小岩井農場。岩手県雫石町丸谷地。
2023年6月8日(木)。
小岩井農場資料館。上丸牛舎地区の中心にあり、小岩井農場の歴史や宮沢賢治との関わりなどの資料を展示している。
「小岩井農場施設 21棟」として、以下の建造物が国の重要文化財に指定されている(2017年2月23日指定)
(下丸地区)本部事務所、本部第一号倉庫、本部第二号倉庫、乗馬厩、倶楽部。
(上丸地区)第一号牛舎、第二号牛舎、第三号牛舎、第四号牛舎、種牡牛舎、育牛部倉庫、第一号サイロ、第二号サイロ、秤量場、冷蔵庫。
(中丸地区)四階建倉庫、玉蜀黍小屋(4棟)、耕耘部倉庫。
小岩井農場には、明治時代から昭和初期にかけて建設された牧畜関連の建築物がまとまって残っている。牛舎やサイロのほかに、事務所、倉庫、宿泊や職員の集会用の施設である「倶楽部」、煉瓦の躯体に土をかぶせた天然の冷蔵庫など、農場に関わる各種の建物が残っている。牛舎には大空間を確保するためにトラス架構が取り入れるなど、建築史のうえでも注目され、これらの建築群は日本の近代建築史、近代農業史を知るうえで価値が高い。これらの建物を使用しつつ保存するということが所有者である小岩井農牧の方針であり、文化庁もこうした所有者側の意向に理解を示している。牛舎では現在も牛が飼われており、現役の農場施設として使用しつつ保存している。
小岩井農場全体のジオラマ。
上丸地区・まきば園は上部中央にある。
小岩井農場は、岩手県盛岡市から北西約12kmに位置し、岩手山南麓に約3000ヘクタールの敷地面積を有する。その敷地の3分の2は雫石町、残り3分の1が滝沢市に属する。その内の約40ヘクタールが観光エリア“まきば園”として開放されている。
乳牛のほか、羊は約300頭程、放牧されている。また乗馬エリアでは“育馬事業”の名残だとされる当時の有名サラブレッドの紹介パネルがある他、数頭のサラブレッド、ミニチュアホース、引き馬などが飼われており、乗馬体験を行うことができる。
小岩井農場は、1891年(明治24年)1月1日、日本鉄道会社副社長の小野義眞(おの・ぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり3名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられて開設された。
当時のこの地域一帯は、岩手山からの火山灰が堆積し、木も生えていない火山灰地で、水はけも極端に悪く、冷たい吹き降ろしの西風が吹く不毛の原野で、極度に痩せた酸性土壌であったという。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林などの基盤整備に数十年を要した。
1899年(明治32年)に三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となった。
岩手山麓に広がる不毛の原野
1888年(明治21年)6月12日。この日、盛岡を訪れていた明治政府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広がる岩手山の南麓に広がる風景に目を奪われていました。それは、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地を前に、井上は、この荒れ果てた土地に大農場を拓くという、かつて誰も抱いたことのない夢を抱いたのです。
鉄道の父
井上勝は、日本の鉄道の父と言われる人物です。幕末の動乱期にイギリスに密航した伊藤博文、井上馨ら5人の長州藩士、いわゆる長州ファイブの一員で、近代土木技術、鉱山学などを学びました。帰国後は、1872年(明治5年)の新橋-横浜間の日本最初の鉄道敷設を始めとして、東海道本線、東北本線など、数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、日本の鉄道事業の基礎を作ったのです。盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事視察のためでした。
大農場への思い
岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸に去来したのは、長年、鉄道敷設事業に携わる中で、数多くの「美田良圃(びでんりょうほ:美しい田と良い畑)」を潰したことに対する悔恨の念だったといいます。このような荒野が手付かずで放置されているのであれば、せめてそれを開墾して大農場を拓くことで、美しい田園風景を損なってきたことの埋め合わせをしたい。それこそ、国家公共のためであり、自分がなすべき事業ではないか。井上はそう考えたのです。
小岩井農場の誕生
井上は、この構想を岩崎彌太郎のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼します。当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていました。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせます。国家公共のため、荒地に農場を拓きたいという井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したといいます。こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主となり小岩井農場が開設されました。小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字ずつ取って作られたものです。
小岩井農場の創業者
小野義眞(おの・ぎしん)。(1839~1905年)。
日本鉄道会社副社長。土佐藩(高知県宿毛市)出身。藩政時代は郷里の大庄屋であったが、維新後官途につく。退官後、三菱の創業者岩崎彌太郎の知遇を受け、その代理として三菱のために各方面に活躍する。日本鉄道会社には三菱を背景として参画し、後に社長となる。
岩崎彌之助(いわさき・やのすけ)。(1851~1908年)。
三菱社社長。土佐藩(高知県安芸市)出身。三菱の創業者・岩崎彌太郎の実弟。1885(明治18)年、彌太郎没後、三菱の第二代社長となる。海運から鉱山・炭鉱・造船・金融・不動産などに進出し、三菱の事業の多角化を図る。1896(明治29年)年から2年間、第四代日銀総裁も勤めている。
井上勝(いのうえ・まさる)。(1843~1910年)
鉄道庁長官。長州藩(山口県萩市)出身。幕末、伊藤博文(後に総理大臣)らと共に英国に渡り、鉱山・鉄道などの工学を専修した。帰国後は明治政府の鉄道頭となり、東海道線や東北本線などの幹線鉄道を完成させた。1893年 (明治26年)鉄道庁長官を退くまで二十数年に亘り鉄道事業の育成に尽くし、退官後、鉄道視察に赴いたロンドンで客死。
農場を守る防風林
開設当初、小岩井農場は一面の荒野で、木はほとんど生えていませんでした。水はけの悪い湿地帯で、吹き晒しの西風により、夏には冷たい風が吹き、冬には吹雪となって、作物の生育を妨げたのです。小岩井農場は、まず、この風を防ぐための防風林の植林や土塁を築くところから、事業を始めなければなりませんでした。この植林は後に農場面積の三分の二を目標として、スギ、アカマツ、カラマツなどの木材を産出する、本格的な山林事業へと発展していくことになります。
火山灰地を改良
土地の改良も同時に行われました。火山灰地特有の強い酸性の土壌を、当時最新技術だった石灰散布によって中和するとともに、水はけの悪い湿地帯には暗渠を設置して排水を確保することで、作物の生育に適した環境を整備していったのです。これらの基盤整備はその後、数十年にわたって続けられました。いま、小岩井農場に広がる山林や緑の牧草地は、こうした不断の努力の積み重ねによって、作られたものです。
西洋式農法の積極導入
当時、明治政府は食料の増産のために、農業の近代化に力を入れていました。イギリス留学の経験を持つ井上も、機械化、効率化された西洋式の大農場を実現することで、日本の農牧業に貢献しようと考えていたのです。小岩井農場の開拓や牛馬用の飼料作物の耕作においては、ハロー、播種器、レーキといったヨーロッパ式の進んだ農機具が積極的に取り入れられ、明治27年(1894年)には、蒸気機関の力でケーブルにつながれた犁(すき)を引くスチーム・プラウというイギリス製の大型機械も導入されています。
困難の連続
しかし、これらの努力にもかかわらず、開設から数年経っても、小岩井農場の経営は多難なものでした。土地の生産性が低く、井上らに農場経営の経験がなかったことや、明治のこの時代にまだ畜産物の流通市場が発展していなかったことなども、経営不振の原因でした。
岩崎家による経営へ
井上は、鉄道庁長官を退任した後も汽車製造会社の設立に奔走するなど、終生の仕事である鉄道事業が多忙を極めていたこともあり、経営改善の見通しが立たない農場事業を手放すことを決心します。明治32年(1899年)、小岩井農場の経営は、井上から岩崎家に引き継がれます。そのとき三菱を率いていたのは、創業者岩崎彌太郎の長男の岩崎久彌です。もともと動物好きで農牧業などにも造詣が深かった久彌のもとで、小岩井農場は新たな発展を遂げていきます。
岩崎久彌(いわさき・ひさや)。(1865~1955年)。
三菱の創業者、岩崎彌太郎の長男として現在の高知県に生まれる。明治27年(1894年)、三菱合資会社設立と同時に社長に就任、三菱の第三代社長となる。在職20年余、彌之助の展開した諸事業を発展させ、今日の三菱の根幹を築く。明治32年(1899年)、井上勝より小岩井農場を継承。経営基盤の充実を図り森林の創出・充実を目指すとともに、牧畜中心の運営を推し進めた。
畜種牛の生産供給
岩崎久彌は、明治初年来の国策である殖産興業の一翼を担い、日本人の体位向上に資するために畜産振興を目標に定めます。種畜の生産供給(ブリーダー事業)を主とし、その餌となる作物の耕作を行なうことを(畜主耕従)経営方針としました。オランダなどから輸入した乳用種牛をもとに品種改良を開始。全国の種畜場・牧場などに種畜を供給しました。これが現在に続く、畜産事業の始まりです。小岩井農場は、海外から優秀な種畜を輸入し、品種改良を行うと共に全国に優秀な血統の牛を販売することで、日本の酪農の発展に寄与したのです。
我が国の乳業事業をリード
小岩井農場を語る上で欠かせないのは、新鮮な牛乳とそれを用いた乳製品ですが、これらが事業として開始したのもこの時期です。飲用乳、バター、チーズの製造技術の確立を図り、我が国の乳業事業の発展に貢献しました。
生乳から生クリームを得るためのセパレーター。冷蔵庫。
農場の暮らし(私立小岩井尋常小学校)
農場の経営が拡大する中で、農場員もその子弟も増え続けていきました。これに対応するため、久弥は、明治37年(1904年)私立小学校「私立小岩井尋常小学校」を設立しました。昭和25年(1950年)に公立化されるまで、全国でも珍しい農場立の小学校として、数多くの従業員の子弟が卒業しています。親子二代、三代で農場に務める卒業生も少なくありませんでした。久彌自身も小学校に深い関心を持ち、農場訪問の際は子どもたちにノートなどの土産を用意していたそうです。
サラブレッドの生産
乳用牛のブリーダー事業に加え、当時の小岩井農場の経営を支えたのが、競走馬の生産を核とする育馬事業です。イギリスからの輸入された優秀な種牡馬から生まれた小岩井農場の競走馬たちは、昭和初期に創設された日本ダービーをはじめとする戦前の競馬界で燦然たる成績を挙げています。育馬事業は第二次世界大戦後に終息しますが、小岩井農場が残した名馬の血脈は、北海道や東北の牧場に散らばり、現在も数多くの活躍馬を出し続けています。
農林畜産業を基軸とした多角的展開
第二次世界大戦後、GHQの占領政策のため、農場用地約1,000ヘクタールを解放するとともに、経営の重要な柱のひとつであった育馬事業を廃止しました。この経済的打撃は大きかったのですが、後に多くの事業に挑戦するきっかけともなりました。戦後の経済復興とその後の高度成長の時代にかけて、小岩井農場は農林畜産業を主軸に、複合的・多角的に事業の展開を図り、現在に至っています。
ブリーダー事業から生乳生産へ
乳牛の育種改良事業も様変わりしました。官主導とする農業政策転換に対応するため、長く事業の根幹を支えていたブリーダー事業に代わって、搾乳牛の多頭飼育による生乳の生産に注力することになります。飲用乳・バター・チーズなどの製造・販売を本格的に展開することになりました。1976年(昭和51年)には、この事業を分離し、キリンビール株式会社との合弁で小岩井乳業株式会社を設立しました。
林業の変遷
戦後、収益的に農場経営の柱となった林業は、大口需要先であった鉱山の相次ぐ閉山、外材輸入の急増という状況に対応し、資源の温存を図りつつ、環境保全・景観保全、山林の多角的機能を大切にする方針に転換しました。この林業で培った技術は、後に環境緑化エンジニアリング事業につながっていきます。