える。胸が塞がれる思いだ。日本に進駐軍が上陸してきた時の映像で沿道に立つ日本の兵士の人の写真を見た時と同じだ。
戦(いくさ)は勝たないかん、とも思うし、やらんかったらよかったわけやけどな、とも思う。
とかいうと、やらんかったらやられたんだ!と言い切る人がいるけど、私はそれに対しては、やられそうになったらジリジリ・ずるずる作戦を取って犠牲を最小限にしつつ時期を待つという作戦だってとれただろうと言いたいと思う。(日本はむしろ逆に、相手や関係国が弱っているところを好機と捉えてグランドデザインなしに出ていった。)
自国民の犠牲を厭う、というのは立派な国防思想だ。
日米開戦の正体 | |
孫崎享 | |
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孫崎 享,鈴木 邦男 | |
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