いでは文化記念館。山形県鶴岡市羽黒町手向院主南。
2024年9月11日(水)。
羽黒山の山頂地区を見学後、麓へ下りて「いでは文化記念館」を見学した。
いでは文化記念館は、出羽三山文化と修験の世界を学び、体験し、未来へ伝える拠点として設立された記念館である。資料展示の他、法螺貝試吹体験や山伏修行体験も行っている。いでは文化記念館内には羽黒町観光協会の事務所もある。
修験道の概念。
日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教である。
修験道の思想と目的。
修験道は現実をそのままを究極の真理とみる現実肯定主義である。そのあらわれとして、修験者の目的は即身成仏することで、この身このまま現世において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間になることである。
*近年まで国宝羽黒山五重塔には、自然のままの衆生のあり方を示す三身の額が掲げられていた。
・法身(ほっしん)-真理そのもの
・報身(ほうじん)-悟りの結果得た身
・応身(おうじん)-衆生救済のために仮にあらわれた姿
修験道の語彙。
・修-験を得るために努力精進し、霊験力や呪術力を身につけること。
・験-祈祷の結果としてのしるし(即身成仏したことの証)
・道-修行の方法を研究し、実践するための最高の手段と方法。
道という理由。
一宗をたてるためには、それにふさわしい独自の教義・教法をもたなければならない。しかし、修験道は神道・密教・陰陽道・道教などを取り入れ、それらの教説や教義と習合して成立していることから、独自の教義や教法はなく、あくまでも目的を達成するための手段と方法を重んじる。
修験道の権現信仰と威神力。
霊山を行場とする修験道では神仏を一体ととらえ、山を守護するものを権現として拝した。
未木文美士氏は『日本仏教史』の中で、神仏習合の展開において神の仏への従属形態を、1神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする。(神宮寺)2神は仏法を守護する。(護法神)3神は仏が衆生救済のために姿を変えて現われた。(権現・垂迹)以上の3通りとし、1と2が奈良時代からはじまるのに対し、3はやや遅れてはじまり、その形態は神仏を一体ととらえるもので、平安中期になると「権現」「垂迹」という語が見られる。そして平安後期からは、どの神がどの仏の垂迹であるかが個別的に確定してゆく、と記している。
またその威神力について、戸川安章氏は『新版出羽三山修験道の研究』で、修験者は神と仏の威神力を「応現」といい、神仏は虚空と同体だから一定の住所はなく、衆生の中心に住んで影の形に従うように常に離れない。しかも、信仰を持たないものにはその姿は見えず、加護も得られないが、信ずる心さえあれば、それぞれの願いに応じて利益を与え給う。それゆえ、神は変幻自在の力をそなえている。しかし、居ながらにして拝するよりも、神々の本来の住所に参上する方が礼儀にもかない、利益も多い、と説明している。
羽黒派とは。
修験道は中世以来、天台・真言・華厳などの諸宗と深く関わりをもっていたが、しだいに教団的組織を整えるようになり、のちに本山派(天台系)・当山派(真言系)と発展し、鎌倉時代には羽黒山にも巨大な修験者の教団が成立していたことが、『吾妻鏡』の承元三年(1209)五月五日の条によって知ることができる。
出羽三山における権現。
羽黒山-・聖観世音菩薩(仏)・伊氐波神(産土神)・稲倉御魂命(穀物神)
月山-・阿弥陀如来(仏)・月読神(農耕神)
湯殿山-・大日如来(仏)・大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神) ・少彦名命(医薬神)
芭蕉と呂丸。
月山の山小屋。
羽黒山。鳥居、随神門。
いでは文化記念館の見学を終え、受付で国宝・羽黒山五重塔が修理中なので見学できなくて残念だというと、見学できるようになったという。90年代後半に見学しているので、見学できなくても仕方がないと思っていたが、せっかくなので見学することにした。五重塔を見たことは覚えていたが、アクセスは全く覚えていなかった。すぐ近くにある鳥居北側の駐車場に駐車して鳥居をくぐると、右側の「天地金神社」から賑やかな御神楽が聞こえてきた。帰りに通ると、神主や巫女が帰っていくところだった。
随神門からは継子坂(まなこざか)の石段を下る。
降りた場所には摂社が数軒並んでいた。そこからは、川沿いの平行道が続く。
須賀の滝。禊場なのだろう。
羽黒山の爺杉(じじスギ)。
修験者らが禊を行った祓川(はらいがわ)に架かる朱塗りの橋を渡るが、その先を左手に入ったところに爺スギは生育しており、爺スギの右手後方には国宝の五重塔が屹立している。
スギの巨樹老木が多数生育する羽黒山の山中でも最大規模のスギで、根回り10.5メートル、目通り幹囲7.8メートル、直立する樹高は約42メートルに達する。推定樹齢は約1000年で、別名「千年杉」とも呼ばれる。
隋身門から羽黒山山頂の出羽神社までの、約1.7キロメートル続く石段の両側に、推定樹齢350年から500年超と推定される総計400本以上もの杉並木が続いている。この杉並木は羽黒山のスギ並木として国の特別天然記念物に指定されており、羽黒山の神域でもある周辺一帯は、主にスギの巨樹老木で占められた昼なお暗い鬱蒼とした深い森林地帯で、その中でもスギの一個体樹木として最大規模のものが「羽黒山の爺スギ」である。
国宝・羽黒山五重塔。
東北地方では最古の塔といわれる。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である。
平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置していたが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(ちよりしゃ)」となっている。
このあと、鶴岡市街地に戻って、致道博物館を見学した。