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保守ブーム、歴史、そして西部さんの死

2018-01-22 15:07:58 | アジア情勢複雑怪奇

西部さんが亡くなった。宮台さんは泣いているだろうと思ったらご自分でそうtwitterされていた。そうだろうと思う。

西部さんはつらい人だと思う。本当はこうなりたかったわけではない何かになっていった自己を止められず誤解の渦の中に呑まれていったというのが現時点での私の考えかな。

そして、「保守」という態度に拘るよう設計されたことが最後まで韜晦を逃れ得なかったということなんじゃないか。

ではどこからその「保守」が来たのか。中曽根時代あたりがしかけた言論人の一人ということなのではなかろうかと思う。実際、西部さん自身が中曽根との噂に腹を立てている部分もあったようで、3年ぐらい前のMXで、中曽根から確かに金をもらったがそれはこんなものとその金で買ったという皮のコートを着て登場したことがあった。

中曽根時代といえば、もう一人重要な人がいる。梅原猛さん。梅原さんは中曽根にかけあって、あるいはおもねって、資金を出させて国際日本文化研究センターの設立を可能にした。wikiを見るとなんかさっぱりした記述になっていたが、このあたりは梅原さん自身があちこちで盛大に語っている。

このへんから、日本は素晴らしい系の発想が、戦前の京都学派っぽいノリと融合しつつ前に出て来たという感じでしょうか。

実際、梅原さんによれば、中曽根元首相は、サミットに行くと欧米の政治家たちが、やれシェークスピアだのなんだのと文化の話をするわけだ、しかし日本にだってすごいものがあるぞと見せなきゃならん、と語り、研究施設を作ろうということになったという話だった。発想がそもそも、日本文化の研究というより、外国人に誇るための日本文化研究だったのだなと私はその話を聞いた時そう思った(国際日本文化研究センターの動画の中にまだあると思う)。

言うまでもなく中曽根元首相といえばレーガン大統領と重なるわけで、ここらへんがソ連崩壊を目算に入れた、新しい保守をしかけていったんだろうなと思う。

 

しかし、にもかかわらわず、梅原さんは、九条の会の梅原さんなわけですよ。2004年に九条の会ができた時の発起人の一人として原点からかかわっている。

どうしてこうなったのか。

私は、原因は一つしかないと思う。それは、梅原さんは1925年生まれだから、1945年に20歳。京都大学の学生として戦争につぐ戦争をしていた日本、対米戦に入っていた日本、そして、守るといったってどうしようもない状態になって学生を大量に投入していった日本をリアルに知っていた人。

だから、国家が戦争をしようとする時のその作為が見え、感づき、これはいけないと思って行動に入ったということなんでしょう。立場作ってる場合やないでぇといったところ。

2015年の戦後70周年の時にインタビューを受けていたが、その短文の中でも、本土決戦などと勇ましい言論の影にある現実が描かれていた。

 大砲を引く馬はもう、3頭くらいしかいなかった。大砲も実弾なんか見たことないし、訓練らしい訓練はなかった。僕たちの中隊は、浄土真宗のお寺が宿所。中隊は2小隊からなり、60人くらい。年寄りの古参兵と新兵からなり、若く戦闘力のある兵士は、小隊に数人しかいなかった。

敵が上陸したら爆弾を持って戦車に体当たりせよ、と言われたが、そのための訓練があったわけでもない。

 僕たち兵卒は、玉音(ぎょくおん)放送を聞いていない。見習士官から、放送があり戦争が終わったと聞いた。予想以上に早く終わって助かった、と素直に嬉(うれ)しかった。

http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150815-OYT8T50017.html

また、戦前の知識人の記憶も重要。

 京都学派の哲学者による「世界史の哲学」という思潮が当時あってね。それは、今の日本の戦争は世界史の必然だ、日本の深い伝統的精神と西欧の浅い合理主義的精神との戦いだと。そういうことを、京大の西田幾多郎(きたろう)教授の弟子の高山(こうやま)岩男、高坂(こうさか)正顕(まさあき)などの学者が唱えていた。僕は必ずしも納得しなかったけど、世界史の哲学に、自分の死の理由を、戦争に行く理由を見つけようと思って、ずいぶん一生懸命、読んだな。

 高校卒業前、45年2月に京大を訪れると、高山先生が学生と討議していた。「なんで戦争せんならんのですか」「戦争を避ける方法もあったのでは」と問う学生に、高山先生が「戦争しなかったら、日本の道徳的エネルギーがダメになる」と。そのやりとりをまざまざと思い出すね。

このへんの知識人に対する評価が戦後相当期間芳しいものではなかったことを、現在の右派(または保守派)は一般に、戦後入ってきたGHQや左翼のせいにしている。チャンネル桜などはその典型。しかし、そうではないでしょう。生き残った人々が、彼らは勝手なことを言っていたと判断したからこそ誰も容易に顧みようとはしなかったまでのことでしょう。

この体験をした人は、ほとんどの場合、戦前に戻りたいという考えを持たない。

1939年生まれの西部さんにはこの体験がない。いや、それよりも問題だったのは歴史を知る間もなく安保闘争に入り、それを挫折として総括して、保守というタイトルを始終くっつけられた存在として自己規定する以外の道を見いだせなかったのではなかろうか。


西部さんは、保守という態度について様々なことを語った。亡くなったことを告げる記事の多くには「保守派の論客」というタイトルが付けられてもいる。

しかし、保守であるのならば、まず必要なことはその社会がよってたつ歴史の解明だったのではなかったか。

同じく60年安保の時代を大学生として生き、強い衝撃を受けたと思しきジャーナリストの末浪靖司さんは、人生の半分以上をかけて日米間の密約の研究をされてきた。末浪さんはおそらく左翼と分類されているのだろうと思う。しかし、私には、こちらこそ社会を保守しようとする民族派(ほとんどnationalist)にみえる。

【広告連動企画!!】 新刊『「日米指揮権密約」の研究』自衛隊はなぜ、海外へ派兵されるのか 岩上安身によるジャーナリスト末浪靖司氏インタビュー 2017.10.7

https://iwj.co.jp/wj/open/archives/400203

 

おそらくジャーナリズムはこれから、憲法改正を目算に入れることもあり、保守の真髄だの保守とは何かだの、国民の道徳とあった憲法だのといったことを書き、その中で西部さんに言及することになるんだろうと想像する。

しかし、西部さんはそれを望んだだろうか。望まないからこそ、保守ブームというある種のバブル幻想めいたいものをひっさげて死んでいったのではないのかと、私はそう思う。

いろいろ書いたけど、このブログでも何度も引用している通り私はこのおじいさんが好きだった。好きだったからこそ、おそらく望んでいなかったであろう方向へと消費され尽くされるであろうこの時代がたまらなく怖くもあり、そして氏に対して不憫な感情を持つ。

 


 


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1 コメント

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Unknown (名無しの権兵衛)
2018-06-04 00:58:15
西部氏と中曽根のなれそめは「小沢一郎は背広を着たあゴロツキである 私の政治家見験録」(飛鳥新社)に詳しいんですが、リクルート事件で中曽根に対する世評があまりにも辛辣だったのに判官びいきで同情しこちらから接近したみたいですね。
中曽根氏は自分が一番つらい時に助っ人に入ってくれた西部氏にそれなりに感謝はしてたし、家族ぐるみの付き合いがあり、西部氏は中曽根氏のことを「凡百の政治家とは違う一廉の人物」と評しながら近代主義や対米観に深刻な齟齬があり、それは結局克服できなかったみたいです。
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