マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

五百羅漢寺(目黒)

2009年09月22日 | 東京散歩

 7月上旬、父の墓参りに、目黒にある俗称岩屋弁天(蟠龍寺)に出掛け、その帰り”五百羅漢”から”元競馬場”へと足を伸ばしました。
 
 マーちゃんが生まれたのは目黒不動尊のすぐそば。よく遊んだのは蛸薬師(成就院)の庭先。中学へは五百羅漢寺の脇の坂道を登り、目黒不動尊の裏手に出て通学していました。思えば神社仏閣の多い地域で生まれ育ったものです。特に目黒不動尊の毎月28日の縁日が待ち遠しく、小銭を持ってよく出掛けたました。でも通学途中の”五百羅漢”にある仏様達の形相は物凄く、恐ろしい感じがして、出来れば仏様の顔は見ないようにして、足早に通り過ぎたのものでした。
 
 『目黒不動の佇まいは大好きです。初めて訪れた五百羅漢寺ではあまりの迫力に鳥肌が立ちました』とのメールが、街並みを描き続ける画家のKさんからありました。あの五百羅漢に感動する方がいる事が驚きでしたが、50余年前の昔とは大きく変わったらしい事が推測出来ました。丁度その頃伊東克代著「現代遺跡発見の旅」(交通新聞社)を読んで、そこに登場する「目黒競馬場」の跡地を歩いて見たくなり、墓参りの帰りに五百羅漢寺→目黒不動尊→母校→元競馬場 の散策を思い立ったのでした。

 五百羅漢寺は、江戸時代に松雲元慶によって開かれた浄土宗系のお寺。現在そこには開基元慶が独力で彫り上げた300余りの羅漢様達が鎮座されています。江戸時代には、このお寺は、「葛飾北斎」の『富嶽三十六景』にも描かれているとの事。
 その五百羅漢寺へ行ったときの私からkさんへの感想メールです。
 『「五百羅漢」へ寄りました。もう何十年振りかの事です。中学時代この脇を通り通学していました。荒れた感じのお寺で「五百羅漢」の仏様は何か怖いという印象しか持っていませんでした。まるで感じが違っていました。この仏様たちを制作した作者元慶の気迫に圧倒される想い。仏様の傍に掲げられた一言一言の多くが胸に沁みこんで来ます』

 このメールには書き忘れましたが、本堂をお参りした後、お寺の脇に廻ると、吃驚するものがありました。
 原爆で亡くならた劇団「桜隊」の慰霊碑があったのです。不明にして全く知りませんでした(不明な事が多すぎます)。やや長い文章ですがインターネットから引用させていただきます。
 
 『広島での巡演中に9名全員を原爆で失った劇団です。
 移動演劇隊「桜隊」は、1945年8月6日広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し居合わせた9名全員の命を奪われました。

 メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫、元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子、裸体にシートをまとい避難列車で帰郷し、東大行院に入院し原爆症一号患者として亡くなった仲みどり などがいます。
 (中略)
 戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に「桜隊原爆殉難碑」が建立され、今日まで毎年8月6日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しています』とあり、碑にも同様な事が刻まれていました。
 
 ここにも原爆により悲惨な死をとげられた方々がおられました。
 核廃絶に向けての報道を注目しています。
 (このブログ 次回に続きます)