鉄の歴史館。岩手県釜石市大平町。
2023年6月12日(月)。
釜石市の北にある大槌町吉里吉里(きりきり)の吉里吉里善兵衛歴代の墓地(前川善兵衛の墓)を見学後、釜石市市街地南にある「鉄の歴史館」へ向かった。
釜石は、1857年(安政4年)、盛岡藩士大島高任(たかとう)により日本で初めて高炉法での出銑に成功した、わが国の近代鉄産業発祥の地である。
鉄の歴史館は、近代製鉄の父、大島高任の偉業と釜石の製鉄業に携わった先達の偉業を後世に伝え残すために1985(昭和60)年にオープンし、1994(平成6年)に鉄の総合的な資料館としてリニューアルした。
釜石西部の大橋地区で、1727(享保12)年、盛岡藩出身の阿部友之進が磁鉄鉱を発見したが、しかし藩は採掘禁止とした。1856(安政3)年。水戸藩の要請で反射炉の操業に成功した大島高任が、その翌年、盛岡藩の許可を得て、釜石の大橋地区に高炉を築造。大橋産の良質な磁鉄鉱を使って、日本で始めて連続出銑に成功した。1857(安政4)年12月1日は日本における近代製鉄の幕開けとなり、鉄の記念日として今に伝えられている。
釜石鉱山鉄道C 20形蒸気機関車209号。
209号は、富山県の立山重工業製、1943年2月竣工。全長8,316mm全幅2,100mm全高2,800mm。1965年3月28日の最終列車を牽引した。
1910年の蒸気動力への転換以降、762mm軌間の軽便鉄道である釜石鉱山鉄道では10t - 15t級のタンク式蒸気機関車を順次導入していた。1930年代に入り満州事変などの影響で鉄鉱石輸送需要が急増し輸送力強化が求められる中、強力な20t級新型機関車の新造が決定され、1933年からC 20形機関車の製造を開始し、日本車両製造などで9両が製造された。C 20形機関車は、1965年3月の釜石鉱山鉄道線廃止まで32年にわたって同鉄道線の主力機関車として重用された。
釜石鉱山鉄道は、かつて釜石市の釜石 - 大橋間に存在した釜石鉱山から釜石製鉄所への鉱石を輸送するための鉄道(鉱山鉄道)である。
日本で3番目の鉄道として開業したものの僅か3年で廃止され、その後馬車鉄道として復活し、後に蒸気運転に切り替えられ、何度も経営母体が変わってその過程で旅客を扱うようになり、さらには並行して国鉄釜石線が開業してその旅客扱いが廃止されるなど、複雑な経緯をたどっている。
1880年(明治13年)2月17日 工部省釜石鉄道として、釜石桟橋 - 大橋間18kmの本線と小佐野 - 小川山(わらびの)間4.9kmの支線、さらに工場への支線を含めた総延長26.3kmの鉱山専用鉄道試運転開始。
9月7日 製鉄所・鉄道仮開業式。新橋駅 - 横浜駅(現、桜木町駅)間鉄道、京都駅 - 神戸駅間鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道である。軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであった。機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入したサドルタンク式の3両を使用した。
1882年(明治15年)12月 官営製鉄所の操業停止と鉱山閉山により、鉄道全廃。
釜石鉱山馬車鉄道。
1884年(明治17年) 政府御用商人の田中長兵衛と、その娘婿であった横山久太郎が鉱山再興に着手。
1887年(明治20年)7月に釜石鉱山田中製鉄所が設立される。
1894年(明治27年) 製鉄所と大橋の鉱山を結ぶ釜石鉱山馬車鉄道が、釜石町 - 甲子村間に軌間762mmで開業。
蒸気鉄道化以後。
1911年(明治44年)11月3日 馬車鉄道は蒸気運転に切り替えられた上で、鈴子(後、釜石→釜石製鉄) - 大橋間15.52km間は二代目・田中長兵衛の個人経営鉱山鉄道(地方鉄道)となる。
1914年(大正3年) 釜石電気により、大橋 - 仙人峠間に貨物用の索道開通。また、岩手軽便鉄道(後、釜石西線→釜石線)の遠野駅 - 仙人峠駅間開通。
1915年(大正4年)11月23日 岩手軽便鉄道、花巻駅 - 仙人峠駅間全通。鉄道・索道による花巻 - 釜石連絡ルートが完成。現在の釜石線の原型ができた。
1917年(大正6年)3月 法人の田中鉱山に鉱山鉄道譲渡。
1924年(大正13年)7月11日 田中鉱山が三井財閥下に入り、釜石鉱山に社名変更。
1934年(昭和9年)2月1日 日本製鐵設立により、釜石製鉄所は同社の経営となる。
1939年(昭和14年)9月17日 鉄道省山田線の盛岡駅 - 釜石駅間全通。
1940年(昭和15年)2月22日 日本製鐵傘下の日鉄鉱業の経営となる。
1944年(昭和19年)10月11日 日鉄鉱業線の一般旅客・貨物営業廃止、専用鉄道に転換。釜石駅 - 陸中大橋駅間に、日鉄鉱業線に並行して貨物線の釜石東線が開業。
1945年(昭和20年)6月15日 釜石東線の旅客営業開始。
1950年(昭和25年)10月10日 足ヶ瀬駅 - 陸中大橋駅間開業に伴い、釜石西線・釜石東線を統合して花巻駅 - 釜石駅間の釜石線全通。日鉄鉱業線で残されていた通勤旅客輸送も廃止され、富士製鐵の鉱石貨物専用線となる。
1965年(昭和40年)4月1日 全線廃止。
近代製鉄の父 盛岡藩士 大島高任
文政9年(1826)5月11日、盛岡藩の侍医・周意(かねおき)の嫡子として盛岡に生まれた。17歳から江戸や長崎に出て蘭学を修めるとともに、西洋の兵法・砲術を体得し、採鉱・冶金術等の学技を修めた。その後、水戸藩の徳川斉昭のもとで那珂湊に反射炉を築造、大砲鋳造に成功したが、従来のまま砂鉄銑を原料としていては性能の優れた西洋の大砲に太刀打ちすることができないため、鉄鉱石による良質銑が必要となった。
大島高任は、釜石の西方・大橋地区に洋式高炉を建設し、安政4年12月1日(1858年1月15日)に、我が国で初めて鉄鉱石精練による出銑操業に成功した。このほか、橋野、佐比内、栗林、砂子渡など、高任やその弟子たちの指導で13座の高炉が築かれた。
その後、帰藩して蘭学・医学・物理・化学・兵術・砲術を学ぶ日新堂を創設した。さらに、火薬による採掘法、他鉱山の技術指導・経営などに参画した。
明治以降、岩倉遣欧使節団に加わり、ヨーロッパの製鉄技術や採鉱技術を学び、帰国後は全国各地の鉱山で活躍するほか、我が国で初めての坑師学校(専門学校)や工学寮(現東大工学部)の設置を進言して創設に携わった。そのほか、ワインの国産醸造の先駆など、その活躍は多方面にわたった。明治34年(1901)3月29日、76歳で没した。