なんとなくいわゆるネオコン+介入派が敗退している気がするなぁと思っているところなんだけど、日本においては、今日はいきなり八紘一宇問題が発生していた。思わず大爆笑してしまった。
ドイツもウクライナ問題では仕掛けた方に片足突っ込んでるから、またまたレーベンスラウム(生存圏)の思想復活か?と言っていえないこともないけど、片方の足はなんとしても停戦でしっかり踏ん張ってるし一般ドイツ人はそっちを支持しているので、その意味で欧州勢からの信頼をぶち壊すところまでは行ってない。
さて日本はどうなの、ってな最中に飛び込む「八紘一宇」。なんだかなぁ、もう。
三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言
http://www.asahi.com/articles/ASH3J6R68H3JUTFK00N.html
自民党の三原じゅん子参院議員(比例区・党女性局長)は16日の参院予算委員会の質問で、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」と述べた。八紘一宇は「世界を一つの家とする」という意味で、太平洋戦争中、日本の侵略を正当化するための標語として使われていた。 (太字、私)
そもそも、建国以来というけどそれっていつ?というのが日本ではあるわけですよ。日本というのはずっと昔から日本でしたと言い切れる非常に稀有な状況に恵まれたところで、成り行きで気がついたら国やってましたと言ってしまえる強さがあって、これをおおらかに受け取る道もあったけど日本式の暦の制定に拘ったので建国地点を特定することになりました、ってな事情がある。
(暦を自前で制定することに拘っていたことは東アジアに生きる身にとっては重要なので江戸時代にも熱心だったし、これあったればこその日本だと私は思ってます。だから明治政府がその意気を引き継いだのは喜ぶべき。)
で、そういうわけでどこからかわからない悠久の強みを持っていることはわかってるけど皇紀も欲しいってんで建国ポイント、つまり紀元を仮においてるってのが素直な日本の歴史解釈の第一歩だろうと思う。
さてそこで、「建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べる国会議員が現れたというのは、なんか、この人移民の子孫かなんか?というのが私の率直な感想。いやそれ、裏事情あって、みたいな。
外国に住んでいる頃の観察で思ったんだけど、移民の人って、メインの民族が成り行きで分かってることを知らないから、素っ頓狂に時宜通りに解釈したり、過剰適応したりしがちなんですよ。この人そういう人なの?と思ったけど、そういうことじゃないんでしょうね。
単純に、非常に物知らずだ、と。で、物知らずの人が、どこかでブリーフィングを受けて、みんながいいと言っているので、そうなんだ、建国以来の日本の大義なんだぁ、みたいに思って、このたび国会で「ご紹介」してくださったと。あはは。
もう、泣きそう。
右傾化というより無教養化、無学化というべき事態。
八紘一宇という四文字熟語は、大正期に日蓮主義者の田中智學が日本書紀の文を4文字に凝縮して作ったいわばかなり新しい造語でそれが昭和期に入って大陸政策全体のスローガンとして盛んに使われた、ってのは常識の部類だと思うんだけどなぁ。
八紘一宇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87
■ 「八紘一宇」なる着想
で、田中氏の思想については、GHQ焚書図書シリーズでも取り上げられていた。
GHQ焚書図書開封 第40回 国家主義者 田中智學の空想的一面
この中で、西尾幹二先生が『日本国体新講座』を読み進めて、こうなった。
ではどんなものなのかといえば、西尾先生がご苦労されつつ読み進めてくださっているので聞いてみればすぐにわかります。読み進められるうちに、唐突に、
「はんた~い!」
私こんなの絶対反対!と西尾先生が叫ばれているが、私も同感。
「浮かれちゃダメです、酔っ払っちゃダメです」、とまさにそんな感じ。
一言でいって、一体なぜこんなにも「おせっかい」になれるのか不思議でならない。日本という国が生まれたのは道義の故であって・・・という一言に、私はむしろ恐怖を感じた。
つまりね、日本は道徳的に高い、だからこの道義性の故にあまねく人々を導くのだ、というロジックで、そのロジックを体現するものとして「八紘一宇」があるわけ。
家々がみんな並んで兄弟よ、ってだけではなくて、家長は我々、なかんずく天皇陛下ってところまでがセットなわけね。
上でも書いたけど、私はこの「おせっかい」が怖しい。
日本人って歴史的にみて他国との干渉のしあいっこがあんまりない自然環境に住んでるんだから、こんなに独善的になる理由はない。
ということは、どこかから着想を得たのだろうかと折に触れて思うんだけど、これってアメリカの一極支配主義、例外主義と非常によく似てるんだよね。彼らも、我々は善良なヘゲモン(覇者)、だ、我々は他の誰とも異なり、他の誰よりも遠くを見通せる、だから我々が人々を導くのだ、ってな思想で突き進んでるんです。
なんで似てるのだろう。覇権主義者の普遍的な着想なんだろうか?
でもアメリカには名高い「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」があるので根はばれてるってか、有名。最初っから俺は他の人々とは異なる、俺だけ道徳的に高いという思想ね。
一方日本には「神州」という概念はあった。しかし、これはそもそも、邪悪なものが我々を倒せるわけはない、我々は神の国である、ってんで徹底的に防御の思想だよね。ある意味強がりともいえる。外征の必要性を感じていなかった民族だからどこまでも激烈なことを言っても別に無問題だった(他者との関係で表現されない)、とも言えるだろう。
そこで、仮説として考えてみるに、田中氏的な八紘一宇の精神で、ってな話は、この「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」に触発されてできた日本的解題なのではなかろうか? そういえば、石原莞爾氏の世界最終戦争は西代表のアメリカと東代表の日本で行われる予定だったらしいし・・・。
いずれにしても、私はこのスローガンを「建国以来の日本が大事にしてきた価値観」などと認める気はありません。むしろ、上の「GHQ焚書図書開封 第40回 国家主義者 田中智學の空想的一面」でも下の方で書いている通り、使命感が必要な戦争をしているから、そこから逆にこういう思想が必要になったのではないか、と思ってる。
こういう感じ。
例えば、九州を攻められたら、九十九里浜への敵の上陸が目前に迫っているのだとしたら、人は何を置いても防衛に向かうだろう。必要なのは有能な指揮官であって、そこに思想はいらない。しかし、日本が大陸において置かれた状況はこれとは大きく違う。この「無理」を肯定または支持するためには思想が必要だったということなのではなかろうか。
ま、なんてか、自民党も行くとこまで行っちゃったなって感じ。
満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦 (角川新書) | |
安冨 歩 | |
KADOKAWA/角川学芸出版 |
「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書) | |
エマニュエル・ドット | |
文藝春秋 |